第一章 王宮とジェスター
「人間は、自分で選んだと思っている――」
王宮には、たくさんの人間がいる。
王に仕える者。
王を恐れる者。
王を敬う者。
王を妬む者。
王を利用しようとする者。
そして、それらをすべて隠しながら、何食わぬ顔で王の前に立つ者。
人間は、嘘が上手い。
少なくとも、自分ではそう思っている。
広い謁見の間には、この国の主要な大臣たちが集まっていた。
中央の玉座に座るのは、この国の王――ルシアン。
五十を過ぎた男の顔には、年齢を重ねた者だけが持つ静かな威圧感があった。
黒髪には白いものが混じり、鋭い目は目の前に並ぶ臣下たちを一人ずつ見ている。
「北方領への支援についてですが、現状では今月中に決定する必要があるかと」
「財務の余裕は?」
「十分とは言えません」
「軍への予算を削るわけにはいかん」
「ですが、北方を放置すれば――」
意見が飛び交う。
ルシアンは黙って聞いていた。
誰が何を言ったのか。
誰が何を根拠にしているのか。
そして、誰が何を言わずにいるのか。
王として必要なものだけを拾い上げていく。
その玉座のすぐ横に、ひとりの男がいた。
ジェスター。
王宮の道化師。
黒い髪に、細身の身体。
黒と白を基調とした衣装に、暗い赤が差し色として入っている。
頭には、二つ、三つと細長く伸びた飾りのついた道化師の帽子。
先についた小さな鈴が、彼が身体を動かすたびにかすかに鳴る。
ただし彼は、道化師らしく玉座の前で芸をしているわけではない。
玉座の肘掛けに腰を下ろしていた。
まるで、そこが自分の席であるかのように。
何人かの大臣が、ちらちらとジェスターを見る。
だが、誰も何も言わない。
言えるはずもなかった。
王が何も言わない以上、他の者が口を挟む理由はない。
ジェスターも、大臣たちの視線を気にする様子はなかった。
ただ、人々を眺めている。
誰が誰の発言を嫌がったのか。
誰が話を聞きながら視線を逸らしたのか。
誰が、賛成したふりをしたのか。
誰が、何かを隠しているのか。
そういうものを見るのが、ジェスターは好きだった。
しばらくして、一人の大臣が口を開いた。
「北方への支援については、慎重に検討すべきでしょう。現在の国庫状況を考えれば、急いで決定する必要はないかと」
「理由は?」
ルシアンが尋ねる。
「北方領の被害は、報告されているほど深刻ではない可能性があります」
「可能性?」
「はい。現地からの報告にも、多少の誇張があるかと」
「誰から聞いた?」
「……北方領に詳しい者から」
ルシアンは男を見た。
男も、王を見返している。
その表情には、隙がない。
少なくとも本人は、そう思っているらしい。
ジェスターが、ふっと笑った。
「それ、理由じゃないでしょう?」
大臣の顔が固まった。
謁見の間に、わずかな沈黙が落ちる。
「……何のことでしょう」
「昨日、廊下で仰っていましたよ」
ジェスターは笑ったままだった。
「北方への支援を増やせば、自分の領地への予算が減るから困る、と」
「……!」
「それに、北方領の収穫についても、去年より良いと」
大臣の表情が変わる。
ジェスターは首を傾げた。
「今日のお話とは、少し違いますね」
誰かが小さく息を呑んだ。
ルシアンはジェスターを見た。
「お前は、どこでそれを聞いた?」
「廊下です」
「そうか」
ルシアンは大臣へ視線を戻した。
「では、もう一度聞こう」
低い声だった。
「本当の理由は何だ?」
大臣はしばらく黙っていた。
やがて、観念したように頭を下げる。
「……申し訳ありません」
その後の話し合いは、先ほどまでとは少し違うものになった。
ジェスターは何も言わない。
ただ、玉座の横で足を揺らしている。
こういう瞬間が好きだった。
嘘そのものが好きなのではない。
嘘をついている人間が、追い詰められたときに何を選ぶのか。
そこが面白い。
言い逃れをするのか。
別の嘘を重ねるのか。
素直に認めるのか。
怒るのか。
誰かのせいにするのか。
同じ状況でも、人によって選ぶものは違う。
だから、ジェスターは人間を見る。
彼は人間が好きなのではない。
人間の選択が好きなのだ。
会議が終わる。
大臣たちが一人、また一人と退室していく。
その中には、ジェスターと目を合わせようとしない者もいた。
ジェスターは気にしない。
むしろ少しだけ楽しそうだった。
やがて謁見の間には、ルシアンとジェスターだけが残った。
ルシアンは書類をまとめながら言った。
「ジェスター」
「はい」
「そこは座る場所ではない」
「知っています」
「降りろ」
「嫌です」
ルシアンは一度だけジェスターを見た。
「……好きにしろ」
「はい」
ジェスターはそのまま座っている。
それ以上の会話はない。
王は王として仕事を続ける。
道化師は道化師のまま、そこにいる。
その距離が、二人にとっては自然だった。
王宮の者たちは、その関係を理解できない。
ルシアンがジェスターを信用しているのか。
ジェスターがルシアンに忠誠を誓っているのか。
そもそも、なぜ王があの男をあれほど近くに置いているのか。
誰にも分からない。
ただ、ジェスターが王の前でも自由であることだけは、誰もが知っていた。
王に命じられれば仕事はする。
だが、必要以上に媚びることはない。
質問されれば答える。
聞かれていないことまで、自分から話すこともない。
そして、誰かに「お前はこういう人間だ」と決められることを嫌う。
ルシアンも、それを知っていた。
だから、ジェスターに忠誠を求めることはない。
「お前は私の味方か」などと尋ねることもない。
ただ必要なときに、
「お前はどうする?」
と聞くだけだ。
そしてジェスターは、自分で決める。
それが二人の間では、当たり前だった。
*
その日の仕事が終わった頃には、王宮の外も夕暮れに染まり始めていた。
ジェスターは、ルシアンの執務室から少し離れた廊下にいた。
窓際に立ち、外を眺めている。
特に何をしているわけでもない。
ただ、そこにいた。
やがて背後から足音が聞こえた。
「私は、あの判断でよかったと思っています」
ヴィクターの声だった。
ジェスターは振り返る。
ルシアンとヴィクターが並んで歩いてくる。
二人は話を続けていた。
「そうか」
「はい」
「ならば、理由を聞こう」
「北方への支援を優先すれば、確かに一時的には民を救えます。ですが、そのために他の領地への予算を削れば、別の場所で問題が起きる。私は、長期的に見て必要な方を選びました」
「結果は?」
「……良くありませんでした」
「ならば?」
ヴィクターは少しだけ黙った。
だが、すぐに答えた。
「結果が悪かったからといって、判断まで間違っていたとは思いません」
ジェスターは、窓の外を見たまま二人の会話を聞いていた。
その言葉に、視線だけをヴィクターへ向ける。
面白い。
そう思った。
ルシアンが足を止めた。
「自分の判断を変えるつもりはないのだな」
「ありません」
迷いのない返事だった。
ジェスターは、少しだけ目を細めた。
ルシアンが口を開く。
「ヴィクター」
「はい」
「王になる者には、自分の判断を疑う頭も必要だ」
「……父上だって、間違うことはあるでしょう」
「ああ」
即答だった。
ヴィクターがわずかに目を見開く。
「ならば――」
「だから私は、お前より長く王をやれている」
ヴィクターが黙る。
ルシアンは続けた。
「自分が間違う可能性を知っている者でなければ、王は務まらん」
「……私は、自分が間違っていたとは思いません」
「今はな」
ルシアンはそれだけ言うと、再び歩き出した。
そのとき、ヴィクターがふとジェスターを見る。
「……ジェスター」
「はい」
「いつからいた?」
「最初からです」
「……そうか」
ヴィクターは少しだけ呆れたような顔をした。
ルシアンは何も言わない。
ジェスターがここにいることなど、最初から分かっていたのだろう。
ヴィクターはしばらくジェスターを見る。
「聞いていたのか」
「はい」
「どう思った?」
ジェスターは少し考えた。
「面白いと思いました」
「……何が?」
「あなたが」
「私が?」
「はい」
ジェスターはヴィクターを見る。
「自分の判断を、あれほど迷いなく信じられる人は珍しいので」
「それが悪いことだと言いたいのか?」
「いいえ」
ジェスターは笑った。
「まだ分かりません」
ヴィクターは黙った。
ジェスターも、それ以上は言わない。
しばらくして、ヴィクターが歩き出す。
「……変な奴だな」
「よく言われます」
「そうか」
ヴィクターはそのまま去っていった。
ジェスターは、その背中を眺めていた。
先ほどまでと変わらない表情。
けれど、ほんの少しだけ楽しそうだった。
「……何を選ぶんでしょうね」
小さく呟く。
王宮には、今日もたくさんの人間がいる。
嘘をつく者。
隠す者。
信じる者。
疑う者。
そして、自分で選んだ道を正しいと思って歩いていく者。
ジェスターは、それらを眺めている。
誰かの物語を、自分が決めるつもりはない。
ただ、その人間が何を選ぶのか。
それを見ていたいだけだった。
その日。
ジェスターはまだ知らなかった。
この王宮で出会った一人の青年が、やがて王を殺し、自ら王になることを。
そしてその王のすぐ隣に、自分が立つことになることも。
ただ今は――
面白そうな人間を見つけた。
それだけだった。




