声
「ようやく来たか」
声は、旧区画の奥から響いた。
低い男の声だった。
レオンは動かない。
ガレスが剣を構え、カイも魔導器を抜く。
ミリアは倒れたドワーフのそばから離れなかった。
「知ってる声か?」
ガレスが聞く。
「いえ」
レオンは答えた。
少なくとも、記憶にはない。
だが、自分の名前を知っている。
それも、偶然ここにいた人間が口にしたような言い方ではなかった。
待っていた。
そう聞こえた。
「誰です?」
返事はない。
「レオン」
ユリウスが低く言った。
「返事するな」
「もうしました」
「そういうところだぞ」
「今は説教してる場合ですか」
旧区画の奥は暗い。
さっきまで聞こえていた金属音も消えている。
レオンは声がどこから来たのか探った。
空気の振動。
反響。
少なくとも、すぐ近くに人間が立って話している感じではない。
「音を運んでる?」
ユリウスがレオンを見る。
「分かるのか」
「たぶん。下から直接聞こえてるわけじゃない」
レオンは壁を見る。
黒い管。
床。
古い金属板。
「この設備を使って声を流してる」
ボルグが眉をひそめる。
「そんな機能はない」
「元の設備には、でしょう」
ボルグは何も言わなかった。
その時、また声がした。
「そこまで辿り着いたなら、少しは理解しただろう」
レオンは杖を握る。
ガレスが横から言う。
「返事するなよ」
「分かってます」
「本当に?」
「みんな俺を何だと思ってるんですか」
「返事する奴だと思ってる」
カイが言った。
レオンが睨むと、カイは少しだけ目を逸らした。
声は続いた。
「人間は、本当に便利なものを作る」
ユリウスの顔が変わった。
「……人間?」
レオンもそこに引っかかった。
自分を人間の外に置く言い方。
魔族。
そう考えるのは簡単だ。
簡単すぎる。
「決めつけないでください」
レオンが言う。
「まだ何も言ってねえよ」
ガレスが返す。
「顔に出てました」
「お前に言われたくない」
声が笑った。
はっきりと。
こちらの会話を聞いている。
「変わらないな、レオン・アルヴェイン」
レオンの表情が固まる。
今度は違う。
名前を知っているだけではない。
「俺を知ってる?」
ガレスがため息をついた。
「おい」
「これは聞くでしょう」
数秒。
声が答えた。
「君は昔から、覗いてはいけない場所ほど覗きたがる」
レオンの呼吸が止まった。
教会。
夜。
黒魔術《接続》。
魔導器の内部。
外へ伸びていた、ありえない魔力経路。
その先へ触れた瞬間。
何かに見られた。
「……あの時の」
ミリアがレオンを見る。
「レオン?」
レオンは答えない。
声が続く。
「一度目は、君の方から来た」
背筋を冷たいものが走った。
「二度目は、戦場だった」
黒い外套。
前線で遭遇した魔族。
異様な接続構造。
レオンは杖を強く握った。
「黒衣の魔族」
返事はなかった。
代わりに、小さく笑う声。
それで十分だった。
「先生、知ってる相手なんですか?」
カイが聞く。
「会ったことはあります」
「今の声の人と?」
「顔と声が一致してるとは限りません」
「じゃあまだ分からない?」
「はい」
カイが頷く。
レオンは一瞬だけカイを見る。
その確認の仕方が、少しありがたかった。
決めつけずに聞く。
今の自分には必要だった。
「何が目的ですか?」
レオンは暗闇へ向かって言った。
今度は誰も止めなかった。
声はしばらく答えない。
「目的?」
「三人殺したのはあなたですか」
「違う」
即答だった。
「じゃあ誰が?」
「それを私に聞くのか」
「知ってるなら」
「知っていることと、教えることは別だ」
「便利な言い草ですね」
「君もよく使うだろう」
レオンは黙った。
ミリアが小さく言う。
「似てるね」
「どこがです?」
「面倒なところ」
「今それ言います?」
声がまた笑った。
「いい仲間を得たな」
レオンの顔から、わずかに表情が消えた。
その言葉が妙に引っかかった。
旧勇者パーティ。
今の仲間。
自分がいない間にも進んでいた彼らの時間。
そして今。
「俺たちを見てるんですか?」
返事はない。
代わりに、床が震えた。
小さく。
一度。
ボルグが顔を上げる。
「まずい」
「何です?」
「下の支柱だ」
再び振動。
今度は大きい。
天井から細かな砂が落ちる。
「全員、出ろ!」
ボルグが叫んだ。
その瞬間、旧区画の奥で何かが弾けた。
低い爆発音。
続いて、金属がねじ切れる音。
床が傾いた。
「ミリア!」
ガレスが倒れたドワーフを抱え上げる。
ミリアが立つ。
カイもボルグを引っ張った。
レオンは暗闇を見る。
まだ魔力の流れがある。
声の先。
その向こう。
追えば何か分かる。
「レオン!」
ミリアが叫ぶ。
レオンは一歩だけ奥へ出た。
「レオン!」
二度目。
その声で止まった。
床に亀裂が走る。
今行けば、追えるかもしれない。
黒衣の魔族。
接続の正体。
教会で何が起きたのか。
全部ではなくても、一つくらい掴める。
だが。
今ここで崩れれば、後ろにいる全員が危ない。
レオンは歯を食いしばった。
「戻ります!」
走る。
ガレスが先頭。
その後ろにミリア。
カイ。
ボルグ。
ユリウス。
レオンが最後尾につく。
旧区画から工場へ戻った直後、大きな音が響いた。
振り返る。
鉄扉の向こうで階段の一部が崩れた。
土煙。
完全に塞がれたわけではない。
だが、すぐ降りられる状態でもない。
「全員いる?」
ミリアが言う。
「います」
カイが息を切らしながら答える。
「ガレスさんも、ボルグさんも……先生も」
「ユリウスは?」
レオンが振り返る。
いない。
「……え?」
さっきまで後ろにいた。
工場の中を見る。
暗い。
倒れた加工台。
止まった搬送装置。
誰もいない。
「ユリウス!」
返事はない。
ガレスが舌打ちする。
「逃げたか」
「いつ?」
カイが聞く。
「崩れた時しかねえだろ」
レオンは周囲を探査する。
薄い魔力の痕跡。
工場の横手。
別の通路へ続いている。
追える。
まだ間に合う。
レオンは足を向ける。
ミリアが腕を掴んだ。
「待って」
「でも」
「この人を先に運ぶ」
ガレスが抱えているドワーフを見る。
まだ生きている。
呼吸は弱い。
「……分かってます」
「本当に?」
「分かってる」
レオンは通路を見る。
追いたい。
ユリウスに聞きたい。
なぜ逃げた。
何を知っている。
三人の死と関係があるのか。
黒衣の魔族とは。
それでも。
今は追わない。
「外へ出ましょう」
ガレスが少しだけレオンを見る。
何も言わなかった。
工場の入口まで戻ると、保安隊が待っていた。
負傷したドワーフはすぐに担架へ乗せられる。
ミリアも付き添う。
ドルガンがボルグへ駆け寄った。
「何があった!」
「旧区画が崩れた」
「ユリウスは?」
ボルグがレオンを見る。
レオンは答えた。
「逃げました」
ドルガンの顔が険しくなる。
「やっぱりあいつが――」
「まだです」
レオンが止める。
「何がだ」
「ユリウスが犯人とは限らない」
「逃げたんだぞ」
「逃げたことは事実です。でも、それと三人を殺したことは別です」
ドルガンが苛立った顔をする。
「庇うのか?」
「違います」
レオンは首を振る。
「分からないことを、勝手に埋めたくないだけです」
自分で言って。
少しだけ変な気分になった。
以前なら、こんな言い方をしただろうか。
分からないなら調べる。
それは今も同じ。
だが、分からない間まで結論を作る必要はない。
「それより」
レオンはボルグを見る。
「グラド・バルグンの記録を見せてください」
ボルグが眉を寄せる。
「この状況でか」
「この状況だからです」
レオンは旧区画を振り返る。
古い工房印。
最近敷かれた黒い管。
六百年前の金属片。
そして現在の接続設備。
「ユリウスは、グラドの記録を調べたあとで旧区画へ入った」
ボルグは黙る。
「何か見つけたんです」
「推測だろ」
「はい」
レオンは答えた。
「だから確かめます」
しばらくして。
ボルグは大きく息を吐いた。
「分かった」
「見せてくれるんですか?」
「ただし俺も立ち会う」
「もちろん」
「持ち出し禁止」
「はい」
「勝手に魔術を使うな」
レオンが少し黙る。
「返事」
「……はい」
ガレスが笑った。
「信用ねえな」
その夜。
負傷者の治療が終わったあと。
レオンたちは、北東鉱務監査局の地下保管庫へ通された。
厚い鉄扉。
古い書架。
紙ではなく、金属板に刻まれた記録も多い。
ボルグが奥から一つの箱を持ってくる。
「これだ」
箱を開く。
中には、古びた帳面が三冊。
そして一枚の金属板。
「グラド・バルグンの工房記録。残っているのはこれだけだ」
レオンは一冊目を開く。
古いドワーフ語。
読めない部分が多い。
ボルグに聞きながらページを進める。
鉱石。
炉。
加工法。
注文。
失敗。
何十ページも、普通の工房記録が続いた。
そして。
途中の一ページだけ。
文字が大きく削られている。
誰かが後から消した跡。
それでも、一行だけ残っていた。
ボルグが読み上げる。
「――『人の魔力を束ねる器、完成』」
部屋が静まった。
レオンは次の行を見る。
そこも削られている。
だが。
端に、小さな文字が残っていた。
『依頼主――』
その先には。
人名ではなく。
一つの紋章が刻まれていた。
レオンは見覚えがあった。
第三砦。
黒い腕輪。
捕虜が話していた、古い軍旗。
魔族の旧王家に連なる印。
レオンはしばらく、それを見つめた。
「……六百年前から?」
誰も答えなかった。




