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『通信の鳩、食料の鳩 〜戦国の兵糧から米相場、大正の災害まで。鳥の「愛」とフンで日本を救った4代の歴史〜』  作者: 塩塚 蘭仮名


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【第25話:勝海舟と江戸無血開城】

第25話です。歴史の裏舞台に鳩あり!

勝海舟と西郷隆盛の緊迫した交渉を裏で支えたのは、統次郎たちの鳩でした。

歴史の真実に迫る、ハラハラドキドキの展開です。

「……おい、梛木の旦那。

いよいよ江戸が火の海になる一刻の猶予もない、

官軍による江戸総攻めまでの猶予が完全になくなってきたぜ。

薩摩の鉄砲隊が、品川の手前まで黒い波みたいに迫っていやがる」


 赤坂にある勝安房守の屋敷の一室。

低く重苦しい空気が満ちるなか、白髪の大きく交じった無精髭を乱暴に掻きながら、

荒木弦介の孫・荒木弦蔵が、

長年使い込んってきた樫の木の頑丈な棍棒を、

床へドンと凄まじい音を立てて突き立てた。


その濁った、しかし鋭い眼光には、

来るべき戦火への激しい怒りが宿っていた。


「分かっている、弦蔵。焦るんじゃない。

百万の生霊が住まうこの江戸の街を、戦火に包ませるわけにはいかない。

それが、神君家康公から常盤橋の地を賜り、

100年の伝路を守り抜いてきた我が一族の、最後の職分だ」


 老眼鏡の奥の細い目を鋭く光らせ、

大坂から届いた薄紙の密書を丁寧に、一分の狂いもなく折りたたんでいたのは、

老境に達した梛木統次郎だった。

その指先はわずかにも震えておらず、冷徹なる軍配者の魂は今なお健在であった。


「統次郎さん、表の通りは本当に大変な騒ぎだよ。

彰義隊の若者たちが不穏な声を上げて、官軍と一戦交えようと血気盛んだ。


地上の道はね、敵味方の過激派による監視の目がぎらぎらと光っていて、

直々の談判もできず、使者を立てることも叶わぬ状態さ。


普通の人間がそこらを歩けば、それだけで密偵と疑われて細切れにされちまうわよ」


 部屋の障子を静かに、しかし素早く開けて滑り込んできたのは、

老女となったお夜だった。


白髪を簪できつく結い上げたその顔は緊張で強張っている。

小脇には、かつて江戸中を沸かせた刷り上がったばかりの瓦版ではなく、

緊迫した情勢を伝える密偵からの生々しい書き付けを、大事そうに抱え込んでいた。


「──お主たちが、あの常盤橋の伝説の鳥刺し一族か。

話には聞いていたが、揃いも揃って凄みのある老兵だな」


 部屋の奥、薄暗い行灯の光のなかでどかと胡坐をかいていた陸軍総裁・勝海舟が、

不敵にして傲慢な笑みを浮かべて統次郎たちをじっと見据えた。

その鋭い眼光は、統次郎の持つ一族の十手を見逃さなかった。


「安房守様。お初より、官軍総督・西郷隆盛殿との和議の周旋が、

地上の愚かな過激派どもによって阻まれていると聞き及びました。

地上の道が閉ざされたのであれば、我が一族の翼、

お役に立ててご覧に入れます。空の広さを見せてやりましょう」


「ハハッ、そいつは頼もしいねえ!

西洋の電気の妙術とやらも、まだこの国じゃあ役に立たねえからな。

人間が走れば薩摩の回し者か幕府の裏切り者として、

一瞬で生首が飛ぶ。

だが、お主たちの鳥なら、あの血生臭い連中の頭上をひと飛びだ。

誰も届きゃあしねえ」


 勝は懐から、細筆で走り書きされた一通の薄い書状を取り出した。

そこには、徳川慶喜公の絶対なる恭順の意と、

江戸城明け渡しの細かな条件が、天下の命運とともに克明に記されている。


「これを駿河台の官軍本陣にいる西郷に届けてくれ。

百万の命が、その小さな羽に懸かっている。仕損じるなよ」


「畏まりました。弦蔵、行くぞ。

初代『疾風(ハヤテ)』の気高き血を最も濃く引く、

我が一族の最高傑作を、今こそ解き放つ時だ」


「おうよ、旦那! あいつらの天の直路(ひたみち)を見くびるなよ!

弾が届くようなヤワな飛び方はしねえ!」


 常盤橋の大鳩舎の屋根裏。緊迫した夜の静寂のなかで、

弦蔵は灰色の見事な若鳥──

『疾風二世』の最高傑作を、その大きな両手で愛おしそうに包み込んだ。

鳥の小さな体温が、弦蔵の汚れた手のひらにじんわりと伝わる。


「いいか、疾風。下を見てみろ、地上のねずみどもが鉄砲を構えて

醜く睨み合っていやがる。

だがな、お前の往く道はあの雲の切れ間、天の最短の道だ。

風を切り裂いて、百万の命を繋ぐ和解の報せを繋いできやがれ!」


 クックッ、クゥ。若鳥は、相棒の凄まじい覚悟を映したかのような、

暗闇をも貫く鋭い眼光で高らかに喉を鳴らし、

夜の闇へと一条 の矢のごとく弾け飛んだ。


 人間が天下の議論で血気盛んになり、

己の野心と恐れから刀を抜いて睨み合う遥か頭上を、

疾風の最高傑作たちは誰にも気づかれることなく、

凄まじい速度で往復し始めた。


品川の陣、駿河台の本陣、そして赤坂の勝邸。

地上の過激派が血眼になって怪しい使者を探しているその真上を、

灰色の翼はただ一途に、風を追い抜いて翔け抜けた。

人と鳥の絆が、歴史の裏舞台で静かに火花を散らしていた。


「……安房守様、西郷殿からの、たった今の返書にございます。

ご確認ください」


 数刻後、呼吸一つ乱さずに統次郎が勝の部屋に滑り込み、

勝の目の前に、独自の結び目で縛られていた薄紙の密書を差し出した。

勝はそれをひったくるようにして広げた。


「何だと……!? もう戻ったか!

大坂の飛脚でもこうはいかねえぞ!

どれ……『徳川の恭順、しかと見届けた。明日の総攻めは即座に中止とする』。


ハハ! やったな、梛木!

西郷の奴め、この鳥の異常な速さに腰を抜かしたに違いねえ!

地上の軍勢なんざ、空の前には形無しだ!」


 勝海舟は書状を畳に叩きつけ、

屋敷を震わせるほどの豪快な笑い声を響かせた。

その顔には、極限の緊張から解放された、武士としての深い安堵が満ちていた。


「統次郎さん、本当に……本当に江戸が救われたんだね……。

おれたちの街が、守られたんだね……」


 お夜が目元に深い皺を寄せ、涙をボロボロと止めどなくこぼしながら、

統次郎の老いた手を強く握りしめた。


その手のひらは、かつて共に戦った日々と同じように温かかった。


「ああ、お夜。地上の人間たちが己の

野心と恐れでこの美しい街を火の海にしようとしたその真上で、

我らの守り抜いた小さな翼が、

江戸無血開城という、この国を救う最大の和解を完璧に成し遂げたんだ。

先祖の執念が、ついに天下を動かした」


 天井の太い梁の上から、初代お初の面影を色濃く残す

孫娘の若きお初がひらりと音もなく床へ降り立ち、

不敵に口元を緩めて笑った。

その瞳には一族の誇りが爛々と輝いている。


「地上の大砲や銃なんて、お空の直路にはこれっぽっちも届かないや。

やっぱりうちらの勝ちだね、軍配者様」


「おうよ!

鳥の温もりを知らねえ奴らに、天下の命脈は握らせねえってんだ!

ざまを見やがれ!」


 弦蔵が頑丈な棍棒を天高く掲げ、涙混じりに大笑いした。

 数日後、静かに江戸城の城門が開かれ、

江戸の街に一滴の血も流れることなく、

新しい時代への扉が静かに開いた。


日本橋の商人たちも、長屋の町人たちも、誰もが戦火を免れた我が街で、

いつもと変わらぬ平穏な朝を迎えていた。


「……名など残らなくていい。それでいいんだ」


 常盤橋の大鳩舎の縁側で、統次郎は夕日に輝く広大な空を見上げながら、

肩の上の若鳥を優しく撫整した。


「誰も、この無血開城の偉業の影に、

小さな鳥たちの命懸けの羽ばたきがあったことなど、

後世の記録には残さないだろう。


だが、私たちが育て、100年の血統を繋い守り抜いたこの小さな命こそが、

江戸の街を破壊から救った影の最大の立役者だ。

……その事実を我らだけが知っていれば、

一族としては十分すぎるほどの栄誉だよ」


 お夜が統次郎の隣に静かに並び、夕日に照らされる美しい空を見つめた。

二人の影が、板床に長く寄り添うように伸びていく。


「そうだね、統次郎さん。

時代が変わって、江戸が東京になろうとも、

うちらの創り上げた人と鳥の絆は、誰にも引き裂けない本物だもの。

これまでも、これからもね」


 空を見上げれば、無数の灰色の影が、

新しき世の夜明けを祝福するかのように、美しい螺旋を描いて力強く、

どこまでも自由に羽ばたいていた。


100年の執念を懸けて紡ぎ上げた空の伝路は、地上の不条理を遥か頭上ではねのけ、

終わりゆく幕府の歴史の終着点に、

最も美しく、最も気高き勝利の凱歌を響かせるのだった。

人と鳥の絆は、新しき明治の空へと、脈々と受け継がれていく。

江戸無血開城、大成功です!

100万人の命が、小さな鳩の翼によって救われました。

次回、時代は明治へと変わり、世界に「新しい風」が吹き荒れます。

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