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『通信の鳩、食料の鳩 〜戦国の兵糧から米相場、大正の災害まで。鳥の「愛」とフンで日本を救った4代の歴史〜』  作者: 塩塚 蘭仮名


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【第15話:戦国編完結・未来へ繋ぐ翼】

第15話、ついに【戦国編】の完結です。

初代「疾風」との涙の別れ、そして次なる時代へと引き継がれる人と鳥のバトン。

感動のフィナーレをどうぞ。

──……クゥ……。 


それは、驚くほどか細く、

しかしどこまでも透き通った鳴き声だった。 


常盤橋の袂に設けた隠居所の奥。

微かな日差しが差し込む部屋の片隅で、


梛木統真、荒木弦介、お初の三人は、

小さな寝床の周りに固まって静かに座り込んでいた。


 寝床のなかで横たわっていたのは、

灰色の古びた羽を持つ一羽の老鳥

──初代『疾風(ハヤテ)』だった。


 かつて大嵐の暗黒を引き裂き、

血を流しながらも城を救う救援の密書を届けてみせた、

あの伝説の異端鳥。


狂暴なまでの光を宿していたその黒い瞳は、

いまや穏やかな膜に覆われ、

静かに、ゆっくりと瞬きを繰り返している。


統真がかつて書き始めた『鳩通信の術』

の巻物が完成するのを見届けるかのように、

その命の灯火は静かに消えかけようとしていた。


「……疾風。

もう、無理に動こうとしなくていいぞ」


 統真は老いた相棒のすぐ傍らに膝を突き、

その乾いたくちばしの先を、震える指先でそっと撫でた。


かつて自身の指を狂暴に突いて拒絶し、

後に生と死を共にした相棒の温もりが、いま、急速に薄れていくのが分かった。


「おい、疾風。

お前が逝っちまったら、俺は誰に極上の豆を仕分ければいいんだよ」


 弦介が、大きな手で何度も無精髭の混じった涙を拭いながら、

押し殺した声で呟いた。


無骨な手のひらが、

疾風の小さく上下する胸のあたりに優しく添えられる。


「強情鳥のくせに、最後はこんなに大人しくなりやがって……。

なぁ、疾風、お前と出会えて、俺の人生は救われたんだぜ」


「そうだよ、疾風……。

うちの命を救ってくれたこと、一瞬だって忘れたことはないんだからね」


 お初が寝床の縁にすがりつき、

子供のようにぽろぽろと大粒の涙をこぼした。


かつて風のように戦場を駆け抜けた超一流のくノ一も、

いまはただ、最愛の家族の最期を前にして、

胸を締め付けられる一人の女性であった。


 クゥ……。 

疾風は、最後の力を振り絞るようにして、

統真とお初、そして弦介の顔を順番に見つめた。


その穏やかな瞳の奥に、

かつて共に泥を舐め、嘲笑を跳ね返し、

空の限界に挑み続けたあの日々の記憶が、確かに灯っているように見えた。


 やがて、深く、静かな溜息がひとつ。 

疾風の小さな身体から、完全に力が抜けた。


胸の鼓動が静かに止まり、美しい灰色の翼が、

静かに寝床のなかに沈み込んでいく。


「……逝ったか」 


統真の声が、静まり返った部屋に小さく落ちた。


「疾風……ッ! うあああああんっ!」


 お初が疾風の亡骸を抱きしめるようにして、

声を上げて泣き崩れた。


弦介もまた、両手で顔を覆い、

肩を激しく震わせて男泣きに暮れている。


統真はただ、静かに目を閉じ、

胸の奥で相棒の魂を深く、深く、抱きしめ続けた。


 翌日。 

雲一つない、抜けるような江戸の青空が広がっていた。 

三人は、江戸の活気ある街並みと、

遠くの地平線が一望できる、

日当たりの良い美しい丘の上に立っていた。


「ここなら、いつでも江戸の空を見下ろせるな。

疾風、お前の一番好きな無上の地だ」


 弦介が、優しく、本当に愛おしそうに、

疾風の亡骸を土のなかに埋葬した。


鍬(くわ)を持つその手は終始震えていたが、

土をかける仕草は、まるで雛を巣箱へ戻すかのように丁寧だった。


お初がその傍らに、疾風が好きだった野生の木の実をそっと手向けた。


「……寂しくなるね、軍配者様」


お初が赤く腫らした目で、統真の横顔を見上げた。


「ああ。

だが、寂しがってばかりはいられないよ、お初。

上を見てみろ」


 統真の言葉に、弦介とお初が揃って顔を上げた。 

丘の上を吹き抜ける心地よい風に乗って、

大鳩舎の方角から、

無数の灰色の影が湧き立つようにして舞い上がってきた。 


十羽、二十羽、いや、数え切れないほどの鳩の群れだ。

それらは、初代・疾風が残した多くの子孫たちだった。


彼らは、先祖から受け継いだその強靭な翼と

圧倒的な帰巣本能をいかんなく発揮し、

美しい螺旋を描きながら、

江戸の青い空へと力強く、どこまでも自由に羽ばたいている。


「ハハ……、見事なもんだ」


 弦介が涙を拭い、口元を不敵に歪めた。


「あいつらの飛び方、やっぱり疾風にそっくりだ。

俺たちが磨き上げた『低空の道』も、

あいつらの血のなかにちゃんと生きている」


「うん、そうだね。誰にも邪魔されない、この上なき空だ」


 お初が誇らしげに胸を張り、統真の隣に並んだ。

 統真は、その輝かしい光景を見上げながら、

そっと左右の手を伸ばした。


右手を弦介の無骨な掌が、

左手をお初の小さくもしなやかな手が、ぎゅっと強く握りしめる。

三人の心のなかに、言葉にせずとも確かな熱が通い合った。


「……今は、平和だ」 


統真は空を飛ぶ無数の翼を見つめたまま、

静かに、しかし地を走るような重みを持って呟いた。


「家康様から裁許状を賜り、

我が梛木の一族の伝路は天下の公認となった。


誰もがこの鳥たちを珍重し、情報の速さを称えている。

だが、世は常に移り変わる。


いつかまた、

この鳥たちが、そして私たちの技術が試される時代が必ず来る」


「試される時代、だと? 

これ以上の泰平の世に、何があるってんだよ」


 弦介が問いかける。


「人間という生き物はね、

荒木殿、喉元を過ぎればすぐに危機を忘れるのだよ。


いまに地上の道が整い、人間が奢り、からくりや、

より手軽な権力に溺れる時が来る。万事、理詰めのなかに閉じ込められ、

誰もが目に見える仕組みだけを信じるようになる。


……だが、その時こそ、

この生身の、純粋な生き物たちの力が、再び天下に必要とされるはずだ」


 統真の瞳の奥に、100年先、

そのさらに先の行く末の絵図が、鮮烈に描き出されていた。

 

どんなに時代が変わろうとも、

生き物と人間が紡いだ「意地と執念」は、

からくりには決して真似できない絶対の絆となる。


「だからこそ、私たちの子孫に、この遺志を託さねばならぬ」


 統真は二人の手をさらに強く握りしめた。


「梛木、荒木、お初。

私たちの血を引く者たちへ、固く言い聞かせるのだ。

『鳩を愛し、その血統を何があっても守れ』とな」


「おうよ。

俺の孫にも、その孫にも、日の下一居心地の良い

『家』の創り方を叩き込んでやるぜ。


鳥の温もりを知らねえ奴に、

天下の伝路の仕掛けを語らせるかってんだ」


 弦介が豪快に笑った。


「うちも、空の道を裏で支える影の役割、

しっかりうちの子供たちに引き継がせるよ。


どんな時代になっても、うちらの鳥をいじめる悪いねずみは、

うちらの子孫が絶対にお仕置きしてあげるからさ!」


 お初も不敵に微笑み、統真に大きく頷いてみせた。


「頼む。……これで、戦国編の物語は幕を閉じる。だが、これは終わりではない」


統真は、空を覆い尽くすほどの羽ばたきを見つめ、深く息を吸い込んだ。


「100年先、あるいはその先の行く末へ続く、私たちの壮大な宿命の始まりだ」


クックッ、クゥ。 

空を舞う無数の翼が、三人の交わした固い誓いを祝福しているかのように。

 

丘の上を、優しく、

しかしどこまでも力強い風が吹き抜けて、

遠い行く末の東海道へと駆け抜けていった。

 

地上の歴史がどれほど移り変わろうとも、

この空に刻まれた人と鳥の絆の記憶は、決して消えることはない。


大いなる宿命の翼は、

いま、確かな血統の絆を抱いたまま、次なる激動の時代

──100年後の江戸中期、大坂・堂島米相場を舞台にした

新しき情報戦の夜明けへと向かって、脈々と受け継がれていくのだった。

戦国編を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!

疾風の意思は子孫たちへ。

次回からは舞台が江戸時代中期へと移る【江戸・泰平編】がスタートします!

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