令状
昼過ぎ。
救護院の裏庭で、ミリアは洗濯物を干していた。
慣れた手つきで白いシーツのシワを伸ばし、物干し竿にかける。
レオンは井戸の縁に座ってパンを食べていた。
固い。
昨日も固かった。
一昨日も固かった。
教会のパンは清貧とでも言いたげに、毎日一貫して固い。
「パンにも負けそうな顔してる」
「顎の訓練だと思ってます」
「夜も殴り合って昼も訓練?」
レオンはパンを噛むのを止めた。
「何の話です?」
「地下闘技場」
「行ってませんけど」
「昨日、夜中三時に帰ってきたでしょう」
「寝れなかったので散歩してました」
「頬、切れてたよ」
「転びました」
「両拳も腫れてた」
「拳から転びました」
ミリアが濡れた布を勢いよく広げた。
「神様は嘘つきのこと嫌いだよ」
「だからその分人を救ってます。俺も救ってもらえるようにね」
ミリアはため息をついた。
「ほんと、教会で働くのにとことん向いてないね」
「だったら僧侶の大半は向いてませんよ。昨日子どもに魔道器を買ってあげた母親のほうが、よっぽど聖人でしょう」
レオンは立ち上がった。
ちょうどそのときだった。
教会の裏手の方から馬の蹄の音が響いた。
飛ぶように速いその馬は、裏門にたどり着くとゆっくりと立ち止まった。
毛並みに艶があってよく引き締まっている良馬だ。
馬に乗っている黒い軍服の男は、軍人貴族特有のある種の優雅さを持っていた。
馬を降りると、裏門を抜けて近づいてくる。
胸には王国軍務省の徽章。
神経質そうな目からは、少し緊張している様子がうかがえる。
「レオン・アルヴェイン殿ですか?」
レオンの足が止まる。
「そうですけど」
軍人は封蝋された書状を差し出した。
王冠と剣。
王国軍の正式な印章だった。
「軍務省より召集令です」
ミリアの表情から笑みが消えた。
レオンは書状を受け取らなかった。
「人違いじゃないですか」
「レオン・アルヴェイン。十七歳。元第三国選勇者パーティ、第一級宮廷魔術師資格保持者」
「元です」
「資格自体は失効していません」
「そうでしたっけ」
「魔族軍との国境衝突拡大に伴い、予備戦力の動員が決定されました」
軍人は横目でミリアを見て続けた。
「治癒能力を有する聖職者についても、一部が従軍対象となっています」
レオンは横を見た。
ミリアが黙っている。
「……彼女も?」
「ミリア・エーベル修道女にも召集令が出ています」
沈黙。
遠くで、教会の鐘が鳴った。
今度は時刻を告げる鐘ではなかった。
礼拝の鐘。
王都の人々が体を休ませるひと時。
軍人が書状をもう一度差し出す。
「三日後、王都西門兵站所へ出頭してください」
レオンはようやくそれを受け取った。
紙は軽かった。
昔、何度も受け取ったものと同じ材質だった。
魔族軍からの防衛。
竜の討伐。
エルフとの政治交渉。
国のために必要だから来てほしい、と言っている。
「……面倒くさい」
レオンは気味の悪い虫でも触るかのように手紙を持って呟いた。
ミリアは唇を固く結んでいた。
不安そうな表情を浮かべながらも、その目はレオンから逸らされなかった。
レオンは、ミリアがこんな顔をするのをはじめて見た。
「……嫌なら断れば?」
「国家召集を?」
「すごく嫌そうだから」
「嫌ですよ。当然でしょう」
封筒の端を親指でなぞる。
王冠と剣。
懐かしい紋章だった。
「戦場なんか、もう二度と行きたくなかった」
そう言いながら。
レオンは、自分の口元がわずかにゆるみかけたことに気づいた。
慌てて口に力を入れる。
ミリアは何も言わなかった。
ただ、それを見ていた。
*
その夜。
レオンは廊下を確認し、自室の扉に鍵をかけた。
もう一度鍵を確認する。
窓の鎧戸も閉める。
机を横へずらした。
床板の一枚に指を掛ける。
引き上げると、その下には細長い箱が隠されていた。
黒い革。
錠前はない。
代わりに、表面へ細かな魔術文字が刻まれている。
レオンが指先を当てる。
「解錠」
魔力に反応して文字が浮かぶ。
箱が開いた。
中には数冊の本が入っていた。
《霊魂と魔力器官の接続について》
《死者残留魔力論》
《生体間魔力移送術式・異端審問記録》
どれも王国では所持だけで取り調べを受けかねない禁書だった。
その下には動物の骨。
乾燥させた薬草。
銀線。
そして、小瓶に保存した自分自身の血。
レオンは一冊を取り出した。
机へ置く。
続いて、棚の奥から布包みを出した。
中に入っているのは、一台の魔導器。
古い。
傷だらけの軍用品。
十年ほど前、まだ魔導器が珍しかった頃の試験型だ。
レオンが勇者パーティを追放される直前、研究室から持ち帰ったものだった。
正確には、返却を求められなかった。
だから持っている。
レオンは魔導器の外装を外した。
内部には幾重もの術式環。
増幅。
整流。
発動指定。
安全制御。
一つずつなら、すべて理解できる。
問題は、その奥だった。
レオンは禁書を開く。
黄ばんだページがところどころ茶色く汚れていた。
人間二人の胸部を線で結んだ、気味の悪い図。
《第二主体への魔力路接続》。
千年以上前に禁じられた術式。
レオンは紙を一枚出した。
魔導器内部の回路を書き写す。
その横へ、禁書の術式を書く。
線を足す。
消す。
角度を変える。
二つを重ねる。
違う。
似ている。
いや。
構造が違うだけだ。
目的が同じなら。
レオンは椅子の背にもたれた。
昼間、窓の外で笑っていた子供を思い出す。
小さな箱。
小さな炎。
誰でも使える魔術。
便利で、安くて、安全で。
この十年足らずで世界そのものを変えた発明。
その中心に、なぜこんなものがある?
廊下で足音がした。
レオンは反射的に本を閉じた。
足音が部屋の前を通り過ぎる。
遠ざかる。
息を吐く。
もう一度、二つの術式を見る。
魔導器。
黒魔術。
増幅器。
魔力接続。
どうしても、一部分だけが重なる。
偶然。
理論上はあり得る。
同じ問題に対して、異なる研究者が似た構造へ到達することもある。
そんなことは分かっている。
だからこそ、子どもの頃から何度も自分に言い聞かせた。
考えすぎだ。
ただの偶然だ。
専門部署が調べている。
安全性は確認されている。
自分は追放された。
もう関係ない。
もう関わらなくていい。
それでも。
レオンは旧型魔導器へ指を置いた。
魔力を、ごく微量だけ流す。
内部術式が淡く光った。
一つ。
二つ。
三つ。
そして最深部で。
本来なら使用者側へ戻るはずのない一本の魔力線が、一瞬だけ外側へ伸びた。
接続先の存在しない方向へ。
レオンは目を細めた。
「……やっぱり、似てるんだよな」




