お殺しあい
中央の最深部、ひんやりとした冷気が漂う石造りの地下大書庫。
監察官ルクレチアは、不気味なほど整然と並ぶ書架の陰で、一枚の古い羊皮紙を静かに繰っていた。
サモ邸での「処理」と、そこで見かけた心臓病の幼女――ヴェロニカ。あの村で起きた「粛清」に関する記録と、中央が極秘裏に秘匿している初期汚染データの照合を行っていたのだ。
(妙ね……。あの村の『深きモノ』の侵蝕波長、過去のどの記録とも整合性が取れない……)
ルクレチアは細い指先で不穏な文字を辿る。サモが動いていた理由、そしてあの館に引き取られた少女。すべてが不自然な糸で結ばれている感覚があった。
指先で文字をなぞっていたその時、ぴたりと背筋に冷たいものが走った。
「……っ!?」
周囲の空気があっという間に重く湿り、まるで深い水底に沈められたかのような不快な圧迫感が耳奥を支配する。大書庫の明かりが不自然に明滅した。
――シ・ヅ・ム――
頭の中に直接響く、ぬらりとしたカタコトの声。
誰かが話しかけているのではない。粘着質な「何か」が、脳の表面を湿った指で直接なぞってきたかのような、生々しく不快な気配。
ルクレチアは即座に緊張を走らせ、懐の魔導具へ手を伸ばしながら、声のした書架の奥へ鋭い視線を走らせる。
暗がりの中、本棚の隙間から「黒く濁った水の雫」が、重力に逆らうようにポタポタと天井へ向かって落ちていくのが見えた。異様な魔力濃度の不調和。
――オ・ウ・ト――
――シ・ヌ――
声はそこでブツリと途絶え、空中に浮かんでいた水滴の気配も一瞬でかき消えた。
あとに残されたのは、全身の毛穴が開ききるほどの絶望的な悪寒だけだった。
中央の厳重極まりない防護結界を容易くすり抜け、監察官である自分に対して直接警告を発してきた異形。サモ邸の地下で泡立っていた「何か」と同質の、世界を浸食する悪意。
「……追うな、ですって?」
ルクレチアは震える指先を固く握りしめ、冷や汗がポツリと床に落ちるのをただ見つめていた。
中央の完璧な管理下にいるはずの自分が、いま明確に「命の危険」を突きつけられたのだ。
彼女が調べようとしていた領域――サモの行動、そしてヴェロニカという少女の存在の背景には、中央すら制御できていない「世界の致命的な歪み」が隠されている。
静まり返った地下書庫で、ルクレチアは確信していた。
あの子……ヴェロニカの生き残った理由を探ることが、この底なしの深淵を暴く唯一の鍵になると。
書庫の圧迫感から逃れるように、冷や汗を拭いながら地上への重い扉を押しのけたルクレチア。
しかし、外の夜気に触れた瞬間、彼女の息が完全に止まった。
静まり返った中央の中庭。美しく整えられていた石畳の上には、黒々とした血の海が広がっていた。
そこには、中央が誇る重装騎士たちの無残な遺体が転がっている。甲冑ごと真っ二つに引き裂かれた者、頭部から結晶のような水泡を吹き出して物言わぬ肉塊と化した者――全滅だった。悲鳴を上げる暇すら与えられなかったことが、周囲の静寂そのものから痛烈に伝わってくる。
そして、その凄惨な死体の山の中央。
ぬかるんだ血と水の地べたに、まるでピクニックでもしているかのように直接ペタリと座り込んでいる女性がいた。
サモだ。
濡れた長い髪を夜風に遊ばせ、血の海に長い脚を投げ出した大魔導師は、無残に転がる騎士の頭輪を指先でコロン、コロンと転がしている。
ルクレチアが絶句したまま立ち尽くしていると、サモはゆっくりと顔を上げた。その瞳は夜の海のように深く、周囲の光を一切反射していない。
「……あら、ルクレチア」
サモは血に濡れた指先を唇に当て、クスクスと可愛らしく微笑んだ。
「いい夜ね。……少し、おはなしでもしましょうか?」
中央の監察官として数々の凄惨な現場を見てきたルクレチアの全身を、地下書庫での悪寒を遥かに超える「圧倒的な死の恐怖」が駆け抜けた。
「……大魔導師とお殺し合いをするのは、これが初めてです」




