アナザーストーリー 王と道化師の一日
王になってから、ヴィクターは以前より忙しくなった。
朝から報告を受け、書類に目を通し、昼には議会がある。午後には各地から届いた案件を処理し、夕方になればまた別の報告が積み上がっている。
王になる前から忙しかったはずなのに、今は一つ一つの判断に重さがあった。
そして、その隣には相変わらずジェスターがいる。
議会の日も、それは変わらなかった。
重い扉が閉じられ、諸侯たちが席につく。
その日の議題は北部の税制についてだった。
収穫量の減少に伴い、今年の税を一部減免するべきか。それとも国庫を優先し、例年通り徴収するべきか。
数字だけを見れば、簡単な話ではない。
ヴィクターが資料に目を落としていると、隣から声がした。
「陛下」
聞き慣れた声だった。
「……何だ」
「北の村では、今年あまり麦が取れていないそうですよ」
議会の空気が、わずかに止まった。
ヴィクターは顔を上げる。
「その報告は、どこからだ?」
「先日、町に来ていた商人からです」
「正式な報告にはないな」
「そうですね」
ジェスターはそれ以上、何も言わなかった。
ヴィクターは少し考え、側近に確認を命じた。
調べてみれば、確かに一部の村で収穫量が落ちていた。
正式な報告より、現場の情報の方が早かったらしい。
税の判断は、それを踏まえて改められた。
議会が再び進み始めたところで、ジェスターがまた口を開く。
「そういえば、北の街道の橋が壊れているそうです」
ヴィクターは目を閉じた。
「……今、それは必要か?」
「分かりません」
あっさりした返事だった。
「ただ、同じ道を使っていた人たちは、最近別の道を使っているそうです」
「なぜ誰も報告していない?」
「誰にも聞かれなかったからでは?」
ヴィクターは黙った。
議会の中にいる者たちは、皆、国のことを考えている。
けれど、その「国」は書類の上にある。
道を使う者、橋を渡る者、税を納める者。
そういう人間の声は、報告書になるまで届かない。
ジェスターは、それを拾ってくる。
どこからともなく。
そして、必要かどうかも判断しないまま、王の前に置いていく。
ヴィクターは資料をめくった。
「……橋の件は後で調べる」
「はい」
ジェスターは満足そうでもなかった。
役に立ったことを喜ぶでもなく、褒められたい様子もない。
ただ、そこにあるものを置いただけ。
それがジェスターだった。
議会が進むにつれ、彼の口から出てくる話はますます脈絡がなくなった。
北の村の不作。
壊れた橋。
市場で値上がりしている塩。
城下町のパン屋が最近、朝の開店を少し早めたこと。
そして、庭に見慣れない猫がいること。
「……最後のは何だ」
「猫です」
「聞けば分かる」
「そうですね」
ヴィクターは額を押さえた。
「今は議会中だ」
「存じています」
「ならば――」
言いかけて、ヴィクターは口を閉じた。
ジェスターは笑っていない。
ふざけているわけでもない。
本当に、ただ情報を置いている。
重要かどうか。
役に立つかどうか。
採用するかどうか。
それを決めるのは、最初から自分ではないのだ。
ヴィクターはふと、父の姿を思い出した。
父も、ジェスターが議会で口を挟むことを止めなかった。
もちろん、何でもそのまま受け入れていたわけではない。
「それは誰から聞いた」
「どこでだ」
「根拠はあるのか」
必要なら問い返し、必要なければ聞き流す。
ジェスターが持ってきたものを、最後に選んでいたのは父だった。
そのことに、今さら気づいた。
「……父上は」
思わず口に出ていた。
ジェスターが隣を見る。
「はい?」
「よくやっていたな」
「何をです?」
ヴィクターは一瞬黙った。
それから、少しだけ疲れた顔で言った。
「お前の相手をすることを」
ジェスターは目を細めた。
「陛下も、そのうち慣れますよ」
「慣れたくない」
即答だった。
ジェスターが小さく笑った。
議会が終わる。
立ち上がったヴィクターの後ろから、ジェスターもついてくる。
「陛下」
「今度は何だ」
「明日の朝、城下のパン屋が新しいパンを焼くそうです」
「……それは私に必要な情報か?」
「さあ」
ジェスターはいつものように答えた。
「陛下が必要だと思えば、必要なのでは?」
ヴィクターは振り返った。
その言葉の意味を、しばらく考える。
ジェスターは答えを持っているわけではない。
持っている情報を、ただ王の前に置く。
王が拾うか、捨てるか。
信じるか、疑うか。
そこから何を選ぶか。
すべてを王に返してしまう。
それは、父がずっとしていたことでもあった。
ヴィクターは小さく息を吐いた。
「……なるほど」
「何か分かりましたか?」
「いや」
歩き出す。
「まだ分からない」
ジェスターはその隣を歩いた。
「それでいいと思いますよ」
王は、少しだけ眉を寄せた。
何を拾い、何を捨てるのか。
それを決めるのは、自分なのだから。




