第十章 夜の寝室
王になってから、初めての夜だった。
王宮の中は、昼間の騒がしさが嘘のように静かになっていた。
戦の後始末はまだ終わっていない。
廊下を行き交う兵士の足音。
遠くから聞こえる、負傷者のための指示。
誰かが何かを運ぶ音。
それらは、厚い扉の向こうで途切れ途切れに聞こえていた。
ヴィクターは寝室の窓辺に立っていた。
王都の明かりが、夜の向こうにぼんやりと浮かんでいる。
自分が、あの王都を手に入れた。
父を倒して。
王位を奪って。
王になった。
昼間なら、それを疑う余地はなかった。
頭には王冠があった。
玉座にも座った。
兵士たちは自分に頭を下げた。
それでも。
夜になって一人になると、不思議なほど実感がなかった。
机の上に置かれた王冠へ目を向ける。
父が身につけていたもの。
今は、自分のものだ。
ヴィクターはしばらくそれを見つめてから、手を伸ばした。
指先が、金属に触れる。
冷たい。
それだけだった。
王冠を手に取る。
思っていたよりも重い。
昼間は、それを頭に載せた瞬間に何かが変わると思っていた。
父を倒した証になる。
自分が王になった証になる。
けれど。
何も変わらなかった。
父はもういない。
これから何をしても、父がそれを見ることはない。
「……」
ヴィクターは王冠を机へ戻した。
そのまま椅子に腰を下ろす。
目を閉じると、父の声が浮かんだ。
――まだ、お前には早かった。
――そうなればいい。
――最後まで、自分で決めろ。
目を開ける。
窓の外を見る。
眠るには、まだ少し早い時間だった。
そのとき。
コン、コン。
扉が二度、軽く叩かれた。
ヴィクターは振り返る。
「……誰だ?」
「私です」
「ジェスターか」
「はい」
「何の用だ」
「いえ。少し、確認したいことがありまして」
ヴィクターは少し考えた。
「入れ」
「失礼します」
扉が開く。
ジェスターが入ってきた。
いつもの道化師の姿だった。
「こんな時間に何を確認する?」
「王様になった人間が、夜になるとどんな顔をするのか」
「それを確認するために、寝室まで来たのか?」
「はい」
「相変わらずだな」
「ありがとうございます」
ジェスターは部屋の中へ入ってくる。
ヴィクターから少し離れたところで立ち止まった。
「……陛下」
「何だ」
「今、どんな気分です?」
ヴィクターは机の上の王冠を見る。
「分からない」
「そうですか」
「お前は?」
「私ですか?」
「今日一日、父上の死を見ていたんだろう」
ジェスターは答えなかった。
ヴィクターは続ける。
「昼間、お前は父上を大切な人だったと言った」
「はい」
「それでも、私の横に立った」
「はい」
「なら――」
ヴィクターの目が、ジェスターを捉える。
「私を憎んでいるのか?」
ジェスターは少し笑った。
「さあ?」
「……また、それか」
「分からないものですから」
そのときだった。
ヴィクターは、首元に冷たいものが触れていることに気づいた。
いつ抜いたのか。
どこから出したのか。
分からない。
ただ、ジェスターの手には短剣があり、その刃が喉元に添えられていた。
ヴィクターの目が細くなる。
けれど、動かなかった。
「殺すのか?」
「どうでしょう」
刃は離れない。
ジェスターの顔には、怒りも悲しみもない。
いつもの笑みさえ浮かんでいなかった。
ただ、ヴィクターを見ている。
「陛下」
「何だ」
「もし私が今ここであなたを殺したら――」
ほんの少し、刃が動く。
「私は、何を思うのでしょうね」
ヴィクターは黙っている。
やがて、口元だけがわずかに上がった。
「やってみればいい」
ジェスターの目が細くなる。
「……怖くないんですか?」
「怖いさ」
意外な答えだった。
「だが、お前が何を選ぶのかは、お前が決めることだ」
ジェスターは黙った。
その言葉を聞いて、ほんの一瞬だけ。
別の声が重なった。
――お前は、どうする?
昔、ルシアンに聞かれたことがある。
裏切るかと問われたときも。
何をするのかと問われたときも。
ルシアンは、最後にはこちらへ返してきた。
自分で選べ、と。
ジェスターはヴィクターの首元から刃を離した。
「……似ていますね」
「誰に?」
「いえ」
短剣を見下ろす。
その刃に、月明かりが細く映っていた。
「少し、残念です」
「何がだ?」
「殺したら、もう見られませんから」
「何を?」
「あなたが、明日から何を選ぶのかを」
ヴィクターはジェスターを見る。
「それだけか?」
ジェスターは笑った。
「それだけかもしれません」
短剣をしまう。
「あるいは――」
そこで言葉を止める。
「……何でもありません」
「お前は、本当に分からないな」
「そうでしょうか」
「少なくとも、私には分からない」
「それでいいと思います」
ジェスターは踵を返す。
扉へ向かう。
「ジェスター」
「はい?」
「お前は、私を殺さないのか?」
ジェスターは振り返った。
しばらくヴィクターを見つめる。
そして、いつもの笑みを浮かべた。
「今夜は、やめておきます」
「……今夜は?」
「ええ」
扉が閉まる。
一人になったヴィクターは、しばらく動かなかった。
机の上の王冠を見る。
そして、窓の外を見る。
誰もいない廊下を、ジェスターの足音だけが遠ざかっていった。
その夜、王が生きていた理由を知る者は――
ジェスター本人にも、まだ分からなかった。




