【第6話:嵐の中の帰還】
第6話です。今回はドバト「疾風」の真骨頂。
大嵐という大自然の脅威に、人と鳥の絆が挑みます。
疾風の命懸けのフライトを、ぜひ応援しながらお読みください。
──ゴォオオオオオ──ッ!
木々をなぎ倒し、
世界を漆黒の闇に染め上げる大嵐の咆哮が、
小田原の支城を激しく揺るがしていた。
板壁を叩く激しい雨音が、城内の張り詰めた静寂を
いやが上にも引き立てる。
「……梛木、本当に大丈夫なのか。
これで失敗すれば、我らは全員、
飢えを待たずに腹を切るほかなくなるぞ」
蝋燭の微かな灯りのなか、
若手武将の一人が青ざめた顔で統真に詰め寄った。
衣笠陣烈が失脚して以降、
城の差配は事実上、梛木統真ら「若輩の徒」へと移行している。
だが、統真の知略で敵の包囲網を一時的に揺るがしたとはいえ、
城内の兵糧は完全に底を突いていた。
「案ずるな。
お初の足と、あの鳥の翼を信じるのだ」
統真はそう答えつつも、膝の上で固く拳を握りしめた。
本物の援軍を呼び込み、この地獄を終わらせる。
そのために、くノ一のお初は今宵、決死の覚悟で敵陣の包囲を強行突破し、
城外の隠れ処へと向かったのだ。
すべては、最後の希望たる一羽──『疾風』を空へ放つために。
だが、窓の外は、立っていることすら困難なほどの暴風雨。
「おい、梛木。
いくらなんでもこの空模様はまずい。
並みの鳥なら、風を恐れて籠から出ることすら拒むぞ」
小屋の隅で鳥籠を見つめていた荒木弦介が、苦渋に満ちた声を漏らした。
「弦介殿、疾風は並みの鳥ではない。
お初が連れてきた、あの嵐を睨みつけていた鳥だ。
……信じよう。あいつらには、帰るべき『家』がある」
──その頃、城外数里。鬱蒼と茂る山林のなか、
漆黒の雨に打たれる影があった。
お初だった。
忍び装束をボロボロに引き裂かれ、肩からは鮮血が滴っている。
敵陣を突破する際、容赦なく放たれた矢の掠り傷だ。
しかし、お初は痛みに顔をしかめることもなく、
背負った小さな竹籠を愛おしそうに胸に抱きかかえた。
「はぁ、はぁ……。
ここまで来れば、もう敵の矢は届かない。だけど……」
お初は、荒れ狂う上空を見上げた。
一寸先も見えぬ暗闇。激しい横殴りの雨が容赦なく顔を打ち据える。
木々が悲鳴を上げて折れ飛ぶような、絶望的な大嵐だ。
お初は籠の蓋を開け、なかの灰色の鳥──疾風を取り出した。
「クルルルッ!」
疾風は、激しい風雨に羽を震わせながらも、
その狂暴なまでに気高い瞳を失っていなかった。
お初は疾風の小さな頭を、自身の濡れた額にそっと押し当てた。
「頼んだよ、疾風。
あんたの脚には、この城の何千人もの命が結ばれている。
うちらの命、すべてを懸ける」
お初は、疾風の燃えるような瞳を見つめた。
「……生きて、あの温かい塒へ帰るんだよ」
お初によって脚に巻き付けられた救援要請の密書
──援軍の正確な到着日時と配置が記された勝利への鍵が、
疾風の細い脚で鈍く光る。
「いっけええええええッ!」
お初が叫びとともに、疾風を大嵐の暗黒へと力強く放り投げた。
バサバサバサッ!
放たれた瞬間、疾風の身体は、猛烈な突風によって木の葉のように
遥か後方へと吹き飛ばされた。
「疾風ッ!」とお初の悲鳴が嵐にかき消される。
──ガッ、と疾風は空中で鋭く爪を立てるようにして、
激しい荒ぶる風を掴んだ。
雨粒の一粒一粒が、小さな身体を打つ鉄礫となって襲いかかる。
暗黒の世界。上下の感覚すら失いそうな暴風のなか、
疾風の羽がミキミキと悲鳴を上げた。
一歩間違えれば、地面へと叩きつけられて即死する。
(クルル、クゥ……ッ!)
だが、疾風は諦めなかった。
なぜ、この絶望の空を飛ぶのか。恐怖や命令ではない。
その脳裏に浮かぶのは、あの薄暗くも温かい鳩小屋の景色。
自分が飢えているときに、泥にまみれて温かい藁を敷き詰めてくれた、
梛木統真の不器用な手。
不器用に声を荒らげながらも、極上の餌を仕分けてくれた荒木弦介の無骨な掌。
あそこには、自分が命を懸けて守るべき『我が家』があり、
自分を待つ愛するつがいがいる。
「愛の情熱」が、疾風の折れかけた翼に、爆発的な力を与えた。
疾風は激しい雨風を切り裂き、羽を血に染めながらも、
ただひたすらに、あの温もりがある方向へと、死に物狂いで前進し続けた。
城内の鳩小屋。夜明け前。
統真と弦介は、微動だにせず窓の外を見つめ続けていた。
大嵐の勢いは、未だ衰える気配がない。
「……やはり、無理だったか。
いくら疾風でも、この天候では羽が折れて墜ちる」
若手武将の一人が、絶望に身を震わせながら床に崩れ落ちた。
「梛木、夜が明けるぞ。
夜が明ければ、敵の総攻撃が始まる。
もう、終わりだ……」
統真は何も答えなかった。ただ、じっと、嵐の闇の向こうを凝視している。
「……いや、まだだ」
弦介が、ガタガタと震える手で窓の縁を掴んだ。
「鳥たちの鳴き声が変わった。
あいつら、上空の『仲間』の気配を察知していやがる……!」
その瞬間だった。
ドサリ、と激しい音を立てて、
窓口の板床に「灰色の塊」が転がり込んできた。
「疾風ッ!?」
統真が叫び、駆け寄った。
床に横たわる疾風の身体は、泥と血にまみれ、
美しい羽は無残に引きちぎれかけていた。
呼吸は荒く、今にも絶えそうなほどにか細い。
だが、その小さな右脚には、
紙で厳重に包まれた筒が、確かに結び付けられていた。
「弦介殿、早く、手当てを!
疾風、よく戻った、よく生きて帰ってきてくれた……!」
統真は震える手で疾風を抱きかかえた。
その小さな胸の鼓動が、トクトクトクと、
信じられないほどの熱量を持って統真の手のひらに伝わってくる。
「生きてる!
この強情鳥め、本当にあの嵐を突破してきやがった!」
弦介が涙をボロボロとこぼしながら、
ぐに傷薬と温かい布を用意し、疾風の身体を優しく包み込んだ。
統真は、疾風の脚から引き抜いた文筒を急いで開いた。
中から現れた墨書を走り書きで確認した瞬間、統真の目に、鋭い勝利の光が宿った。
「皆、聞け!
救援部隊の到着は、明朝、辰の刻!
敵の西翼を衝く手筈となっている!」
広間にいた武将たちが、
一斉に歓声を上げ、地響きのような大号泣が沸き起こった。
「勝てる……!
俺たちは、生き残れるんだ!」
「梛木殿!
いや、あの鳥こそが、我らの摩利支天の御使いにございます!」
誰もが狂喜乱舞するなか、統真はそっと、
弦介の腕のなかで静かに目を閉じる疾風の頭をなでた。
「ありがとう、疾風。
お前が命を懸けて繋いでくれたこの便り筋、決して無駄にはしない」
窓の外、激しかった大嵐の雲の切れ間から、
眩いばかりの朝日の光が差し込み始めていた。
それは、絶望に沈んでいた城塞の解放を告げる光であり、
人と鳥の『愛の情熱』が、歴史の運命を完全に覆してみせた、奇跡の夜明けであった。
疾風、本当によく頑張った……!
ボロボロになりながらも帰ってきた姿には、執筆しながら目頭が熱くなりました。
これで反撃の準備は整いました。次回、籠城戦が決着します!




