死因 溺死
翌朝。
嵐は嘘のように去り、透き通るような青空が広がっていた。
私はいつものように胸の機械心臓を『カチ、カチ……』と鳴らしながら、長い廊下の雑巾がけに精を出していた。シメさんがいなくなってから、雑用の量はさらに増えていたけれど、身体の痛みが消えた私にとってはそれほど苦ではなかった。
「……貴女が、ヴェロニカね」
背後から掛けられた澄んだ声に、私は振り返る。
そこに立っていたのは、細身の服にレイピアを差した、凛とした美しい女性――ルクレチアさんだった。昨夜の泥汚れは綺麗に落とされていたが、その瞳には深い疲労と、それ以上に強い意志の光が宿っていた。
「あ……はいっ。おはようございます、監察官様。お掃除の途中でお見苦しくてすみません」
私が雑巾を抱えてお辞儀をすると、ルクレチアさんは静かに歩み寄り、私の前で膝をついて視線を合わせてくれた。
「挨拶はいいわ。胸の調子はどう? フランケン技師の義心臓は、問題なく動いているかしら」
「はい! すごく快調です。息も苦しくないですし、ベロビーさんのお手伝いもいっぱいできます」
「そう……良かったわ」
ルクレチアさんは少しだけ表情を緩めたが、その眼光は私の胸元――機械心臓の文字盤をじっと観察していた。そして、思い切ったように本題を切り出してきたのだ。
「ヴェロニカ。単刀直入に聞くわ。……貴女の『お母さん』のことについて、覚えていることを話しなさい」
「……え?」
ルクレチアさんの口から出た言葉に、私はポカンと口を開けてしまった。
――お母さん?
私の頭の中に、強烈な「疑問」が浮かび上がる。
「お……母さん……?」
私がオウム返しに呟くと、ルクレチアさんは眉を微かにひそめ、探るような視線を強めた。
「ええ。貴女が生まれ育ったあの村が中央に粛清された時、貴女の母親は『苗床』として中央へ連行されたはずよ。貴女はあの子の……お母さんの顔や、最後に交わした言葉を覚えているかしら」
「あ……」
言われた瞬間、胸の奥がキュッと締め付けられるような不快感に襲われた。
機械心臓が『カチ、カチ……』と、少しだけ早いテンポで音を刻み始める。
頭の中に意識を集中させ、自分の記憶の引き出しをひっくり返してみる。
……ない。
村の風景は覚えている。焼き払われた炎の熱さも、腹を割られた手術の恐怖も覚えている。前世の記憶だってある。なのに――自分の「母親」という存在の顔も、声も、名前すらも、真っ白な霧がかかったように何も思い出せないのだ。
「私……お母さんのこと……」
「思い出せないの?」
「はい……。なんだか、最初からいなかったみたいに……何も思い出せません。私、お母さんのこと、好きだったのかな……?」
自分の口から出た言葉なのに、どこか他人事のように聞こえた。
それを見たルクレチアさんの表情が、ハッと硬直する。
(……おかしい。サモ邸の地下でこの子を見た時、そしてサモが語っていた時……あの子は間違いなく『母親を助けたい』という強い執着を持っていたはず。それが、まるで綺麗さっぱり消去されている……!?)
ルクレチアさんの脳裏に、サモの不気味な笑顔が閃く。
(サモ……貴女がこの子の記憶を弄ったのね……!? 母親の存在そのものを消し去って、中央に興味を持たせないように……!)
「ルクレチアさん……? 私、何かおかしいですか……?」
不安そうに顔を覗き込んでくる私に対して、ルクレチアさんはそっと私の肩に手を置いた。
「いいえ……気にしないで。急に妙なことを聞いてごめんなさいね」
ルクレチアさんは立ち上がると、サモ邸の奥へと視線を向けた。その瞳には、サモに対する強い警戒と激しい怒りが燃え上がっていた。
「……ヴェロニカ。もし、貴女が思い出したいと願うなら……私が必ず、貴女の本当の記憶と、お母さんの行方を探し出してあげるわ」
「え……?」
「中央も、サモも……この世界は貴女から大切なものを奪いすぎている。……私は監察官として、この歪みを絶対に許さない」
ルクレチアさんはそう固く誓うと、レイピアの柄を握り直し、私に背を向けて廊下の奥へと歩き出した。
(お母さん……。私には、探さなきゃいけない人がいたの……?)
ルクレチアさんの背中を見送りながら、私は自分の胸元にある機械心臓にそっと手を当てた。
『カチ、カチ、カチ……』
規則正しい金属音の裏で、消されたはずの記憶の欠片が、静かに波紋を広げ始めていた。
だが――その時。
頭上の天井から、ポタリと「海水」の雫が私の頬に落ちてきた。
ぬらりと湿った磯の香りとともに、サモ様の気配が、すぐ近くの暗がりから私たちを静かに見下ろしていたのだった。




