第三章 ヴィクターの失敗と追放
王宮には、国の内外から様々な知らせが届く。
その日、北方の国境近くにある小さな領地で、隣国の兵士が国境を越えたという報告が入った。
数は多くない。
だが、その土地は両国の間で以前から揉めている場所だった。
兵士が国境を越えた理由は、まだ分かっていない。
偶然かもしれない。
命令を受けてのことかもしれない。
あるいは、何か別の意図があるのかもしれない。
「どうする?」
王の執務室。
ルシアンは、机の上に置かれた報告書から顔を上げた。
その前に立っているのはヴィクターだった。
「国境の兵を増やします」
「どれくらいだ」
「三千」
ルシアンの眉がわずかに動いた。
「理由は?」
「向こうが何をするつもりなのか分からないからです」
「分からないから、三千か」
「はい」
ヴィクターは迷いなく答えた。
「兵を出さなければ、相手はこちらが動かないと判断する可能性があります。ならば、先にこちらが備えていることを見せるべきです」
「それで?」
「相手が退けば、それで終わります」
「退かなかったら?」
「その時は――」
ヴィクターは一度だけ報告書に目を落とした。
「戦う準備があります」
ルシアンは黙っていた。
「今ならまだ、戦争にはなりません」
「そう思うか?」
「はい」
「理由は?」
「こちらから攻撃するわけではありませんから」
ルシアンは椅子に深く座り直した。
「……分かった」
ヴィクターは一礼した。
「では、兵を――」
「待て」
「はい」
「私なら、兵を出さない」
ヴィクターが顔を上げる。
「なぜです?」
「相手が何を考えているか分からないからだ」
「だからこそ、備えるべきでは?」
「備えることと、兵を動かすことは同じではない」
「ですが――」
「ヴィクター」
低い声だった。
ヴィクターは口を閉じた。
「今は待て」
「……承知しました」
そう答えた。
だが、納得はしていなかった。
翌朝。
北方から、さらに報告が届いた。
国境付近に、隣国の兵が増えている。
そして、その日の午後。
ヴィクターは自らの判断で、国境へ兵を向かわせた。
王の許可は取っていない。
このまま待っていれば、相手の兵力がさらに増える。
そうなれば、こちらが動くこと自体が難しくなる。
だから、今動く。
ヴィクターはそう判断した。
三千の兵が北へ向かった。
しかし――
その二日後。
隣国から使者が来た。
国境付近にいた兵士たちは、ただの演習部隊だった。
こちらを刺激する意図はなかった。
そして、こちらが兵を動かしたことで、隣国は逆に警戒を強めた。
国境にはさらに兵が集まり始めた。
戦争になる可能性が、一気に高くなった。
王宮の会議室。
大臣たちが集められていた。
重苦しい空気の中、ヴィクターは黙って立っていた。
ルシアンは報告書を閉じた。
「兵を戻せ」
「……はい」
「すぐにだ」
「分かりました」
ヴィクターが部屋を出ようとした時だった。
「ヴィクター」
足が止まる。
「今回の件について、お前はどう考えている?」
「……結果としては、私の判断が悪かったと思います」
「結果としては?」
「はい」
「では、判断そのものは?」
ヴィクターは少し黙った。
「……間違っていたとは思いません」
部屋の空気が止まった。
大臣たちが互いに顔を見合わせる。
ルシアンだけは、表情を変えなかった。
「そうか」
「父上。私は、あの時点で得られる情報から判断しました」
「分かっている」
「何もしない方が危険だと思ったからです」
「それも分かっている」
「ならば――」
「だが、お前は自分の判断が間違っている可能性を考えなかった」
ヴィクターが黙る。
ルシアンは続けた。
「お前は、自分が賢いと思っている」
「……」
「それ自体は悪いことではない」
ヴィクターは父を見る。
「だが、王には必要だ。自分が間違っているかもしれないと疑うことが」
「私は、逃げているわけではありません」
「分かっている」
「結果については責任を取ります」
「結果だけではない」
ルシアンの声が低くなる。
「判断を誤ったなら、その判断も自分の責任だ」
「……」
「王になるなら、自分が正しいと思ったことに固執するな」
ヴィクターは拳を握った。
「父上だって、間違うでしょう」
「ああ」
「ならば――」
「だから私は、お前より長く王をやれている」
ヴィクターは言葉を失った。
ルシアンは静かにヴィクターを見た。
「私は、自分の判断が間違っている可能性を考える」
「……」
「間違っていれば、変える」
それだけだった。
「だから、お前を王にはしない」
その言葉だけは、はっきりしていた。
ヴィクターの顔が強張った。
「……私を?」
「ああ」
ルシアンは机の上の報告書に目を落とした。
「今回の件は、すでに大臣たちにも報告してある」
ヴィクターは黙って父を見る。
「明日、正式に処分を告げる」
「……」
「王位継承権を剥奪する」
ヴィクターの表情がわずかに強張る。
「そして、王都から追放する」
「なぜです」
「今のお前に国を任せるわけにはいかない」
ヴィクターはしばらく何も言わなかった。
やがて、低い声で言った。
「……私が、あなたの息子でも?」
ルシアンの目がわずかに細くなる。
「逆だ」
「……?」
「お前が私の息子だからこそ、許すわけにはいかない」
ヴィクターは理解できないという顔をした。
「私の息子でなければ、好きに失敗させていた」
「……」
「だが、お前は王になる可能性がある」
「だから?」
「だからこそ、今のままでは王にはできない」
ヴィクターは父を見つめた。
怒っている。
悔しい。
それでも、泣きはしなかった。
「……分かりました」
それだけを言った。
翌日。
王宮で、ヴィクターの王位継承権剥奪と王都からの追放が正式に決定された。
それは王としての処分であり、覆ることのない決定だった。
数日後。
ヴィクターは王都を出ることになった。
最低限の荷物だけを持ち、馬に乗る。
見送りに来た者は多くなかった。
王宮の門を出る直前。
ヴィクターは一度だけ振り返った。
高い城壁。
その向こうに、父がいる。
幼い頃、剣を教えてくれた。
馬の乗り方を教えてくれた。
本を読んでくれた。
そして今、自分を追放した。
ヴィクターは目を細めた。
「……父上は、間違っている」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「いつか、証明してみせる」
その言葉を残して、馬を走らせた。
城壁の上。
ヴィクターの姿が小さくなっていくのを、ルシアンは見ていた。
隣にいた兵が尋ねる。
「陛下……よろしいのですか」
「ああ」
「殿下を、あのまま追放して」
ルシアンは答えなかった。
しばらくして、静かに言った。
「……あいつは、私より優れた王になれるかもしれん」
兵が驚いて顔を上げる。
「ならば――」
ルシアンはそこで言葉を切った。
「今のままでは、無理だ」
城門の向こうには、もうヴィクターの姿はなかった。
ルシアンは踵を返す。
その顔に、後悔はなかった。
ただ一つ。
父親として言うべきだった言葉だけを、最後まで言えないまま。
――よくやった。
それだけだった。
そして王宮には、ヴィクターのいない日々が始まった。
ジェスターは、その変化を黙って見ていた。
追放された王子のことを、誰にも尋ねられなかったからだ。
だから、誰にも話さなかった。
ただその日の夜。
一人で窓辺に立ちながら、ぽつりと呟いた。
「……さて」
少しだけ笑う。
「あなたは、次に何を選ぶんでしょうね」




