【第23話:老中・衣笠の自爆】
第23話、第2章の最大のクライマックスです!
不正を働く老中・衣笠を、正確な「情報」の力で民衆の前に引きずり出します。
スカッとすること間違いなしの回です。
「言え。誰の指図で、常盤橋の鳩舎に火を放とうとした」
薄暗い北町奉行所の白州ではない。常盤橋の大鳩舎の奥座敷にて、
梛木統次郎は捕らえられた放火魔の首謀者を冷徹に見下ろしていた。
窓から差し込む月光が、統次郎の静かな横顔を白く照らしている。
その手には、先祖統真から伝わる軍配者の十手が握られ、
鈍い銀色の光を放っていた。
「し、知らねえ!
俺たちはただ、通りすがりの富裕な者に金を握らされ、頼まれただけだ!
誰の指図かなんて、おれたち長屋の雇われ者に分かるわけがねえだろう!」
特製の捕縛網にがんじがらめに縛られた男が、
床の上で激しく身をよじりながら狂ったように叫ぶ。
網の目が男の肉に食い込み、
必死の抵抗も虚しくその場に転がるのみだった。
「白々しい嘘を吐くな。
お前たちの持っていた油樽の底に押された極密の焼印、
そして懐に忍ばせていた手形……
すべて老中・衣笠様の屋敷から出されたものと、
すでに裏が取れているんだよ。
言い開きができると思うな」
奥の暗がりからゆっくりと歩み出た荒木弦蔵が、
手にした頑量な樫の木の棍棒を、畳にドスンと凄まじい音を立てて叩きつけた。
座敷全体が大きく揺れ、その凄まじい威圧感に、
男の顔から一瞬にして血の気が引き、青ざめてガタガタと震え始めた。
「弦蔵さん、それだけじゃないわよ。
統次郎さん、この男どもの汚れた荷物の底から、
大坂堂島からの相場書状の『写し』が何通もおびただしく見つかったのよ」
お夜が、刷り上がったばかりの、まだ墨の匂いの残る和紙を小脇に抱え、
怒りに満ちた瞳で数枚の古びた書状を机の上にバサリと叩きつけた。
その紙には、不義なる数字がびっしりと書き連ねられていた。
「これは……大坂の相場報せか。
お夜、日付と江戸の着日の有様はどうなっている」
「ここが一番の腐りどころ、悪事の根源よ。
江戸の勘定所に届くべき正式な飛脚の相場が、
いつも二日も三日もわざと遅れてるの。
その間、衣笠の身内のあくどい商人たちが、古い直で
江戸の米を根こそぎ買い占めてるの。
つまりね、あのドケチ老中、自らの地位を利用して
上方の正しい情報をわざと隠して遅らせ、
天下を揺るがすおびただしい不義の買い占めで、
私腹を肥やしていたのよ!
百姓が冷害で泣いているその裏でね!」
「相場を不義に狂わせ、私腹を肥やす悪行、か。
お上が倹約を唱えて民草に我慢を強いるその裏で、
民の主食たる米の直を弄んで私腹を肥やしていたとは……
いささか卑しき仕業にも程がある」
統次郎の指先が、怒りと悔しさで小さく、しかし激しく震えた。
先祖から100年、ただ愚直に伝路を守ってきた一族に対し、
大義名分を掲げて弾圧してきた男の正体が、
ただの醜悪な泥棒ねずみだったのだ。
「統次郎さん、もう我慢することはないね。
衣笠の決定的な不始末の証拠は、これですべて揃ったんだ。
泳がせておく必要なんてどこにもないよ」
天井の太い梁の上から、お初がひらりと一枚の木の葉のように
音もなく滑り降り、
小刀の柄をきつく握りしめた。
その瞳には、100年にわたる不条理な弾圧に対し、
知略と耳目の力で積年の恨みを晴らさんとする、
隠密の執念の炎が赤々と宿っていた。
「ああ。お夜、この不義の証拠と、
大坂から我が大鳩舎へ届いたばかりの『本物の正しい相場情報』、
すべてを特大の瓦版に刷り上げて、夜明けとともに江戸中にばら撒いてくれ。
地上の泥道しか見えぬ堅物どもに、
空の伝路がもたらす真実の恐ろしさを、骨の髄まで教えてやるんだ」
「任せときなさいな!
江戸中の大棚から長屋まで、
夜明けまでに綺麗さっぱりひっくり返してあげるわ!」
お夜の不敵な笑みとともに、泰平の世の深い闇を切り裂く、
真の耳目の競い合いが始まった。
大鳩舎の刷り台が、夜通し激しい音を立てて真実を刷り上げていった。
翌朝、江戸の街は文字通り激震した。
「さあさあ、お立ち会い!
老中・衣笠様の御不義、米相場の買い占めの悪行が
すべて暴かれた特大の瓦版だよ!
お上が倹約を叫ぶ裏で、俺たちの米を盗み取っていた悪徳ねずみの正体だ!
正しい大坂堂島の直もここにすべて書いてあるよ!
騙されるんじゃないよ!」
日本橋の交易所から、長屋の裏井戸、
大棚の奥座敷にいたるまで、お夜の放った瓦版は瞬く間に江戸中を埋め尽くした。
「おい、見たか!?
衣笠の野郎、自分の儲けのために大坂の報せを隠してたんだってよ!
通りで米の直がおかしいわけだ!」
「おれたちが冷害で飢えそうになって、必死に土を耕してた時も、
あいつらは米を隠して裏で大笑いしてたんだな!
人間の風上にも置けねえ、今すぐ引きずり出せ!」
真実を知った庶民や商人たちの怒りは、一瞬にして爆発した。
何千、何万という怒れる町人たちが、地鳴りのような怒号を上げて、
衣笠の豪華絢爛な屋敷の前に怒涛の勢いで押し寄せた。
「悪徳老中、出てこい!
隠した米を返せ!
鳥汁にするのはてめえの頭の方だ!」
数万の群衆が放つ叫びが凄まじい地響きを立て、
衣笠の屋敷の門を激しく揺らし、完璧に取り囲んだ。
地上の権力は、民草の怒りの前に一瞬で瓦解しつつあった。
「おのれ……おのれ、梛木の小倅め……!
瓦版ごときで民草を煽り、この公儀の威信を脅かすとは……!」
屋敷の奥深く、重苦しい静寂の中で、
老中・衣笠は届けられた瓦版をガタガタと震える手で引き裂き、
床を狂ったように睨みつけていた。
その顔から高慢な余裕は消え去り、恐怖の色がへばりついていた。
「衣笠様、もはや言い逃れはできませぬ。
北町奉行所からも、捕らえられた放火魔たちの白状が届いております。
さらに、城内の閣老の皆様方も……」
近習の青ざめた声が響く。
言い逃れのできない決定的な不正の証拠を突きつけられた閣老たちも、
民草の打ちこわしと公儀の失墜を恐れ、
ついに衣笠を完全に見捨てる決断を下したのだ。
「老中・衣笠。
自らの職分を汚し、相場を不義に狂わせた罪により、その職を剥奪。
家財はことごとく没収、八丈島への遠島(流罪)に処す!」
御用部屋に響き渡った大号令。
かつて 100 年前に先祖の衣笠陣烈が味わった以上の、
完璧な破滅がその末裔に下った瞬間であった。
地上の権力に執着した一族は、
空の真実の前に木っ端微塵に砕け散った。
常盤橋の大鳩舎の縁側で、統次郎は肩の上の若鳥──
疾風二世の小さな頭を愛おしそうに優しく撫でた。
「終わったね、統次郎さん。
あのドケチ老中、二度と江戸の土は踏めないよ。
今頃、波に揺られてるわ」
お夜が、刷り上がったばかりの「遠島処分」の
顛末を伝える新しい瓦版を広げて、
これ以上ないほど温かい笑顔を見せた。
「ああ。
100年にわたる衣笠一族からの理不尽な弾圧に対し、
我らは先祖の遺志を継ぎ、知略と耳目の力で、
ついに積年の恨みを晴らすことができたんだ。誰も死なせることなくね」
「ハハハハハ! 見たか、ざまを見やがれってんだ!」
弦蔵が涙混じりに豪快に大笑いし、
統真の血統図の前で汚れた拳を高く突き上げた。
「俺たちの鳥が、ついに天下の悪党に完全な勝利を収めたんだ!
じいさんたちも、あの空の上で美味い酒でも飲んで笑ってるぜ!」
お初も、梁の上で足を揺らしながら不敵に微笑む。
その小刀は、もう血を求める必要はなかった。
夕日に照らされる江戸の広大な空を、無数の灰色の影が、
美しい螺旋を描いて力強く、どこまでも自由に羽ばたいていた。
その羽ばたきは、新しき時代の到来を告げる凱歌のようだった。
「……だが、みんな、これは終わりではない。
世は常に移り変わる。
100年守り抜いたこの翼は、これからさらに激動する次の世の空へと、
引き継がれていくのだから」
統次郎の瞳には、因縁を断ち切った喜びだけでなく、
未来の空の伝路を見据える、冷徹なる軍配者の光が鮮烈に灯り続けていた。
江戸の空に勝利の凱歌が響き渡るなか、人と鳥の絆の物語は、
泰平の世の終わり、そして新しき時代の夜明けへと向かって、
脈々と受け継がれていくのだった。
老中・衣笠、ついに失脚!先祖代々の因縁に、見事なケリをつけました。
江戸の平和を守った統次郎たちですが、時代はさらに激動の「幕末」へと突入していきます。




