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マティアス・クレーベル

マティアス・クレーベルは、その日の夕方には見つかった。


王都南門。


荷馬車に紛れて外へ出ようとしていたところを、王室監察官に止められた。


故郷へ帰るためだと主張したが、荷物の中には現金と偽造された通行証があった。


そして何より。


三週間前に退職したはずの男が、なぜ今日になって突然王都を出ようとしたのか。


説明はできなかった。


「早かったですね」


レオンは客室で報告書を読む。


向かいにはエドガー。


その隣にはセイル。


「てっきり死体で見つかるかと思ってました」


「縁起でもないことを言うな」


セイルが言った。


「でも生きててよかったでしょう」


「それはそうだ」


エドガーが一枚の紙を抜く。


「本人は文書箱の改造を認めた」


「もう?」


「遮蔽板を外せるようにしたことだけはな」


「誰に頼まれたって?」


「王室顧問会の文書官」


レオンが顔を上げる。


「名前は?」


「アルノー・ケスラー」


知らない。


当然か。


レオンは顧問会の役人をほとんど覚えていない。


「何者です?」


セイルが答える。


「顧問会の文書管理を十五年担当している。機密回覧の作成、保管、配布。ベルクマンの文書箱にも日常的に触れられる」


「すごくそれっぽいですね」


「それっぽすぎる」


エドガーが言った。


レオンも同意した。


ベルクマンの次に。


今度は文書官。


綺麗に一段ずつ上へ進んでいる。


「マティアス本人は?」


「別室にいる」


「会わせてください」


エドガーが立つ。


「そのために来た」


尋問室へ入ると、マティアスは思っていたより若かった。


三十代前半。


痩せている。


指先だけが妙に太い。


工具を握り続けた手。


レオンを見るなり。


露骨に目を逸らした。


「初めまして」


レオンが座る。


「……はい」


「文書箱、直したんですよね」


「調整しただけです」


「遮蔽板を外せるように?」


「そうしろと言われました」


「誰に」


「ケスラー文書官です」


ここまでは。


嘘ではない。


「何のためって聞きました?」


「聞いてません」


レオンは少し首を傾ける。


「それ嘘ですね」


マティアスの顔が固まった。


横にいるエドガーは何も言わない。


もう驚かなくなったらしい。


「聞いたでしょう」


「……」


「何て言われたんです?」


「機密文書の緊急投函に使うと」


「それだけ?」


マティアスは頷く。


レオンは待った。


「それだけです」


「今のも嘘」


男の顔から血の気が引く。


「もうやめません?」


レオンが言う。


「別に、嘘をついたから怒るわけじゃないです」


「……」


「ただ、こちらも時間がない」


マティアスが俯く。


やがて。


「人に見られずに文書を入れる必要がある、と」


小さな声。


「誰に?」


「……ケスラー文書官に」


「その人一人?」


マティアスは黙った。


レオンには分かった。


また。


「誰か一緒にいたんですね」


マティアスの呼吸が止まる。


「誰です?」


「知らない」


今度は。


本当だった。


「顔は?」


「見ていません」


これも。


本当。


「声は?」


「男でした」


「服装」


「黒い外套」


レオンとセイルが一瞬だけ視線を合わせる。


黒い。


それだけでは何も分からない。


「人間?」


レオンが訊く。


マティアスが困惑する。


「……何を言って」


「答えてください」


「人間に見えました」


嘘ではない。


なら。


これ以上は出ない。


「報酬は?」


「金貨五十枚」


「結構もらいましたね」


「家族がいるんです」


マティアスが急に顔を上げる。


「娘が病気で、薬が必要だった!」


「分かりました」


「私は、誰かを殺すなんて知らなかった!」


「分かってます」


「本当に!」


「だから分かってますって」


レオンが少しだけ声を強める。


マティアスは黙った。


「それは嘘じゃない」


レオンが言う。


「でも、怪しいとは思ってたでしょう」


返事はない。


そこは。


言わなくても分かった。


エドガーが訊く。


「ケスラーは今どこにいる」


セイルが答える。


「顧問会区画。通常勤務中だ」


「監視は」


「付けてある」


「なら動かすな」


エドガーが立ち上がる。


「捜索令状を取る」


その時だった。


廊下から足音が走ってくる。


扉が開く。


兵士。


息が上がっている。


「緊急報告!」


エドガーが振り返る。


「何だ」


「西部戦線です」


その一言で。


空気が変わった。


「第三防衛線が突破されました」


セイルの表情が固まる。


「いつ」


「今朝。先ほど伝令が到着しました」


「損害は」


「現在集計中。ただ」


兵士が言葉を詰まらせる。


「リューネ砦が陥落。後退中の部隊にもかなりの損害が出ています」


エドガーの顔から表情が消えた。


「陛下へは」


「すでに」


「王子殿下は?」


「軍議室へ」


エドガーがすぐに扉へ向かう。


「セイル、来い」


「はい」


レオンも立つ。


「俺は?」


「戻れ」


「やっぱり?」


「当然だ」


二人が出ていく。


レオンは客室へ戻された。


窓の外は。


何も変わらない。


王都の人々は歩いている。


店は開いている。


子供が走っている。


西では砦が一つ落ちた。


夕方。


廊下が騒がしくなった。


兵士。


伝令。


文官。


普段より明らかに人の行き来が多い。


レオンが窓際で本を読んでいると。


扉の向こうから。


声が聞こえた。


「テア」


王子だった。


続いて。


テアの声。


「兄様、それは違うでしょう」


珍しい。


強い声だった。


レオンは本から顔を上げる。


扉は閉じたまま。


廊下の先。


聞こうとしなくても。


声が届く。


「今は兵が足りない」


王子が言う。


「だから魔術師を?」


「使える人間を使うだけだ」


「一度捨てた人たちを?」


沈黙。


短い。


「その話は今することではない」


「今だからでしょう」


テアの声が近づく。


「ユリウスみたいな人を、また作るつもり?」


レオンの手が止まった。


王子の声が低くなる。


「テア」


「何」


「名前を出せば議論になると思うな」


「そういう意味じゃない」


「なら理解しろ。西部が崩れれば、その次は民が死ぬ」


「だから何をしてもいいの?」


「そんなことは言っていない」


「同じに聞こえる」


足音が止まる。


しばらく。


何も聞こえない。


やがて。


王子が言った。


「父上は甘い」


レオンの眉が動く。


テアも。


すぐには返さなかった。


「……陛下は」


「今も志願を優先すると言っている」


「それの何が悪いの」


「足りない」


はっきりした声。


「志願者だけでは足りない。兵も、治癒師も、魔術師もだ」


テアが何か言いかける。


王子は続けた。


「国がなくなってから権利を守っても意味がない」


「国を守るために、人を壊していいわけじゃない」


「壊れないように負けろと?」


「そういう話じゃない!」


今度は。


テアの声が大きくなった。


すぐ。


静かになる。


「……ごめん」


「いや」


王子の声も少し下がる。


「私も言い過ぎた」


兄妹だった。


まだ。


喧嘩をして。


謝れる。


レオンは。


それだけで少し安心した。


やがて足音が近づく。


扉が開いた。


テア。


一人だった。


「聞いてた?」


「聞こえました」


「最悪」


テアが顔を覆う。


「盗み聞きじゃないですよ」


「分かってる」


椅子へ座る。


いつものテアより。


少し疲れて見えた。


「西、そんなにまずいんですか」


「うん」


「どれくらい」


「かなり」


テアはそれ以上言わない。


機密なのだろう。


レオンも訊かなかった。


「兄様も」


テアが小さく言う。


「怖いんだと思う」


「でしょうね」


「だから急いでる」


「はい」


「でも」


テアは自分の手を見る。


「怖い時に決めたことって、だいたい後で困るでしょう」


レオンは少し考える。


「俺はいつ決めても困り事ばかりです」


「知ってる」


「そこ即答する?」


テアが少しだけ笑う。


それで。


ほんの少し。


いつもの顔に戻った。


「レオン」


「はい」


「兄様が間違ってると思う?」


答えるまで。


少し時間がかかった。


「分かりません」


テアが見る。


「昔なら、すぐ答えてた気がする」


「最近は成長したので」


「それ、陛下にも言ったでしょう」


「何で知ってるんですか」


「陛下から聞いた」


レオンはため息をつく。


「王族の情報共有網を舐めてましたよ」


テアは笑った。


でも。


その笑いは長く続かなかった。


窓の外。


王都は明るい。


西部戦線は遠い。


まだ。


ここからは見えない。


だからこそ。


レオンには少しだけ分かった。


見えない場所で起きていることほど、人は簡単に大きな決断をする。

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