ベロビーの飯
「少なすぎる飯」と「母の影」――。
その二つの事実が、私の頭の中で警鐘のように鳴り響き続けていた。
あんな小鳥のエサみたいな食事じゃ、削られ続ける私の魔力と体力を補うことすらできない。そして何より、あの異様な大魔導師サモの館の奥にちらつく、私の母……。あの人が今どうなっているのか、無事なのか、それすら分からないまま、この気味の悪い屋敷で毒にも薬にもならない「養育」を甘んじて受けている場合じゃない。
私の第一目標は、自らの手で屋敷を抜け出し、母の安否を確認することだ。前世の知識と大人の思考がある私だとしても、この小さく脆い幼躯のままサモの飼い犬として死を待つなんて絶対に嫌だった。
今夜、サモが屋敷を空ける気配を察知した私は、ついに決行へと踏み切った。
小さな足音すら殺すように注意を払いながら、暗闇の混じる屋敷の廊下を滑るように進む。
前世の記憶や知識があるとはいえ、今の私の肉体は病み上がりで、あまりにも幼く貧弱そのものだ。心臓の動悸は早く、息も切れやすい。思考が大人でも、身体の動作にはどうしても素人同然の甘さや不器用さが残ってしまう。
(お願い……届いて……!)
祈るような心地で、静まり返った木製の裏門へとたどり着いた。
月明かりに照らされたひんやりとした金属の引き手に、震える小さな手を伸ばし、指先が触れた――まさにその瞬間だった。
背後から、氷のように冷やかな気配がそっと私の首筋に巻き付いた。
「……どちらへお出かけですか、ヴェロニカ様?」
影のように音もなく私の背後に忍び寄っていたのは、召使のベロビーだった。
彼の手が、私の服の襟首を容赦なく掴み上げる。
「きゃっ……!? 放して!」
あえなく捕獲。必死に手足をバタつかせて暴れ、爪を立てようと抗う私だったが、大人の筋力と、冷徹極まりない召使の無駄のない身こなしには爪の先ほども逆らえない。まるで小さな小猫のように襟首を引っ張られたまま、私はあっけなく屋敷の奥へと引き戻されてしまった。
引きずり戻された廊下には、いつにも増して不穏で重苦しい緊張感が漂っていた。
いつもは能天気で不気味なほど呑気なサモ様が、見たこともない真剣――あるいは感情の窺えない無機質な表情を浮かべ、集まった他の召使たちに矢継ぎ早に指示を出している。
「あっちの区画の術式は張り直したかしら~?」
「地下の検体、暴れ出さないようにちゃんと封ねておいてねぇ」
宙を滑るように浮遊するサモ様の周囲には、普段の緩い雰囲気とはあまりにもかけ離れた、密度が高く濃密な膨大な魔力が渦を巻いていた。空気そのものが重く軋み、肌にピリピリとした痛みが走るほどだ。
「あ、ヴェロニカちゃん。夜遊びは感心しないわねぇ。大人しくベッドに入っていなさい」
通りすがざまに私の頭を撫でてきたサモ様の手は、まるで氷塊のように冷たかった。
サモ様はそれだけを言い残すと、何重にも張り巡らされた複雑な魔法障壁を背に、夜遅くの深い暗闇の中へと一人で出て行ってしまう。
残された夜の屋敷は、恐ろしいほどの静寂に包まれていた。
私を冷たい目で見下ろしてくるベロビー。そして、地下の奥底から微かに響いてくるような、水底の不気味な泡立ちの音。私は自分のベッドに押し込められながら、サモ様が一体どこへ向かったのか、そしてあの地下には一体何が封印されているのかという、新たな恐怖に身を縮めていた。
「……チッ」
その時、静寂を破って私の耳にはっきりと届いたのは、あからさまな舌打ちの音だった。
これまでは名前などない「ただの召使」として冷徹に澄ましていたベロビーだったが、立ち去り際のサモ様に「ベロビーちゃん」などという適当極まりない愛称(あるいは本名)で雑に呼ばれたことが、相当気に食わなかったらしい。彼は眉間に深い皺を刻み、あからさまに不機嫌な顔を隠そうともせず、無言で部屋のドアを蹴るようにして出て行った。
(さっきまで『召使は召使です』とか言ってたのに……めちゃくちゃ舌打ちしてる……)
サモ様のあまりのデリカシーのなさに呆気にとられる私を余所に、ベロビーのイライラは本物だったらしい。
しばらくして、ベロビーが木製のお盆に乗せた食事を運んできた。
先ほどの露骨な舌打ちは嘘だったかのようにいつもの無感情な仮面に戻っているが、お盆をサイドテーブルに置く動作が、心なしかほんの少しだけ雑だ。
「……お食事でございます、ヴェロニカ様」
運ばれてきたのは、小さな深皿に盛られた温かいスープと、一口サイズの柔らかいパン。
脱出に失敗して疲弊した体で恐る恐るスープを口へ運んでみると――驚くほど美味しかった。前世の記憶に存在する高級料理と比べても引けを取らないレベルで、病み上がりの幼い身体にじんわりと染み渡るような優しい旨味がある。
(……美味しい。美味しいんだけど……!)
しかし、スプーンをほんの数回動かしただけで、あっけなく皿の底が見えてしまった。
病人の弱った胃腸に配慮しての量なのかもしれないが、ただでさえ「精緻魔導」によって極限まで魔力と体力を消費し続けている私にとっては、まったく腹の足しにならない。
(少ない……っ! これなら、味が多少大雑把で大衆的でもいいから、もっとガッツリ量が多い方が何倍も嬉しいのに……!)
どんなに高級で美味な料理であっても、今の私が必要としているのは圧倒的な「カロリー」と「量」だ。美味しいからこそ余計に空腹感が刺激され、私は空になった小さな皿を前に、なんとも言えない不完全燃焼な後味の悪さを噛み締めるのだった。やっぱり、何としてでもここを出て行く方法を考えなきゃダメだ。
サモ様が出かけた後の重苦しい静寂と、私の虚しい空腹感が部屋を満たしていた、その時。
――ドン! ドン! ドン!
夜の静寂を激しく切り裂き、屋敷の重厚な玄関ドアが突然、不躾な勢いで叩き鳴らされた。




