兄
テオファニアが部屋を出たあと、部屋は妙に静かになった。
レオンは椅子へ戻る。
エドガーは扉の横。
ヴァルトはその足元。
さっきまでの空気が嘘のようだった。
「何です」
レオンが言う。
「何も言っていない」
「さっきからこっち見てるでしょう」
「見張りだからな」
「いつまでいるつもりですか」
エドガーは答えなかった。
レオンも、それ以上は言わない。
机の上には、セイルが置いていった資料が残っている。
黒い部品。
予算。
発注。
誰かが王国の仕組みを使って、ドワーフ領まで物を運んだ。
どこから。
どこまで。
誰が知っていた。
まだ何も分からない。
廊下から足音が聞こえた。
先ほどより多い。
兵士が扉を叩く。
「殿下がお見えです」
レオンは顔を上げた。
「また?」
エドガーが扉を開ける。
入ってきたのはテアではなかった。
男。
二十代半ば。
黒に近い紺色の軍装。
王家の紋章。
短く整えた金髪。
レオンは立ち上がった。
「王子殿下」
王子はレオンを見た。
「座っていていい」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「本当に座るのか」
「どっちなんです?」
王子が小さく息を吐いた。
「昔からそうだったな、お前は」
レオンは座り直す。
王子も向かいの椅子へ座った。
エドガーは一歩下がる。
「テオファニアが来ていたそうだな」
「ええ」
「何を話した」
「殿下に報告すべきことは特に」
「そうか」
それだけ。
追及しない。
昔から兄妹の距離には口を挟まない人だった。
ただし。
レオンを見る目は、国王より硬い。
「父上との話は聞いていた」
王子は机の書類へ目を落とす。
「第三経路についても確認した」
「なら話が早い」
「お前はすぐそう言うな」
レオンが黙る。
王子は続けた。
「確かに問題だ」
「確かに?」
「国家中枢へ食い込んでいる者がいる可能性も認める」
「随分慎重な言い方ですね」
「慎重でなければ国は動かせない。慎重で、かつ勇敢であらねば」
即答だった。
レオンは少しだけ姿勢を変える。
王子が言う。
「お前は、一つ危険なものを見つけると、そこから全部を疑う」
「疑うべきでしょう」
「調べるべきだ。疑うことと断定することは違う」
「分かってます」
「ならいい」
王子は書類を指で叩く。
「私は、この件を理由に魔導器の運用を縮小するつもりはない」
「陛下と同じですね」
「当然だ」
王子は窓の外を見る。
王都。
遠くに煙突。
街道を行き交う荷車。
「戦争中だぞ」
「知ってます」
「物資が必要だ。兵器も必要だ。治療設備も輸送も通信も、今は止められない」
「そこは反対してませんよ」
王子の視線が戻る。
「本当に?」
「俺を何だと思ってるんです」
「魔導器を疑って王都から逃げた男」
「雑だな」
「事実だろう」
「半分くらいは」
王子は少しだけ笑った。
すぐに消える。
「魔術師についても聞いた」
レオンの表情が変わる。
「ユリウス・レーヴェンの話ですか」
「ああ」
王子は名前を覚えていた。
「父上は、魔術師の扱いに失敗があったと認めた」
「聞いてました」
「私もそう思う」
意外だった。
レオンは顔を上げる。
「ただし」
やはり続きがある。
「戦時中に、その是正を最優先することはできない」
レオンは黙った。
「不満か」
「まだ何も言ってません」
「顔に出ている」
「最近そればっかりだ」
王子は構わず続ける。
「職を失った魔術師がいる」
「はい」
「不満を持っている者も」
「ええ」
「なら、今は彼らを使う」
レオンの目が細くなる。
「軍で?」
「軍に限らない。後方支援、治療、輸送、通信、設備管理。魔術師にしかできない仕事はまだある」
「それ」
レオンは言った。
「ユリウスが一番怒ってたやつですよ」
王子は止まった。
「平和な時には捨てる。戦争になったら使う」
「そう見えるだろうな」
「見えるというか」
「だが」
王子の声は変わらない。
「今、人手が必要なのも事実だ」
「だから呼び戻す?」
「それの何が悪い」
レオンはすぐには答えなかった。
王子が続ける。
「国が過去に彼らを十分に支えなかった。その責任はある」
「なら」
「責任があるから、戦時中に使える能力を遊ばせておくのか?」
レオンは口を閉じた。
「違うだろう」
王子は言う。
「必要な者を必要な場所へ置く。それが国の仕事だ」
「本人が嫌だと言ったら」
「説得する」
「それでも?」
王子は少し間を置いた。
「義務を求めることもある」
部屋が静かになる。
レオンは王子を見る。
「徴用ですか」
「場合によっては」
エドガーも口を挟まない。
レオンは拘束された両手を見る。
「それで」
声が少し低くなる。
「またユリウスみたいなのが出ますよ」
王子の表情は変わらなかった。
「出るだろうな」
その返事に。
レオンが顔を上げる。
「全員が納得する政策などない」
王子は言った。
「だからといって、決めないわけにはいかない」
国王とは違う。
似ている。
でも。
違う。
国王は。
切ったものを覚えている。
少なくとも。
そう見えた。
王子は切ること自体を、統治の一部として受け入れている。
「殿下」
「何だ」
「前にも増して怖いですね」
エドガーがレオンを見る。
だが王子は怒らなかった。
「そうか」
「怒らないんですね」
「褒め言葉ではないことくらい分かる」
「次期国王としての威厳と迫力が出たということですよ」
王子は一瞬黙った。
「王族が怖くなくてどうする」
王子は立ち上がった。
「民に好かれるだけなら、テアにでも任せればいい」
「怒られますよ」
「本人には言うな」
「言います」
「やめろ」
少しだけ。
昔の顔が出た。
すぐ戻る。
「一つ、忠告しておく」
王子が言う。
「何です」
「今回の件」
机の証拠を見る。
「調べれば調べるほど、王国の中に敵がいる可能性は高くなる」
「俺もそう思います」
「なら」
王子はレオンを見る。
「誰も信用するな」
一瞬。
廊下の方から音がした。
レオンはそちらを見る。
扉の外。
人影。
灰色の衣。
先ほどの側近だった。
書類を抱えて、兵士と話している。
いつもの姿。
何十年も。
この王城にいる。
レオンが六歳の頃から。
「誰も、ですか」
「私も含めてだ」
王子は言った。
レオンが振り返る。
「殿下も?」
「ああ」
「自分が敵のスパイだと自白しているんですか?」
「好きに捉えろ。俺はお前の頭を信頼している」
王子は扉へ向かう。
途中。
一度だけ止まった。
「レオン」
「何です」
「父上は」
背を向けたまま。
「お前が戻ってきたことを、喜んでいる」
レオンは何も言わない。
「立場上、言えないだろうがな」
「殿下は?」
王子が振り返る。
「何が」
「喜んでます?」
数秒。
王子は答えた。
「面倒事が増えると思っている」
「ひどいな」
「だが」
扉に手を掛ける。
「死んでいなくてよかった」
それだけ言って。
出ていった。
扉が閉まる。
レオンはしばらくそこを見る。
「……似てない兄妹ですね」
エドガーが言った。
「十分似ている」
「どこが」
「不器用なところが」
レオンは少し笑った。
机の書類へ視線を戻す。
誰も信用するな。
その言葉だけが。
妙に残った。
廊下では。
灰色の衣の男が王子に深く頭を下げている。
王子が何かを頼む。
男は穏やかに微笑んだ。
そして。
何事もなかったように。
王城の奥へ消えていった。




