第二章 ルシアンとジェスターの出会い
戦争が終わった。
城門は破られ、王宮には敵軍の旗が掲げられている。
長い戦いの末、敗れた国の王はすでに捕らえられていた。
城の中には、まだ戦いの痕跡が残っている。
砕けた柱。
血のついた床。
割れた窓。
逃げることのできなかった者たちが、兵士たちの監視の下で一か所に集められていた。
勝った側にとっては、戦争の終わりだった。
負けた側にとっては、何もかもを失った日だった。
その中に、一人の男がいた。
黒い髪。
細身の身体。
派手な衣装。
頭には、道化師の帽子。
ジェスターだった。
両手を縛られている。
だが、周囲にいる他の捕虜たちほど怯えてはいなかった。
自分がこの先どうなるのか。
殺されるのか。
奴隷にされるのか。
それとも、運が良ければ生き残れるのか。
普通なら、それを恐れるところだ。
ジェスターは、少し違った。
どうすれば生き残れるかを考えていた。
戦争に勝った国の兵士たちは、敗戦国の人間を一人ずつ調べていた。
「こいつは?」
「兵士ではありません」
「何をしていた?」
「道化師です」
「道化師?」
兵士がジェスターを見る。
「こんな奴まで連れていく必要があるのか?」
「さあな。城に残っていた人間は、まとめて連れてこいと言われている」
「なら、こいつも同じだ」
兵士がジェスターの腕を引いた。
ジェスターは素直についていった。
だが、数歩進んだところで口を開く。
「一つ、教えてあげましょうか?」
兵士が振り返る。
「何だ?」
「あなた方が探している人間についてです」
「……何?」
兵士が足を止める。
ジェスターは笑った。
「この城には、まだ逃げていない人間がいます」
「誰だ」
「言ったら、私を殺しますか?」
「……何を言っている」
「だって、もう用済みでしょう?」
兵士が顔をしかめる。
ジェスターは続けた。
「私が知っていることを全部話してしまったら、私を生かしておく理由がなくなるでしょう?」
兵士は答えなかった。
ジェスターは、その沈黙を見て笑う。
「では、まだ言わないでおきます」
「お前……」
「代わりに、一つだけ」
ジェスターは、城の奥を指差した。
「西側の塔です。地下へ続く階段があります」
兵士たちが顔を見合わせる。
「本当か?」
「さあ」
「さあ、だと?」
「見に行けば分かりますよ」
兵士の一人が別の兵士に目配せをする。
数人が走っていく。
ジェスターは、その背中を眺めた。
しばらくすると、遠くから声が聞こえてくる。
「いたぞ!」
兵士たちが戻ってくる。
「本当だった……」
「だから言ったでしょう?」
「なぜ知っている?」
「道化師ですから」
「意味が分からん」
「私にもよく分かりません」
ジェスターは笑った。
兵士はしばらく彼を見ていた。
そして、もう一人の兵士が言った。
「こいつはどうする?」
「さあな」
「殺すか?」
ジェスターはその言葉を聞いて、少しだけ首を傾げた。
そして笑う。
「殺すんですか?」
「そうなるかもしれんな」
「それは困りますね」
「困る?」
「はい」
ジェスターは自分の縛られた手を見た。
「まだ、私には使い道がありますから」
兵士たちは顔を見合わせた。
その言葉が妙に気に入らなかったのか、一人がジェスターの胸ぐらを掴む。
「自分が何様だと思っている?」
「道化師です」
「ふざけているのか?」
「いいえ」
ジェスターは笑ったまま答えた。
「本当に道化師です」
そのときだった。
「何をしている」
低い声がした。
兵士たちが振り返る。
そこに、一人の男が立っていた。
戦装束の上に外套をまとっている。
まだ若さの残る顔。
だが、その目にはすでに王としての冷静さがあった。
ルシアンだった。
この戦争を終わらせた軍の指揮官。
そして、やがてこの国の王となる男。
「こいつが、城のことを知っているようで」
兵士が説明する。
「いくつか情報を出しました」
「そうか」
ルシアンはジェスターを見る。
ジェスターも見返す。
互いにしばらく何も言わなかった。
「名前は?」
「ジェスターです」
「何をしていた?」
「道化師を」
「それだけか?」
「それだけです」
ルシアンは少しだけ目を細めた。
「この城について、どれだけ知っている?」
「たくさん」
「話せ」
「嫌です」
兵士たちがざわめいた。
だが、ルシアンは怒らなかった。
「なぜだ?」
「今ここで全部話してしまったら、私を生かしておく理由がなくなるでしょう?」
ルシアンはジェスターを見つめた。
ジェスターも笑っている。
怯えているようには見えない。
だが、勇敢なのとも違う。
自分がどうすれば生き残れるのかを、ただ考えている。
「では、何なら話す?」
「質問してください」
「質問?」
「はい」
「なぜ?」
「私が何を知っているか、全部は分からないでしょう?」
「……なるほど」
ルシアンは少し考えた。
「この城の地下通路は?」
「三つあります」
「王族が使っていたものは?」
「二つ」
「一つは?」
「もう塞がっています」
「もう一つは?」
「東側の礼拝堂から出られます」
「兵士の配置は?」
「今のですか?」
「ああ」
「北側に多いです」
「理由は?」
「西側の城壁が壊れているからです」
ルシアンは淡々と質問していく。
ジェスターも、淡々と答えていく。
しばらくして、ルシアンが言った。
「お前は、よく見ているな」
「暇でしたので」
「そうか」
それだけだった。
だが、ルシアンはジェスターを殺さなかった。
情報を持っているから。
それだけではない。
この男が、何を考えているのか。
少し気になったのだ。
*
数日後。
戦争が終わった城の一室。
ジェスターは窓際に座っていた。
両手の拘束は、すでに外されている。
食事も与えられている。
監視はついているが、以前ほど厳しくはない。
ジェスターは窓の外を眺めていた。
そこへルシアンが入ってくる。
「まだいたのか」
「はい」
「行くところはないのか?」
「ありません」
「帰る場所は?」
「ありません」
「家族は?」
「いません」
ルシアンは何も言わなかった。
ジェスターは窓の外を見たまま続ける。
「なので、困っています」
「そうか」
「はい」
「なら、出て行くか?」
ジェスターが振り返った。
「どこへ?」
「好きなところへ」
「殺されるかもしれませんよ」
「そうかもしれんな」
「奴隷にされるかもしれません」
「ああ」
「では、ここにいた方がいいですね」
「そうだな」
ルシアンはそれ以上何も言わなかった。
ジェスターは少し考えた。
「……陛下は、私をどうするおつもりですか?」
「まだ決めていない」
「そうですか」
「お前は?」
「私も、まだ決めていません」
ルシアンがわずかに笑った。
「なら、同じだな」
「そうですね」
それだけだった。
*
それからしばらくして。
ルシアンは正式にこの国の王となった。
ジェスターは、王宮に残っていた。
特別な役職を与えられたわけではない。
ただ、そこにいる。
ある日の朝。
ルシアンが執務室へ向かっていると、廊下の途中にジェスターがいた。
「おはようございます、陛下」
「お前は、まだいたのか」
「はい」
「なぜ?」
ジェスターは少し考える。
「面白いので」
「何が?」
「ここが」
ルシアンはジェスターを見る。
ジェスターは笑っている。
「人がたくさんいますから」
「……そうか」
ルシアンはそれ以上聞かなかった。
その日から、ジェスターは王宮の道化師になった。
王の許可を得たわけでもない。
正式に任命されたわけでもない。
ただ、ルシアンが追い出さなかった。
そしてジェスターも、出て行かなかった。
それだけだった。
やがて、何年も経った。
王宮の人間たちは、いつしかそれを当たり前の光景として受け入れるようになった。
王の隣には、道化師がいる。
玉座の横に座ることもある。
王の前でも遠慮なく話す。
聞かれたことには答える。
聞かれていないことは、話さない。
王も、それを咎めない。
二人の間にあるものを、誰も正確には知らない。
忠誠なのか。
友情なのか。
ただの気まぐれなのか。
あるいは、そのどれでもないのか。
けれど。
ルシアンは知っていた。
ジェスターが、自分の意思でここにいることを。
そしてジェスターも知っていた。
ルシアンが、自分をここに縛りつけているわけではないことを。
もし明日、ジェスターが出て行きたいと言えば。
ルシアンは、おそらく止めない。
だからこそ。
ジェスターは、まだここにいた。
戦争に負けた国の道化師だった男は、
いつしか、この国の王のすぐ隣にいるようになった。
それが、ルシアンとジェスターの始まりだった。




