第八章 ヴィクターとルシアン
玉座の間を出たヴィクターは、長い廊下を歩いていた。
背後で扉が閉じる。
その向こうに、父がいる。
まだ戦は始まっていない。
王都の外では反乱軍が待機し、王宮の兵たちは持ち場についている。
遠くから、兵たちの怒号と馬の蹄の音が聞こえていた。
ヴィクターは歩みを止めなかった。
手には剣がある。
だが、まだ血はついていない。
先ほどの父との会話が、頭から離れなかった。
――私は、お前がそうなることを望んでいる。
――まだ、お前には早かった。
――最後まで、自分で決めろ。
あの言葉を聞くために、ここまで来たわけではない。
いや。
本当は、あの言葉の先を聞くために来たのかもしれない。
ずっと欲しかった言葉。
「お前の方が優れている」
父の口から、それを聞きたかった。
自分が正しかったと。
父の判断が間違っていたと。
自分の方が王にふさわしいと。
それを、父自身に認めさせたかった。
だが、父は最後まで言わなかった。
ヴィクターは足を止めた。
窓の外を見る。
王都の向こうには、反乱軍がいる。
自分が集めた兵。
自分についてきた者たち。
自分の言葉を信じて、ここまで来た者たち。
もう、後には戻れない。
ここで剣を収めれば。
父に頭を下げれば。
「間違っていました」と言えば。
まだ生きられるかもしれない。
父なら、きっとそれを望むだろう。
だが、それでは何も証明できない。
父が間違っていたことも。
自分が正しかったことも。
自分が父より優れた王になれることも。
全部、父の言葉一つで決まってしまう。
それでは駄目だった。
父に認めてもらうのではない。
父の判断そのものを覆す。
父が「まだ早い」と言った自分が、父の前で王になる。
父が王にしなかった自分が、自分の手で王座を奪う。
そこまでやって初めて。
自分の選択が正しかったと証明できる。
ヴィクターは目を閉じた。
そして、静かに息を吐く。
決めた。
父を倒す。
王位を奪う。
自分が王になる。
それはもう、怒りだけの決断ではなかった。
戻れなくなることも分かっている。
父を殺せば、二度と父の言葉を聞くことはできない。
それでも。
それでも、やる。
「……私が、証明する」
誰もいない廊下で呟いた。
それが、ヴィクター自身の選択だった。
ヴィクターは再び歩き出した。
玉座の間へ戻る。
扉を開ける。
ルシアンは、まだそこにいた。
玉座の前に立っている。
先ほどと同じ姿だった。
ただ、遠くから聞こえていた戦の音だけが、少しずつ大きくなっている。
「……戻ったか」
「はい」
ヴィクターは扉を閉めた。
二人きりになる。
ルシアンは息子の手元を見た。
「まだ、決めていないのかと思った」
ヴィクターは答えなかった。
剣を抜く。
鞘から刃が滑り出る。
鋭い音が、静かな玉座の間に響いた。
ルシアンも剣を抜いた。
「そうか」
それだけだった。
二人の間に距離ができる。
父と息子。
王と反逆者。
そのどちらが本当の関係なのか、もう分からない。
ヴィクターが先に踏み込んだ。
剣がぶつかる。
甲高い音が、玉座の間に響いた。
ヴィクターは一度下がる。
ルシアンは追わない。
再び踏み込む。
今度は横から斬り込む。
受け止められる。
押し返される。
ヴィクターの身体がわずかに流れた。
すぐに体勢を戻す。
昔なら、ここで父の次の動きを待っていた。
剣の稽古をつけてもらっていた頃。
ルシアンはいつも、ヴィクターより一歩先にいた。
剣の振り方。
足の置き方。
相手を見る場所。
何度やっても勝てなかった。
「もっと相手を見ろ」
昔の声が、一瞬だけ蘇る。
ヴィクターは歯を食いしばった。
今は違う。
父の動きを読む。
踏み込み。
肩。
視線。
剣先。
すべてを見る。
ルシアンの剣が迫る。
ヴィクターは避けた。
すぐに返す。
剣が肩口をかすめる。
ルシアンが一歩下がった。
初めてだった。
父が、自分の一撃で下がった。
ヴィクターの胸に、熱いものが込み上げる。
勝てる。
そう思った。
ほんの一瞬だけ。
幼い頃から何度も追いかけた背中が、今は手の届くところにある。
ヴィクターは剣を握り直した。
「……父上」
ルシアンは答えない。
「私は」
息を整える。
「ずっと、あなたを越えたかった」
ルシアンの目がヴィクターを見る。
「知っている」
その言葉に、ヴィクターの動きが止まった。
知っていた。
最初から。
自分が何を求めていたのか。
何を証明したかったのか。
全部。
ヴィクターの胸の奥に、苛立ちが広がる。
「ならば――」
剣を構える。
「なぜ、認めなかったのですか」
ルシアンは静かに答えた。
「まだ、認められるものがなかったからだ」
ヴィクターの目が揺れた。
「……今も?」
「ああ」
その答えは、あまりにも簡単だった。
怒りよりも先に、空しさが来る。
ここまで来た。
兵を集めた。
父に逆らった。
国を巻き込んだ。
そして今、目の前に父がいる。
それでも。
まだ足りない。
ヴィクターは剣を握り直した。
「ならば」
声が震える。
「これで、どうです」
踏み込む。
剣がぶつかる。
一度。
二度。
三度。
互いの刃が何度も交わる。
ルシアンの剣は重い。
だが、ヴィクターの動きは以前とは違っていた。
追放されてから覚えたこと。
村で生きるために覚えたこと。
自分で考え、自分で選び、自分で失敗したこと。
それらすべてが、今の剣に繋がっている。
ヴィクターは一歩踏み込んだ。
ルシアンが受ける。
その瞬間、ヴィクターは剣を引いた。
ルシアンの身体がわずかに開く。
そこへ、刃を振る。
ルシアンが避ける。
しかし、完全には避けきれない。
肩から血が流れた。
ヴィクターが息を呑む。
ルシアンは傷口を見た。
そして、ヴィクターを見る。
「……強くなったな」
ヴィクターの心臓が、大きく跳ねた。
その言葉だけだった。
それだけなのに。
幼い頃から欲しかったものに、少しだけ触れた気がした。
けれど。
「それでも、まだだ」
ルシアンは続けた。
ヴィクターの顔から、わずかな喜びが消える。
まただ。
いつもそうだった。
あと少し。
もう少し。
届きそうになったところで、父は先へ行ってしまう。
ヴィクターは剣を握った。
強く。
もう一度、踏み込む。
ルシアンも迎え撃つ。
刃が交わる。
互いに譲らない。
足音。
呼吸。
金属音。
遠くの怒号。
鐘。
すべてが混ざっていく。
そして、一瞬。
ヴィクターの剣が、ルシアンの剣を弾いた。
ルシアンの身体が崩れる。
ヴィクターは迷わなかった。
剣を振る。
ルシアンの身体が止まった。
静かだった。
あれほど大きく感じていた父の存在が、目の前で急に小さくなっていく。
剣が床に落ちる。
ルシアンの身体が、ゆっくりと膝をついた。
ヴィクターは動けなかった。
「……父上」
ルシアンは答えない。
ヴィクターは剣を下ろした。
自分の手を見る。
震えている。
血がついていた。
父の血だった。
「……勝った」
声に出してみる。
誰に聞かせるでもなく。
ただ、自分自身に確認するように。
「私は……勝った」
その瞬間。
胸の奥から、何かが湧き上がった。
喜びだった。
長い間、追い続けていたもの。
父を超えた。
自分の判断が正しかった。
自分の方が優れていた。
ついに証明した。
ヴィクターは笑った。
ほんの少し。
「……父上」
もう一度呼ぶ。
今度こそ、答えが返ってくる気がした。
だが。
ルシアンは動かなかった。
「父上?」
ヴィクターが近づく。
膝をつく。
ルシアンの顔を覗き込む。
目は、もう動かない。
「……」
ヴィクターの笑みが消えた。
さっきまであった喜びが、ゆっくりと形を失っていく。
違う。
何かがおかしい。
こんなはずではなかった。
父を倒せば。
父が自分を見れば。
そして、自分が勝ったと分かれば。
きっと――。
「……私は」
声が出ない。
ルシアンの肩に触れる。
冷たくなり始めている。
そこで初めて、ヴィクターは理解した。
父はもう、自分に何も言わない。
これから先も。
もう二度と。
自分がどれだけ国を治めても。
どれだけ優れた判断をしても。
どれだけ父より良い王になっても。
その結果を見てくれる父は、もういない。
「……父上」
返事はない。
ヴィクターはゆっくりと立ち上がった。
そのときだった。
視界の端に、何かが映った。
玉座の近く。
そこに、王冠が置かれていた。
ヴィクターは動かなかった。
それを見つめる。
これまで何度も見たはずのものだった。
王宮にいる間、何度も目にしてきた。
だが。
今まで、それを自分のものとして見たことはなかった。
王冠は、父のものだった。
父が王であることを示すもの。
自分がいつか受け継ぐはずだったもの。
けれど、父は自分を王にしなかった。
だから、自分で奪うと決めた。
ヴィクターはゆっくりと歩み寄った。
王冠の前で立ち止まる。
手を伸ばす。
指先が触れた。
冷たい。
思っていたより、ずっと重い。
ヴィクターは両手で持ち上げた。
その重さを確かめるように、しばらく見つめる。
これが欲しかった。
これを手にすれば。
父が王で、自分が息子だった時間は終わる。
これを被れば。
自分が次の王になる。
父の判断によって決められた自分ではない。
父に選ばれるのを待つ息子でもない。
自分で王になる。
ヴィクターは王冠を頭に乗せた。
その瞬間。
何かが変わった気がした。
けれど、何も変わっていなかった。
玉座はそこにある。
王冠もある。
父の身体も、そこにある。
ヴィクターはゆっくりと振り返った。
自分の父を見る。
いや。
もう、父ではない。
王でもない。
ただ、死んだ一人の人間として、そこにいる。
その現実が、ひどく重かった。
ヴィクターは玉座へ目を向ける。
今なら座れる。
誰にも止められない。
父がいなくなった今、自分が王だ。
自分で選び。
自分で戦い。
自分で父を倒した。
だから、この王冠は自分のものだ。
そう思った。
思おうとした。
けれど。
胸の奥に、消えない疑問が残っている。
自分が欲しかったのは、本当に王冠だったのか。
それとも。
この王冠を被った自分を見て、
「お前の方が優れている」
と言ってくれる父だったのか。
答えを確かめようとして、ヴィクターは父を見る。
当然、答えは返ってこない。
もう二度と。
ヴィクターは目を伏せた。
王冠の重さが、急に増したように感じた。
「……私は」
言葉が続かない。
父を倒した。
王になった。
自分で選んだ。
自分で勝ち取った。
すべて、望んでいた通りだった。
なのに。
一番欲しかった答えだけがない。
ヴィクターは父の前に立ったまま、静かに呟いた。
「……私は本当に、父を超えたのか?」
答える者はいなかった。




