【第24話:幕末の動乱と黒船】
第24話をお届けします。舞台は一気に幕末へ。
黒船来航に揺れる江戸の街で、おじいちゃん・おばあちゃんとなった統次郎たちが、
街を戦火から救うために動き出します。
「……統次郎さん、聞いたかい。
浦賀の海に、本当に山のような黒い異国船が現れたってさ。
それも、おびただしい煙を吐きながら、海を割って進んでくるんだって」
常盤橋の大鳩舎の奥座敷。
すっかり白髪の混じった髪をきつめの簪で執念深くまとめ、
目元に深い皺を刻んだお夜が、
刷り上がったばかりの、まだ墨の匂いの生々しい和紙を
バンと大きな音を立てて机に叩きつけた。
かつて最速相場勝負や肥料の仕掛けで江戸中を大熱狂させた、
あの威勢のいい瓦版屋の娘も、いまや老練な年輪を重ね、
世の酸いも甘いも噛み分けた老女となっていた。
「ああ、勘定所でもその驚天動地の噂でもちきりだ。
二百六十余年の泰平の世に慣れきっていた江戸の街は、
文字通り未曾有の狼狽に陥っているよ。
上から下まで、誰もが正気を失っている」
老眼鏡を細い指先で外し、
深く、重い息を吐きながら顔を上げたのは、
同じく老境に達した梛木統次郎だった。
かつての鋭い青年は、今や幕府の奥深くで天下の動向をじっと見つめる、
老練な役人となっていた。
だが、その瞳の奥に宿る軍配者の光はいささかも衰えてはいない。
「おれの耳にゃ、異国の鉄砲や大砲の音が、
もうここまで地響きを立てて響いてきそうだぜ。
まったく、地上のねずみどもは青くなって右往左往しやがって。
情けねえ話だ」
奥の薄暗い巣箱から、大きな足音を響かせて歩み出たのは荒木弦蔵だった。
白くなった無精髭をじりじりと掻きながら、不敵にして獰猛な笑みを浮かべる。
その無骨な手には、100年の歴史を、
そして幾多の理不尽を跳ね返してきたあの頑丈な樫の木の棍棒が、
変わらずに握り締められていた。
「統次郎さん。事は浦賀だけの騒ぎじゃないよ。
佐幕の幕臣たちは刀を血走らせて不逞の輩を斬り捨てんと目を光らせ、
尊王攘夷を叫ぶ諸国の志士たちは京や江戸の路地裏で徒党を組んでいる。
緊張は日々に高まり、いつ全面の戦が起きてもおかしくない一触即発の事態だよ。
若者たちは天下の主導権争いや天下の議論のぶつかり合いで血気盛んだけど……
このままじゃ、この百万の生霊が住まう江戸の街が、
一瞬にして火の海になっちまうわ」
お夜の震える声には、
かつての売上を気にする瓦版屋としての商売人の欲など、
もう一粒も残っていなかった。
そこにあるのは、この長年暮らしてきた美しい街と、
そこで懸命に生きる人々を心から憂う、深い情愛だけであった。
「お夜の言う通りだ。世が理不尽な恐れと強欲で狂おうとしている。
ならば、我ら三人が、今こそ先祖の遺志を歴史の裏舞台で発揮する時が来た。
これまでの100年は、このときのための調練だったのかもしれない。
……弦蔵、お前が寝食を忘れて手塩にかけ、
100年の血統を紡いできたあの鳥たちは、今も健在か」
統次郎の静かな、しかし確信に満ちた問いに、
弦蔵は分厚い胸を叩いて豪快に笑った。
「当たり前じゃねえか、旦那! おれを誰だと思ってやがる。
初代『疾風』の気高き血を引く、おれたちの最強の鳩どもは、
地上の泥道がどれほど引き裂かれようとも、
いつでも天の直路を翔ける準備ができてるぜ。
なぁ、疾風!」
クックッ、クゥ。
弦蔵の腕の上で、灰色の見事な若鳥が、
暗闇を睨みつけるような鋭い眼光で喉を鳴らした。
その羽は鋼のように鈍く輝き、大嵐をも切り裂く強靭さを秘めていた。
「私たちの目的は、ただ一つ。
大切な同胞や、何の罪もない江戸の庶民たちの無駄な血を流させないことだ。
それ以外にない」
統次郎は老いた体を静かに立ち上げ、壁に掛けられた古びた、
しかし克明な『諸国街道絵図』を見つめた。
「地上の若者たちが己の野心と恐れから刀を抜き、
無駄な血を流そうとしている。
地上の伝路は、関所と銃爪によって完全に閉ざされるだろう。
ならば、私たちは空からすべてを見下ろし、泰西の新たなる火器や
銃弾が飛び交う不穏な空気のなか、
極秘裏の知らせ集めと和解の周旋を開始する。
これこそが、戦国の終わりに神君家康公から裁許状を賜り、
100年守り抜いたこの小さな翼の、本当の職分だ。
空の広さを、もう一度天下に教えてやるんだ」
「面白くなってきたじゃない。
地上の役人や志士どもが泥にまみれて殺し合おうとしている遥か頭上を、
うちらの鳥がひと飛びで真実を運ぶんだね。
じいさんたちの忍びの足、今こそ見せてやるよ!」
天井の太い梁の上から、
初代お初の面影を色濃く残す孫娘の若きお初がひらりと音もなく滑り降り、
不敵に口元を緩めた。その瞳には、一族の誇りが爛々と輝いている。
「ああ、頼むよ、お初。お夜は瓦版屋の耳目を使い、
市井のなかに潜む志士や幕臣の不穏な動きをいち早く掴んでくれ。
弦蔵は鳥たちを各地の極密の継所へ放ち、
京と江戸、二条城、そして浦賀の情報を一分一秒の狂いもなく繋ぐんだ。
地上の誰よりも早くね」
「任せときなさいな。老兵の最後の知恵、
江戸の底力を見せてあげるわ! 簡単に火は付けさせないよ!」
お夜の力強い言葉とともに、激動の騒乱の世の裏舞台で、
人と鳥の絆による、最も静かで、最も熾烈な和解への戦いが、
いま静かに幕を開けたのだった。
それからの数ヶ月、江戸の空には、誰の目にも留らぬ灰色の影が、
絶え間なく行き交うようになった。地上で刀が抜かれ、
大砲が構えられるその真上を、鳥たちは黙々と翔け抜けた。
「よし、疾風!
浦賀の異国船の動向、そして薩摩の黒い動きを、
一刻も早く常盤橋の統次郎の元へ届けるんだ!
頼んだぞ!」
弦蔵は寝食を忘れ、大鳩舎の底から最強の鳩たちを次々と解き放ち続けた。
鳥たちは、地上の関所や飛び交う銃弾を遥か頭上ではねのけ、
雲の切れ間の天の直路を猛スピードで突き進んだ。
一方、お夜は長屋の裏井戸から大棚の奥座敷まで、
張り巡らせた報せ網を駆使して、戦火の種を摘むための噂を流し、
地上の動揺を抑え続けた。
「いいかい、みんな。
お偉い方々の天下の議論のぶつかり合いで戦なんて始めたって、
損をするのはいつだって俺たち民草さ。
俺たちはこの江戸の街を、自分たちの手で、
静かに守りぬきゃいけないんだよ」
統次郎は勘定所の奥で、届いた空からの知らせを一通一通素早く吟味し、
暴発寸前の佐幕と勤王の両派の間を取り持つための、
極秘の書状を執筆し続けた。
「……薩長が裏で大きく動くか。
ならば、城内の閣老たちへ、無駄な抗戦を避けるよう、
この確たる情報を持って説得に回る。
地上の武将どもがどれほど大軍を動かそうと、
天を翔ける空の伝路までは決して見えまい」
夕暮れの赤い光が、
盤橋の大鳩舎を美しく染め上げていく。
老人となった三人は、縁側に静かに並んで腰掛け、
江戸の空を覆い尽くすほどの、力強い羽ばたきを見つめていた。
「統次郎さん、見てみなよ。あの子たちの飛び方、
やっぱり 100 年前の初代の疾風にそっくりだねえ」
お夜が、涙で赤く腫らした目を袖でそっと拭いながら、
これ以上ないほど温かい笑顔を見せた。
「ああ。時代がどれほど激動しようとも、
人と鳥が紡ぎ上げた意地と執念は、決して消えることはない。
我らが守るべきこの翼には、大自然の猛威をも、
人間の狂気をも跳ね返す、不滅の命が宿っているのだから」
統次郎の瞳には、因縁を断ち切った喜びだけでなく、
未来の空の伝路を見据える、冷徹なる軍配者の光が鮮烈に灯り続けていた。
地上の人間たちが、己の野心と恐れから刃を交えようとしているその真上で。
100年の絆を抱いた空の伝路は、
百万の生霊が住まう江戸の街を破壊から救うため、次なる歴史の大転換点──
江戸無血開城の奇跡へと向かって、力強く、どこまでも美しく羽ばたいていくのだった。
激動の幕末編スタートです。
どれほど武器が進化しようとも、戦いを止めるのはいつだって「正しい情報」。
次回、歴史の教科書でも有名な「あの偉人」と鳩が交渉します!




