面白くないこと ー中央
馬車を降り、実家への道中を一人歩くシメの足取りは、悲しみと疲労で重く沈んでいた。
大好きなヴェロニカとの別れ、サモ様の理不尽な引き止め、そして一年間過ごしたサモ邸の強烈な日常。ぼんやりと歩いていたシメの鼻腔を、ふと「異物」がくすぐった。
――ツンと鼻を突く、強い潮の匂い。
屋敷を離れたはずなのに、まるでサモ様の近くにいるかのような、あのまとわりつく湿り気と磯の残り香。
シメが思わず足を止め、街道の先へ視線を向けると、向こうから三人の人影がゆっくりと歩いてきていた。
男女三人組――いや、正確には「そう見えた」だけかもしれない。
先頭を行く二人の女性。そして、その少し後ろを、引きずられるように歩く「オレンジ色の髪」の人物。
(……男の人……? それとも、女の人……?)
遠目からでは性別すら判別がつかない、不思議な中性的な容容姿。
だが、シメの目を釘付けにしたのは、その人物の「足元」だった。
痛々しく擦り切れ、血と泥に汚れた靴底。足首から覗く素肌には、豆が何度も潰れては潰れ、痛烈に腫れ上がった生々しい跡が無数に刻まれている。一歩踏み出すごとに激痛が走るはずなのに、その人物の歩みに躊躇や感情の揺らぎは一切ない。
腰に立派な剣を携えていることから、相応の立場や実力を持つ剣士であることは間違いなかった。
それなのに――動きが、あまりにも異常だった。
糸で吊るされた人形のようにカクカクと、ただ機械的に足を前へ出している。
意志や自我を感じさせないその瞳は、まるで「操られている」かのように落ちくぼみ、光を失っていた。
(な、なに……あの人たち……?)
不気味さに息を呑み、シメが密かに身を隠すように道端の茂みへ寄った、その時。
操られているオレンジ髪の人物が、前を行く「一人の女性」の後ろ姿を、じっと、穴が開くほど見つめているのに気づいた。
その瞬間――ドクン、とシメの胸が大きく跳ね上がった。
気味の悪い「海のような匂い」が、一層濃く空気に満ちる。
サモ邸で一年間、大魔導師の気まぐれと狂気の側に身を置いてきたシメの「雑用としての勘」が、絶叫のような警鐘を鳴らしていた。あれは普通の旅人でも、ただの無法者でもない。サモ様の周りに漂っていたあの底知れない「怪異」と、同じ根っこから湧き出ている恐怖だ。
(関わっちゃダメ……! 見ちゃダメ……ッ!!)
シメは心の中で必死にそう叫び、息を殺して実家への荷物を強く抱きしめた。
胸騒ぎは収まらない。あのオレンジ髪の剣士は一体何者なのか。そして、あの潮の匂いを纏う女性たちはどこへ向かっているのか。
シメは冷や汗を顎からポタポタと滴らせながら、三人の異様な不気味な背中が街道の奥――サモ邸や「中央」が存在する方角へと消えていくのを、ただただ祈るような心地で見送るのだった。
一年という月日が過ぎ、舞台の裏側で牙を研いでいた「世界の歪み」が、いよいよ表舞台へと姿を現そうとしていた。
シメさんが屋敷を去ってから、数日が過ぎたある日の深夜のことだった。
激しい雨と雷が打ちつける嵐の夜、サモ邸の勝手口の扉が、壊れるほどの勢いで激しく叩かれた。
「……何事ですか、こんな夜更けに」
不機嫌さを隠そうともせずベロビーさんが鍵を開けると、そこに立っていたのは、全身を泥と雨水に濡らした一人の女性だった。
監察官、ルクレチア。
「……ベロビー。一晩、匿いなさい」
その声は掠れていたが、眼光だけは刃物のように鋭かった。外套には刃物で切り裂かれたような痕があり、中央からの追手か、あるいは道中の何者かと戦闘を繰り広げてきたことは明白だった。
「ハァ……。我が主人は無断の居候を嫌いますよ。特に中央の人間など」
「サモには既に話を通してある。……中央の上層部が私を完全に拘束しようとしたため、力ずくで抜け出してきた。あいつ(サモ)が『面白いから泊めてあげなよー』と言うはずだ」
ベロビーさんは深々と溜め息をつくと、「最高級の絨毯を濡らすな」と捨て台詞を吐き、渋々彼女を屋敷の奥へと招き入れたのだった。




