深き血
それから馬車に揺られること二日。
ただでさえ心臓の病で死にかけた身体に、連日の長旅と精神的ストレスが重なり、ヴェロニカの体調は限界を迎えていた。激しい吐き気と高熱、そして心臓の鈍い痛みに苛まれ、意識は朦朧として視界すらまともに定まらない。
(だめ……完全に身体が悲鳴上げてる……また死ぬ……?)
ぐったりと横たわるヴェロニカを乗せた馬車が、ようやく巨大な城門の前で停止した。
「遅かったですね、ルクレチア様」
甲冑を着た門番の兵士が声をかける。ルクレチアは御者台からひらりと降りると、申し訳なさそうに軽く手を挙げた。
「あー、すまない。途中でちょっとした『害虫駆除』と御者の取り替えを行っていたものでね」
軽い談笑を終えたルクレチアは、意識を失いかけているヴェロニカをその細い腕で軽々と抱え上げると、母オリヴィアを引き連れて「中央」の街並みを歩き出した。厳格で無機質な都市の路地を抜け、辿り着いたのは街外れにひっそりと佇む一軒の邸宅だった。
「さあ、着きましたよ。彼女に診てもらいましょう」
ルクレチアが重厚な扉を開けると、そこには異常な光景が広がっていた。
廊下の空気中を、まるで水の中を泳ぐかのようにゆらゆらと宙に浮いている巨大な人魚の姿があった。色鮮やかなヒレを優雅に揺らし、豪奢な装飾品を身に纏ったその女性――サモは、運び込まれたヴェロニカを一瞥すると、のんびりとした口調で声を上げた。
「あら〜、ルクレチア。えらくボロボロな子供を連れてきたわねぇ?」
「心臓に重い障害を抱えているようです。サモ、あなたの治療魔導で診てやってください」
「はいはい、分かったわ〜。どれどれ……」
莫大な魔力を漂わせながら宙を滑るサモの手が、ヴェロニカの胸元へと優しく差し伸べられていった。
サモの手から放たれる心地よい温もりがヴェロニカの胸を包み込む。
狂い暴れていた体内の歪みが少しずつ静まり、ヴェロニカは数日ぶりにまともな呼吸を取り戻していた。
気がつくと、ヴェロニカは豪奢なベッドの上に横たわっていた。
部屋の隅では、莫大な魔力で空中に浮かぶ人魚――サモが、大きな皿に山盛りになった極上の大魚を、骨ごと豪快にバキバキと平らげている。
(……すごい。高級そうな家具に、湯水のように使われる魔法、そしてあの豪勢な魚料理。この人、めちゃくちゃ裕福なんだ……)
命をつなぎ止められた安堵と同時に、ヴェロニカの胸を強い不安が締め付ける。
連行された母オリヴィアのことだ。ルクレチアが突きつけた、あの残酷な二択――「不妊」。母は無事なのだろうか。自分を守るために、どれほど悲惨な目に遭わされているのだろうか。
暗い思考に沈むヴェロニカの視線に気づいたのか、サモは魚を丸呑みしながら、ふとテーブルの上に置かれた一通の紙切れを持ち上げた。ヴェロニカの衣服のポケットから落ちた、母オリヴィアの手紙だ。
「あら〜、ヴェロニカちゃん。これ、お母様からの手紙かしらぁ?」
「え……あ、っ……」
制止する間もなく、サモはのんびりとした、どこか呑気な声でその手紙を読み上げ始めた。
「『ヴェロニカ、私の可愛い天使。あなたが生まれた日のことを、今でも昨日のことのように思い出します……』『夫は昔から魚料理が大好きだったのに、なぜか川や海の魚を調理させてくれませんでした……』ふふ、なんだか愛されているわねぇ〜」
1話の後書きにあった、母の温かい愛と、村の異質な日常が綴られた文章。
サモの明るく澄んだ声で読まれるほどに、すでに滅びてしまったあの村の記憶と、二度と戻らない幸せな時間がヴェロニカの胸を激しく刺す。
(お母さん……私を愛してくれていた……でも、お父さんも村も、全部狂ってたんだ……)
読み終えたサモは、パチパチと大きな目を瞬かせると、優しく微笑んで手紙を折りたたんだ。
「ずっと部屋に閉じこもってちゃ、心臓にも良くないわねぇ。ヴェロニカちゃん、気分転換にお買いものへ行きましょうか〜!」
「え……お買い物、ですか……?」
「そうよ〜! 美味しいお魚をいっぱい買いにいくの! さあ、おいで〜」
悲しみと混乱に暮れるヴェロニカを置いて、サモは巨大な尾ひれをふわりと揺らし、彼女を軽々と片腕で抱き上げた。
こうしてヴェロニカは、この異様な人魚の大魔導師と共に、中央の街へと繰り出すことになるのだった。
サモに抱えられて出かけた「中央」の街並み。その喧騒の中で、ヴェロニカの耳に飛び込んできたのは、すれ違う人々が潜々と囁き合う不吉な噂話だった。
(あの大魔導師サモ様、実は『深きモノ』の血が混ざっているらしいぜ……)
(だからあんなに浮世離れした姿で、あんな莫大な魔力を持っているんだ……)
(……え? 『深きモノ』の……血……?)
その言葉を聞いた瞬間、ヴェロニカの頭の中で、燃え盛る村で化け物に変貌した父親の姿と、宙を泳ぐ人魚の姿が凶悪に結びついた。
直後、激しい悪寒とともに心臓がドクンと嫌な跳ね方をする。
ふと見上げたサモの顔――その目が、いつもの呑気な表情とは裏腹に、完全に焦点の合わない「虚無の瞳」でヴェロニカを見下ろしていた。
水底の暗闇から覗き込まれているような、底知れぬ恐怖。
せっかくでねじ伏せたはずの心臓の激痛が、精神的なショックで一気に逆流する。
「あ……っ、は、……っ……」
息が詰まり、視界が急速にブラックアウトしていく。




