結界
「数分だけ、見ろ」
ユリウスが言った。
「王国が」
その視線が、レオンの背後にある巨大な装置へ向く。
「魔術師なしで、どこまでやれるか」
壁面に浮かぶ数字が切り替わった。
第三経路――96%。
「……どいてください」
レオンは杖を構えた。
ユリウスは答えなかった。
右手をわずかに上げる。
それだけで、床を走る魔力導線が青白く光った。
レオンは反射的に横へ跳んだ。
直後、さっきまで立っていた場所から石柱が突き上がる。
避けた先へ、今度は細い光の線が走った。
結界。
レオンは杖を振る。
「《断裂》」
光が弾けた。
結界の一部が裂ける。
その隙間へ踏み込もうとした瞬間、足元が沈んだ。
「っ!」
床石が泥のように崩れ、片足が膝まで埋まる。
レオンは杖を床へ突き立てた。
「《硬化》!」
石が固まる。
足を引き抜く。
だが、その一瞬で結界が閉じた。
ユリウスは動いていない。
正確には、ほとんど動いていない。
中央装置の前。
そこから半歩も離れず、レオンの進路だけを潰している。
「面倒ですね……!」
「昔からだろ」
短い返事。
レオンは息を吐いた。
昔とは違う。
研究室に籠もっていた頃のユリウスではない。
術式そのものは、特別に高度ではなかった。
土を変形させる。
光を壁にする。
床を滑らせる。
熱を散らす。
一つ一つなら、レオンでも簡単に解除できる。
問題は使い方だった。
攻撃してこない。
倒そうともしてこない。
ただ、前へ進ませない。
レオンが右へ出れば右を塞ぐ。
上から抜けようとすれば天井際へ障壁を作る。
術式を解析するために一瞬視線を止めれば、その間に別の壁を置く。
徹底していた。
第三経路――97%。
「ミリア!」
「分かってる!」
背後から声が返る。
ミリアも結界へ手を伸ばしていた。
しかし、触れた瞬間に顔をしかめる。
「駄目! これ、外部から解除できるように組んでない!」
「でしょうね!」
レオンは杖を横へ薙いだ。
火線が三本走る。
ユリウスへではない。
左右の壁。
天井。
結界の固定点。
三つ同時に焼き切る。
一層目が揺れた。
レオンは踏み込む。
その瞬間、ユリウスの口が動いた。
「次は下だ」
レオンの足が止まった。
遅かった。
床から伸びた石の帯が足首へ絡みつく。
「……!」
「お前は三つ見つけると、四つ目を探す」
ユリウスが言った。
「昔から」
レオンは石帯を砕いた。
「何年一緒にいたと思ってる」
光弾が飛ぶ。
レオンは首を傾けて避ける。
「あなたは昔とは違いますよ」
頬の横を熱が抜けた。
続けて二発。
三発。
全部、直撃を狙っていない。
避ける先を限定している。
レオンは舌打ちした。
誘導されている。
左へ避ける。
そこに薄い結界。
右へ避ける。
床が隆起。
後ろへ下がれば、中央装置から遠ざかる。
ならば。
レオンは前へ出た。
光弾の一発を左肩で受ける。
「レオン!」
ミリアの声。
焼ける痛み。
無視する。
杖を捨てた。
ユリウスの眉が動く。
レオンは右手を突き出す。
無杖。
術式を直接組む。
「《穿――》」
「来ると思った」
床が爆ぜた。
レオンの右腕が跳ね上がる。
術式が崩れる。
「っ……!」
「杖を奪えば無杖に切り替える。自分で捨てる時も同じだ」
ユリウスが淡々と言う。
「右手から始めるのも変わってない」
レオンは左手で杖を拾った。
そのまま床を叩く。
衝撃波。
石床を伝った魔力が、ユリウスの足元で弾ける。
ユリウスが初めて一歩下がった。
そこへレオンが突っ込む。
距離が詰まる。
杖を振り抜く。
ユリウスは腕で受けた。
鈍い音。
顔が歪む。
だが倒れない。
逆にレオンの手首を掴んだ。
「近いぞ」
「それが狙いです!」
レオンは額をぶつけた。
「ぐっ……!」
ユリウスの手が離れる。
レオンはその脇を抜けた。
中央装置まで、十歩。
九歩。
八歩。
背後で魔力が膨らむ。
振り返らない。
七歩。
六歩。
床が隆起する。
跳ぶ。
五歩。
空中で結界が現れた。
レオンは杖の先端を突きつけた。
「《破砕》!」
結界が砕ける。
四歩。
三歩。
「レオン!」
ミリアではない。
ハーゲンだった。
レオンは前だけを見る。
二歩。
その瞬間。
背中へ強烈な衝撃が走った。
「がっ……!」
何かに押し飛ばされる。
レオンは床を転がった。
起き上がる。
いつの間にか、目の前に新しい壁が立っていた。
半透明の結界。
さっきまでとは違う。
厚い。
何層も重なっている。
その向こうで、ユリウスが荒い息をしていた。
額から血が流れている。
「危なかった」
「……でしょうね」
レオンも肩で息をする。
中央装置まで、あと数歩。
なのに遠い。
壁面の数字が切り替わる。
第三経路――98%。
「もう時間がない!」
ボルグが叫んだ。
「分かってます!」
レオンは返しながら、結界を見る。
七層。
いや、八。
内側に別の術式がある。
外側を剥がすたびに、次が起動する。
真正面から壊していたら間に合わない。
横。
駄目。
壁へ固定。
上。
天井まで繋がっている。
地下は――。
そこまで考えて、レオンは止まった。
ユリウスがこちらを見ていた。
待っている。
答えを出す瞬間を。
そして、その答えを知っている。
「……」
レオンは杖を下げた。
ユリウスがわずかに目を細めた。
「どうした」
レオンは答えない。
考えるな。
少なくとも、いつもの考え方をするな。
最適解を探すな。
ユリウスは、それを待っている。
なら。
「ミリア」
「何?」
「三秒後、光をください」
「光?」
「何でもいいです。眩しければ」
一瞬の間。
「分かった!」
レオンは走った。
真正面。
ユリウスの視線が鋭くなる。
一歩。
二歩。
術式が起動する。
レオンは止まらない。
三歩。
「今!」
白光が弾けた。
地下空間が真昼のように染まる。
ユリウスが目を閉じる。
ほんの一瞬。
レオンは右へ。
結界に杖を突き立てる。
一層。
二層。
三層。
同時に破壊。
だが四層目で止まる。
「甘い!」
ユリウスが目を開く。
腕を振る。
新しい術式。
レオンは身構えた。
そのときだった。
鈍い音がした。
ユリウスの身体が横へ揺れた。
「……は?」
レオンも声を失った。
ユリウスの脇腹に、短い鉄槌がめり込んでいる。
握っているのは、ハーゲンだった。
老人は両手で槌を持ち、肩で息をしていた。
「ハーゲンさん!?」
「何をしとる!」
怒鳴られた。
ユリウスが振り返る。
「ジジイ……!」
ハーゲンが槌を引き抜く。
「ぼさっとするな!」
次の一撃。
今度はユリウスが腕で受けた。
しかし体勢が崩れる。
同時に結界が揺らいだ。
レオンは反射的に杖を突き出す。
「《破砕》!」
四層目が割れた。
五層目。
六層目。
「戦えないんじゃなかったんですか!?」
「昔ほど動けんと言ったんだ!」
ハーゲンが叫び返した。
その直後。
「ぐっ……!」
ユリウスの魔術がハーゲンを吹き飛ばした。
老人の身体が床を滑る。
「ハーゲンさん!」
ボルグが駆け寄る。
「来るな!」
ハーゲンは咳き込みながら手を上げた。
「わしはいい! そっちをやれ!」
ユリウスが息を吐く。
脇腹を押さえていた。
「……本当に、余計なことを」
その顔に、初めて余裕が消えていた。
レオンは結界を見る。
残り二層。
今なら。
走る。
ユリウスも動いた。
光弾。
レオンは杖で逸らす。
石の槍。
身体を捻る。
頬が切れる。
血が飛ぶ。
残り一層。
ユリウスが両手を上げた。
巨大な術式陣が展開する。
レオンは杖を握り直した。
真正面からぶつかる。
魔力が衝突した。
空気が震える。
床の亀裂が広がる。
壁から砂埃が落ちた。
レオンの腕が押し戻される。
「……っ!」
ユリウスも歯を食いしばっている。
互いの魔力が中央で噛み合う。
一歩。
レオンが前へ出る。
ユリウスが押し返す。
もう一歩。
さらに一歩。
「お前は……!」
ユリウスが声を絞り出した。
「昔から、そうだ!」
レオンは答えない。
「何でもできる!」
魔力が膨れ上がる。
「だから分からないんだよ!」
レオンの足が止まった。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
その言葉へ意識が向いた。
ユリウスは見逃さなかった。
魔力が爆発する。
「っ!」
レオンの身体が吹き飛ぶ。
背中から床へ落ちた。
肺の空気が抜ける。
視界が揺れる。
「レオン!」
ミリアが駆け寄ろうとする。
「来ないで!」
レオンは床へ手をついた。
立ち上がる。
結界は。
一層。
残っている。
壁面の数字が明滅した。
第三経路――98%。
その下で、細い線がゆっくりと伸びている。
99へ。
ユリウスは中央装置の前に立っていた。
額の血を袖で拭う。
呼吸は荒い。
脇腹を押さえている。
それでも退かない。
レオンも杖を拾った。
「……まだやりますか」
「お前が止まらんならな」
「止まりませんよ」
「知ってる」
ユリウスは笑わなかった。
「だから俺も、ここにいる」
地下深くで、低い振動が響いた。
第三経路の光が、王国の方角へ伸びていく。
レオンは杖を構え直した。
今度は、ユリウスだけを見た。




