アナザーストーリー 城から見た王と道化師(1)
新しい王が即位してから、しばらく経った頃。
城では、ひとつの奇妙なことが誰にも説明されないまま続いていた。
王の隣には、いつも道化師がいる。
それ自体は珍しいことではない。
先王の頃から、そうだった。
ただ、新しい王になってからは、少しだけ様子が違っていた。
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『執事』
先王の頃から城に仕えている執事は、二人の変化をよく知っていた。
ヴィクターが王になったばかりの頃、ジェスターが隣に立っているだけで、彼は時折、眉を寄せていた。
議会の途中で口を挟む。
廊下を歩いている途中で突然いなくなる。
誰かから聞いたという妙な情報を持ってくる。
そして、その情報が時々、驚くほど役に立つ。
先王も、似たようなことを何度も経験していた。
ただし、先王はジェスターの話を聞き流すのが上手かった。
必要な時だけ問い返し、必要がなければ、そのまま仕事を続ける。
ヴィクターには、それがまだ難しいらしい。
「陛下」
ある日の午後、執事は王の執務室でそう声をかけた。
「何だ?」
「ジェスター様がお見えです」
ヴィクターは顔を上げた。
「……また何か持ってきたのか?」
「おそらく」
少し間を置いて、執事は続けた。
「先王陛下も、よく同じことを仰っていました」
ヴィクターの手が止まった。
「父上も?」
「ええ」
それだけ言って、執事は頭を下げた。
長く仕えてきた者だけが知っていることは、時として、説明しない方がよい。
やがて扉が開き、ジェスターが入ってくる。
「陛下、少しよろしいですか?」
「今度は何だ」
「庭の薔薇が、去年より早く咲いたそうです」
「……それは政務に関係するのか?」
「分かりません」
執事は視線を伏せた。
先王の頃と、何も変わっていない。
ただ一つ違うのは。
以前は先王が困った顔をすることなど、ほとんどなかったことだった。
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『 メイド』
王宮のメイドたちは、ジェスターを嫌ってはいなかった。
むしろ――人気があった。
端整な顔立ちをしている。
背も高く、立っているだけで目を引く。
いつも丁寧で、女性に対しても紳士的だった。
廊下ですれ違えば、必ず道を譲る。
重そうな荷物を持っていれば、何も言わずに持っていく。
名前を覚えるのも早かった。
一度しか話したことのないメイドに、
「今日は髪を結んでいるんですね。よくお似合いです」
などと自然に言うものだから、言われた本人はその日一日、仕事に集中できなくなる。
もちろん、ジェスターに特別な意図があるわけではない。
本人は本当に、ただ思ったことを口にしているだけだった。
だから余計に困る。
「ジェスター様って、絶対私たちの名前覚えてるよね」
「覚えてるよ。私なんて一度しか話してないのに呼ばれた」
「でも、何考えてるか全然分からない」
「そこがいいんじゃない?」
そんな会話が、休憩室では時々交わされていた。
ある日、廊下の向こうからヴィクターが歩いてきた。
メイドたちは慌てて姿勢を正す。
その隣には、もちろんジェスターがいる。
ジェスターはメイドたちに気づくと、いつものように軽く頭を下げた。
「お疲れさまです」
それだけだった。
ヴィクターは通り過ぎてから、少しだけ振り返った。
「……何をしていた?」
「少しお話をしていただけです」
「そうか」
それ以上は何も言わない。
メイドたちは顔を見合わせた。
王は、まだ知らないらしい。
自分の隣にいる道化師が、城の女性たちからどんな目で見られているのかを。
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『 コック』
厨房では、ジェスターの評判はまた少し違った。
甘いものが好きだからだ。
焼き菓子があれば、かなりの確率で顔を出す。
「今日は何ですか?」
「新しい菓子です」
「いただいても?」
「どうぞ」
ジェスターは嬉しそうに食べる。
その様子を見ていると、作る側としても悪い気はしない。
ある日、ヴィクターが厨房の前を通りかかった。
ジェスターが焼き菓子を一つ持っている。
「また食べているのか」
「はい」
「仕事は?」
「していますよ」
「それは仕事ではないだろう」
「大切な仕事です」
ヴィクターは呆れたように息を吐いた。
コックは笑いを堪えながら二人を見ていた。
ふと、昔のことを思い出す。
先王も、甘いものが嫌いではなかった。
ジェスターがよく菓子を持っていった。
ある時など、二人で厨房の隅に立ったまま、焼きたての菓子を食べていた。
今思えば、あれも王と道化師にしては妙な光景だった。
けれど、不思議と違和感はなかった。
今も同じだ。
ヴィクターはジェスターに文句を言いながら、その菓子を一つ取った。
「……悪くない」
「でしょう?」
ジェスターが笑う。
コックは思う。
王というものは、案外こういうところで人間らしくなるものなのかもしれない。
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『大臣』
大臣たちにとって、ジェスターは厄介な存在だった。
身分は低い。
正式な役職もない。
それなのに、王の隣にいる。
しかも議会中に口を挟む。
「北の村では今年、麦が少ないそうですよ」
「市場の塩が値上がりしています」
「南の街道は最近、使う人が減ったそうです」
出所を尋ねれば、商人だったり、兵士だったり、町の人間だったりする。
根拠が薄いこともある。
だが、時々それが正しい。
だから無視もしづらい。
先王の頃からそうだった。
先王はジェスターの話を聞くと、必要なものだけを拾った。
「誰から聞いた?」
「どこで?」
「確かなのか?」
そして最後には必ず、自分で決めた。
新王も、最近は少しずつ同じことをするようになっていた。
ある日の議会。
ジェスターがまた口を挟んだ。
「陛下」
「何だ」
「東の市場で、最近パンが少し小さくなったそうです」
大臣たちは一瞬、沈黙した。
ヴィクターはジェスターを見る。
「それは誰から聞いた?」
「市場の商人です」
「調べておけ」
「はい」
大臣は驚いた。
以前なら、ヴィクターは一度眉を寄せてから、「今は議会中だ」と言っていた。
今は違う。
必要かどうかを自分で判断している。
ジェスターも、それ以上は何も言わない。
ただ、王の前に一つの選択肢を置く。
大臣はそこで初めて気づいた。
ジェスターは王を動かしているのではない。
王が選ぶためのものを、持ってきているだけなのだ。
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『 兵士』
城の兵士たちは、もっと単純だった。
ジェスターは不思議な男だ。
王の隣を歩いている。
王の肩に手を置くこともある。
なのに、誰も止めない。
ある若い兵士が、先輩に尋ねたことがある。
「なぜ、あの人だけあんなに自由なんです?」
先輩は少し考えた。
「さあな」
「危なくないんですか?」
「危ないと思うぞ」
「じゃあ、なぜ……」
先輩は肩をすくめた。
「先王陛下の頃から、あれだ」
それ以上の説明はなかった。
ただ、兵士たちは一つだけ知っている。
王が廊下を歩けば、ジェスターも歩く。
王が立ち止まれば、ジェスターも立ち止まる。
そして、王が振り返れば、そこにいる。
ある日、若い兵士が体調を崩した。
本人は隠して勤務を続けようとしていた。
それに気づいたのはジェスターだった。
「少し休んだ方がいいですよ」
「大丈夫です」
「そうですか」
ジェスターはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、その日の夕方。
ヴィクターが兵士を呼んだ。
「今日は休め」
「しかし――」
「命令だ」
兵士は驚いた。
後から聞けば、ジェスターが王に伝えていたらしい。
兵士はその時、初めて思った。
道化師は、案外よく人を見ている。
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『 そして、城から見た二人』
城で働く者たちは、誰も二人のことを完全には知らない。
執事は、先王とジェスターの時間を知っている。
メイドは、ジェスターが意外に人気があることを知っている。
コックは、甘いものを前にした時の二人を知っている。
大臣は、議会でのジェスターを知っている。
兵士は、廊下を歩く二人を知っている。
けれど、そのどれも二人のすべてではない。
王は道化師を信用しているのか。
道化師は王に忠誠を誓っているのか。
それとも、ただ面白がって隣にいるだけなのか。
誰にも分からない。
ただ、一つだけ。
先王の時代から変わらないことがある。
王の隣には、道化師がいる。
そして新しい王になってからも、それは変わらなかった。
違うのは、ヴィクターが少しずつ、ジェスターとの付き合い方を覚えていることだった。
何を聞き、何を捨てるのか。
何を信じ、何を疑うのか。
そして、最後に何を選ぶのか。
それを決めるのは、いつだって王自身だった。
夕暮れの廊下を、二人が歩いていく。
少し前をヴィクターが歩き、その半歩後ろをジェスターがついていく。
しばらくして、ジェスターが何かを言った。
ヴィクターが足を止める。
振り返る。
少し困ったような顔をする。
それから、何かを答える。
二人はまた歩き出した。
城の誰も、その会話の内容を知らない。
だからこそ、今日もまた誰かが思う。
――あの二人は、一体どういう関係なのだろう。
答えを知っている者は、たぶん城の中にはいない。
ただ、明日になればまた。
王の隣には、道化師がいる。
それだけは、誰もが知っていた。




