六百年前の魔族
ラウリュセリエンは、古い記録板をしばらく見ていた。
レオンたちは、先ほどの広間とは別の部屋へ通されていた。
壁一面に書架がある。
紙ではない。
樹皮。
石板。
金属板。
獣皮。
見たことのない素材まである。
窓は大きく開かれ、森から風が入っていた。
「六百二十一年前」
ラウリュセリエンが言った。
「西方で、魔族同士の争いがありました」
レオンは椅子へ座らず、机の前に立っている。
「戦争ですか?」
「人間なら、そう呼ぶでしょう」
「エルフなら?」
「争いです」
レオンは少し眉を寄せた。
「何が違うんです?」
「二十七年で終わりましたから」
カイが目を瞬いた。
ガレスは何も言わなかった。
慣れている。
「その際、我々は一人の魔族と接触しました」
女王が記録板を指でなぞる。
「名は、記録されていません」
「なぜ?」
「名乗らなかったのでしょう」
「術者だった?」
「おそらく」
「おそらく?」
レオンが食いつく。
ラウリュセリエンが顔を上げる。
「レオン」
「はい」
「六百二十一年前の出来事です」
「分かっています」
「あなたは、その場にいた者が昨日の出来事のように記録したと思っていますか?」
レオンは黙った。
「記録した者にも、分からないことがあります」
「……続けてください」
女王は記録へ戻る。
「その魔族は、複数の者の魔力を結び、一つの魔法を構成したとあります」
「魔力共有」
「そう考えられています」
「術式は?」
「ありません」
「使用した魔族の氏族は?」
「分かりません」
「その後、同じ魔法を――」
「確認できていません」
レオンの眉間に皺が寄る。
ガレスが横から言った。
「顔に出てるぞ」
「何がです?」
「気に入らねえって」
「情報が少なすぎるんですよ」
「六百年前だぞ」
「だからこそ記録するでしょう」
ラウリュセリエンが僅かに目を細めた。
「人間らしいですね」
レオンが振り返る。
「何がです?」
「残そうとする」
「エルフも残しているでしょう」
「ええ。しかし、我々とは理由が違う」
女王は書架を見る。
「人間は、自分が死ぬから書く」
部屋が静かになった。
「自分が知ったことを、次の者へ渡すために」
ラウリュセリエンは続ける。
「術式を記す。失敗を記す。分類し、名称を与え、学校を作る。師が死んでも弟子が続けられるように」
レオンは頷いた。
「それが普通でしょう」
「人間には」
女王は言った。
「魔族は違います」
シルヴァレシエルが古い記録板を一枚、机へ置く。
そこにはいくつもの魔法についての記述があった。
だが。
術式図がない。
「魔族は、人間ほど魔法を共通の体系にしていません」
ラウリュセリエンが言った。
「もちろん、火を起こす。身体を強化する。傷を塞ぐ。そのような基礎は共有されています。軍にも、教えられる魔法はあるでしょう」
「ですが?」
「古い氏族ほど、魔法を個人のものと考える傾向があります」
レオンは記録を読む。
「それは知っています」
「特に高位の魔族です」
女王が続ける。
「自ら魔法を作り、その仕組みを他者へ明かさない。それを誇りとする者がいる」
「ええ、勇者だった頃に何度か遭遇しました。面倒なんですよ、事前に術式がわからないから」
ガレスが笑った。
「出た」
「何です?」
「お前が一番嫌いな文化だ」
「嫌いとは言ってません」
「顔が言ってる。まえ捕虜にした魔族も、三日三晩質問攻めにしていたものな」
レオンはラウリュセリエンを見る。
「新しい魔法を作ったなら、共有した方がいいでしょう」
「なぜ?」
今度は女王が尋ねた。
「なぜって……」
レオンは一瞬詰まった。
「他の人間も使えるようになる。改良もできる。問題があれば検証できる。そこから別の魔術も作れる」
「それを彼らが望むとは限りません」
「不便でしょう」
「あなたにとっては」
レオンは黙った。
ラウリュセリエンは続ける。
「自らにしか扱えない魔法を持つこと。それ自体を、自らの力と名誉の証とする」
「死んだら失われるじゃないですか」
「失われます」
「もったいない」
「それも、人間らしい考えです」
レオンは納得していない。
だが。
反論はやめた。
ミリアが記録板を見る。
「では、この魔力を結ぶ魔法も、その魔族だけのものだった可能性がある?」
「あります」
「今も使える魔族がいるかは?」
「知りません」
ラウリュセリエンは迷わない。
「同じ魔法が継承されている可能性もあります。別の者が再発見した可能性もある。まったく別の魔法が、似た構造を持つ可能性もあります」
レオンが腕を組む。
「何も断定できない」
「ええ」
「でも、似ている」
「ええ」
「……気持ち悪いな」
ガレスが笑った。
「それだよ」
「何がです?」
「お前は、分からねえままなのが嫌いなんだよ」
「誰だってそうでしょう」
「程度の話をしてんだ」
*
ラウリュセリエンは、レオンが持ってきた黒い金属片を机へ置いた。
その隣に。
六百年前の図。
「あなたは、これを黒魔術で調べたのですね」
「正確には、魔導器をです」
「どのように?」
「自分の魔力経路を、一時的に対象へ接続しました」
ミリアがレオンを見る。
「言葉にすると、改めて嫌なことをしてるわね」
「安全には気をつけました」
「何が安全なのか分からないものに繋いだんでしょう?」
レオンは黙った。
「レオン?」
「……結果論ではそうですね」
「馬鹿」
「はい」
素直に答えた。
ラウリュセリエンが訊く。
「その時、何を感じましたか?」
レオンの顔から、僅かに表情が消えた。
「あの魔導器の中には、本来必要のない経路がありました」
指で図をなぞる。
「外へ伸びていた」
「どこへ?」
「分かりません」
すぐ答えた。
「辿ろうとしました」
「そして?」
「何かが」
レオンは言葉を探す。
「こちらを見たような気がした」
誰も口を挟まない。
「目があるわけじゃない。声も聞こえていない。でも」
指先が。
六百年前の線で止まる。
「俺が向こうを探った瞬間、向こうからも何かが来た」
ラウリュセリエンはレオンを見る。
「あなたは、それを何だと思いましたか?」
「錯覚か、魔力の逆流だと」
「今は?」
「分かりません」
少し間を置く。
「でも、もしこれが双方向なら」
レオンは古い図を見る。
「俺が魔導器の向こうを見ようとした時、向こうに誰かがいたなら」
ガレスの顔から笑みが消える。
「そいつにも、お前が分かった」
「可能性があります」
レオンは言った。
「断定はできません」
ラウリュセリエンが僅かに頷いた。
「それでいいでしょう」
レオンが女王を見る。
「何がです?」
「今の答えです」
「だって、分からないので」
「ええ」
ラウリュセリエンはそれ以上言わなかった。
*
「ただ」
ガレスが腕を組む。
「そうなると、時系列が気になるな」
「俺もです」
レオンは鞄から紙を出した。
教会で魔導器を調べた。
前線へ向かった。
黒衣の魔族と遭遇した。
魔族兵の腕輪。
第三砦。
王立魔導技術局の部品。
拘束命令。
「全部が繋がっていると?」
ミリアが訊く。
「分かりません」
「珍しい」
「分からないものは分からないですよ」
レオンは紙へ線を引く。
「ただ、確認したい」
黒衣の魔族。
あの時。
あいつが使った魔法も。
似ていた。
「黒い服の魔族がいました」
ラウリュセリエンが見る。
「前線で?」
「はい。かなり強かった」
「顔は?」
「見ていません」
「魔法は?」
「正確には解析できませんでした。ただ、魔力の流れ方が似ていた」
「この記録に?」
「魔導器にです」
ラウリュセリエンは少し考える。
「その魔族が、あなたを見た者だと考えていますか?」
レオンは答えようとして。
止まった。
「……可能性は考えています」
「根拠は?」
「構造が似ていたこと」
「それだけ?」
「今のところは」
「では、それ以上ではありません」
「はい」
レオンは素直に頷いた。
それから。
すぐに言った。
「だから調べたい」
ガレスが額を押さえた。
「結局そこに戻るのかよ」
「当たり前でしょう」
ラウリュセリエンが。
ほんの僅かに笑ったように見えた。
気のせいかもしれない。
「変わりませんね」
「よく言われます」
「褒めてはいません」
「それもよく言われます」
女王は立ち上がった。
「一つ、確認できる場所があります」
レオンも立つ。
「どこです?」
「北東です」
「魔族領?」
「いいえ」
ラウリュセリエンは古い記録板を閉じた。
「山脈の下」
ガレスが反応する。
「……ドワーフか」
「六百年前、この記録にある魔族が使っていた道具を作ったのは、彼らです」
レオンの目が変わる。
「現物が残っている?」
「知りません」
「記録は?」
「知りません」
「行けば分かる?」
「それも知りません」
レオンが眉を寄せる。
ラウリュセリエンは平然としていた。
「ですが、あなたは行くのでしょう?」
「行きます」
即答だった。
「でしょうね」
ミリアがため息をつく。
カイが恐る恐る手を挙げた。
「あの」
「何です?」
「俺たちは、王都へ行くんじゃなかったんですか?」
沈黙。
レオンがカイを見る。
「……そうでしたね」
「忘れてたんですか!?」
「忘れてません」
「今の間は何ですか!」
「優先順位を考えただけです!」
「先生!」
ガレスが笑い出す。
ミリアは頭を抱えた。
その中で。
ラウリュセリエンだけが笑わなかった。
「急ぐ必要はありません」
女王が言った。
レオンが振り返る。
「あります。王国では戦争が――」
「その意味ではありません」
声が少し変わった。
「今夜は、ここにいなさい」
「なぜ?」
「西から人間が来ています」
空気が止まった。
レオンの顔から笑みが消える。
「何人です?」
「三人」
分かってしまった。
アルト。
リゼ。
セイル。
「いつから?」
「昼過ぎには森の外へ」
「入ってきた?」
「いいえ」
ラウリュセリエンは窓の外を見る。
「我々が止めました」
レオンが息を吐く。
「……何と言っています?」
「あなた方を引き渡すように、と」
ガレスが立ち上がった。
「王国軍として?」
「国選第三勇者パーティとして」
レオンは。
しばらく何も言わなかった。
「陛下」
「何です?」
「俺たちを引き渡しますか?」
ラウリュセリエンはレオンを見る。
まるで。
妙な質問をされたように。
「なぜ?」
「王国との関係があるでしょう」
「あります」
「俺たちは王国から見れば逃亡者です」
「そうですね」
「なら――」
「ここは王国ですか?」
レオンは止まった。
「……違います」
「では、王国の命令に我々が従う理由は?」
淡々としていた。
敵意も。
友情もない。
「あなた方を滞在させることには、我々の利益があります」
昼間と同じ。
「そして、武装した他国の者が我々の領域へ入り、我々の客を連れ去ることを許せば」
女王は窓の外へ目を向ける。
「次からも、そうされるでしょう」
レオンは何も言わない。
「人間は」
ラウリュセリエンが続けた。
「我々が争いを好まないことを、時折、争う意思がないことと取り違えます」
風が入る。
森が。
揺れていた。
「今夜は休みなさい」
女王は言った。
「彼らには、私から話します」
レオンは窓の向こうを見る。
三人。
昔の仲間が。
森の外にいる。
追いついた。
けれど、この森は王国ではなかった。




