温泉
湯気が、森の中を漂っていた。
石造りの建物だった。
半分ほどが岩壁へ埋まり、残りは木々に囲まれている。
入口にはエルフ語で何かが刻まれていた。
レオンは読む。
「……『湯に入る前に身体を洗うこと』」
カイが立ち止まった。
「それもエルフの古い教えですか?」
「違うと思います」
シルヴァレシエルが振り返る。
「三百四十七年前に加えられました」
四人が黙った。
「ニホン……」
ミリアが呟いた。
「その人、何をしてるのよ」
「本人は非常に重要なことだと主張していました」
シルヴァレシエルは男三人とミリアを交互に見た。
「こちらと、こちらです」
男女で入口が分かれている。
これも。
三百四十七年前かららしい。
*
「あぁ……」
カイの声が漏れた。
「生き返る……」
「静かに入れ」
ガレスが言った。
「無理ですよ。何日ぶりだと思ってるんですか」
「二日程度でしょう」
レオンは肩まで湯へ沈んだ。
熱い。
逃亡。
戦闘。
拘束。
昔の仲間との再会。
昔の仲間との戦闘。
東への逃走。
森。
エルフ。
女王。
全部が身体から抜けていくようだった。
「……これはいいですね」
「だろ?」
ガレスが岩へ背を預ける。
露天だった。
石で囲われた湯の向こうに森がある。
煙草は禁止されたが。
湯気はいいらしい。
「何が違うんでしょうね」
「何が?」
「煙です」
レオンが湯気を指で掬う。
「これだけ湯気が出ていても、あの人たちは平気なんでしょう」
「知らん」
「聞いてみます?」
「お前は何でも聞くな」
「分からないので」
ガレスがレオンを見る。
「……さっきから、それを気にしてんのか」
「何をです?」
「女王様に『知らない』って言われたことだよ」
レオンは黙る。
カイが二人を見る。
「何か変なんですか?」
「こいつは、わからないのが嫌いなんだ」
「別に嫌いではありません」
「じゃあ言ってみろ」
「何を?」
「何でもいい、わからないものを」
レオンは考える。
「明日の天気を知りません」
「そういうことじゃねえ」
「知りませんよ。エルフなら分かるかもしれませんけど」
ガレスが鼻で笑った。
「まあ、いい」
レオンは湯へ沈む。
半分ほど顔をつけた。
ぶくぶくと息を吐く。
カイが訊いた。
「先生って、昔からあんな女王様と知り合いだったんですか?」
レオンは顔を上げる。
「知り合いというほどではありません」
「十一歳で会ったんですよね?」
「そうですね」
「何を話したんです?」
「覚えてません」
ガレスが笑った。
「嘘をつけ」
「細かくは覚えてません」
「女王様に魔法の質問をしまくって、最後に追い出されただろ」
「追い出されてません」
「『今日はここまでにしましょう』って三回言われてたぞ」
「話が途中だったので」
「それを追い出されてるって言うんだよ」
カイが笑う。
レオンはもう一度湯へ沈んだ。
*
湯殿を出ると。
簡素な衣服が用意されていた。
洗われた服が戻るまで着ろということらしい。
「これ、いいですね」
カイが袖を見る。
「持って帰るなよ」
「分かってますよ」
別室ではミリアが待っていた。
髪がまだ濡れている。
「遅い」
「ガレスさんが長風呂で」
「お前だろ」
シルヴァレシエルが四人を待っていた。
その手に。
薄い板のようなものがある。
紙ではない。
樹皮を加工した記録板だった。
「ラウリュセリエン陛下からです」
レオンが受け取る。
「これは?」
「あなたが尋ねた人間についての記録です」
「ニホンの?」
「はい」
レオンの目が輝いた。
ガレスが嫌な顔をした。
「休めって言われたばっかりだろ」
「もう休みました」
「一時間だぞ」
「十分でしょう」
板には古いエルフ語が刻まれている。
レオンが読み始める。
「……三百四十七年前。東部森林の南端において、人間一名を保護」
少し古い。
だが読める。
「名前は……」
レオンが止まった。
「何?」
ミリアが覗く。
「発音が分かりません」
シルヴァレシエルが発音する。
「ナカムラ・ケンジ」
四人。
沈黙。
「変な名前ですね」
カイが言った。
「本人にとっては普通だったのでしょう」
シルヴァレシエルが答える。
レオンは続きを読む。
「出身地、ニホン。王国、帝国、南部諸国のいずれにも該当する地名なし……」
次。
「魔力反応……微弱」
さらに。
レオンの指が止まった。
「『魔法および魔術について、一切の知識を有さず』」
ガレスが板を覗く。
「人間なのにか?」
「珍しくはありますが、あり得なくはないでしょう」
「続きがあります」
レオンが読む。
「『本人は、自らの故郷には魔術師も魔導器も存在しないと証言』」
ミリアが眉を寄せる。
「魔導器も?」
「三百年以上前ですよ。こっちにも今の魔導器はありません」
「そうだった」
「さらに……『異世界より来訪した可能性を本人は主張』」
カイが目を丸くした。
「異世界?」
レオンは次を読む。
そして。
顔をしかめた。
「『検証不能』」
「それだけ?」
「それだけです」
シルヴァレシエルが言った。
「分からなかったのでしょう」
「調べなかったんですか?」
「調べました」
「なら――」
「三十二年間」
レオンが止まる。
「……三十二年?」
「彼が亡くなるまで」
シルヴァレシエルは平然としている。
「本人への聞き取り。衣服、所持品、言語、身体、知識の調査。地理記録との照合。人間諸国への問い合わせ。転移魔法の記録との比較」
「それで?」
「分かりませんでした」
レオンは記録板を見る。
三十二年。
人間なら。
研究者の人生の大部分だ。
エルフたちは、それだけ調べて。
最後に。
分からない、と記録した。
「……潔いですね」
「何がです?」
「いえ」
続きを読む。
「『当地の温泉を好み、入浴方法について多数の提案を行う』」
ガレスが吹き出した。
「急にどうでもよくなったな」
「本人にとっては重要だったのでしょう」
「三百年残ってる時点で大成功ですよ」
カイが言う。
確かに。
「ほかには?」
ミリアが訊く。
レオンが板をめくる。
「料理。衣服。農具……いろいろ提案したようですが、ほとんど定着していません」
「風呂だけ?」
「風呂だけですね」
三百四十七年前。
異世界から来たと主張した男。
この世界に革命を起こすでもなく。
魔術の起源になるでもなく。
歴史上の英雄になるでもなく。
温泉の入り方だけを残した。
「……何をしに来たんでしょうね」
レオンが呟く。
シルヴァレシエルが答える。
「生きるためでしょう」
レオンが顔を上げる。
「彼は帰る方法を探しました。見つかりませんでした。ですから、ここで暮らしました」
「三十二年?」
「はい」
「エルフと?」
「妻もいました」
「え」
「子はいませんでしたが」
レオンはもう一度、板を見る。
なぜか。
さっきより、その男が実在したように感じた。
*
「ところで」
シルヴァレシエルが言った。
「陛下は、もう一つの記録を用意されています」
レオンが顔を上げる。
「もう一つ?」
「あなた方が持ち込んだ金属片についてです」
空気が変わる。
レオンは記録板を置いた。
「何が分かったんです?」
「私は知りません」
「……そうですか」
少し。
言えるようになった。
シルヴァレシエルは別の板を差し出す。
こちらは。
先ほどより明らかに古い。
文字も違う。
レオンは目を細めた。
「古代エルフ語……」
「読めますか?」
「少しなら」
ガレスが横から見る。
「俺は無理だ」
「珍しく俺の勝ちですね」
「黙れ」
シルヴァレシエルが指で一箇所を示す。
そこには。
図があった。
複数の人型。
それらから伸びる線。
中央に。
一つの円。
レオンの表情が消える。
見覚えがある。
魔導器から外へ伸びていた経路。
魔族兵の腕輪。
黒い金属片。
「これは……」
「六百年以上前の記録です」
「人間の?」
「いいえ」
シルヴァレシエルが答える。
「魔族のものを、我々が記録しました」
レオンは板へ顔を近づけた。
文章を追う。
古い。
読めない単語も多い。
「魔力を……結ぶ?」
「そのような意味です」
「術式は?」
「記録されていません」
「なぜ?」
「魔族が教えなかったからです」
レオンが顔を上げる。
シルヴァレシエルは続ける。
「人間は魔術を体系化します。術式を書き、教え、他者が再現できることを重んじる」
レオンは頷く。
「魔族は違う」
「少なくとも、かつては」
シルヴァレシエルは古い記録を見る。
「魔族は人間より孤立していました。氏族ごと、地域ごと、そして個人ごとに魔法が異なる。高位の者ほど、自らのつくった固有の魔法を他者へ明かさないことも珍しくありません」
「不便ですね」
レオンが即答した。
ガレスが笑う。
「お前ならそう言うと思った」
「発見を共有しないんでしょう? 何のために研究するんです?」
「彼らにとって」
シルヴァレシエルが言う。
「自らにしか使えない魔法を作ることは、誇りでもありました」
レオンは理解できないという顔をした。
「だから」
古い図を見る。
「これを使った魔族が何者だったのかも?」
「分かりません」
「術式の詳細も?」
「分かりません」
「目的は?」
「記録には、魔力の共有に使われた可能性があると」
「可能性?」
「それ以上は分かりません」
レオンは黙った。
分からないことだらけだった。
だが。
一つだけ。
確かなことがある。
六百年以上前。
人間が現在の魔導器を作る遥か以前に。
同じような構造が。
魔族の魔法に存在していた。
「……魔導器の術式は」
レオンが呟く。
「人間だけで作ったものではない?」
「それは分かりません」
シルヴァレシエルが即座に言った。
レオンが見る。
「似た構造がある。それだけです」
「でも――」
「同じ発想へ、別々に辿り着くこともあるでしょう」
レオンは口を閉じた。
「分かっていること以上のことを、分かったことにしてはいけません」
ラウリュセリエンと同じだった。
レオンはもう一度、古い図を見る。
そして。
ふと。
あの夜を思い出した。
教会。
暗い部屋。
魔導器。
黒魔術の《接続》。
内部へ。
深く。
さらに深く。
その先で。
何かが。
こちらを。
「……シルヴァレシエル」
「はい」
「この魔法が、二つの魔力経路を繋ぐものだとして」
喉が乾いた。
「片方から、もう片方を見ることはできますか」
シルヴァレシエルは答えなかった。
「俺が接続先を調べたら」
レオンは続ける。
「接続先にいる何者かが、逆に俺を認識することは?」
「術式を知らないので、断言できません」
「可能性は?」
「あります」
あの感覚。
錯覚ではなかったとしたら。
レオンの背中に。
湯上がりとは違う汗が流れた。
「……俺が見つけたんじゃない」
ガレスがレオンを見る。
「何?」
レオンは。
古い記録から目を離せなかった。
「あの夜」
誰もいないはずの。
魔導器の向こう。
「向こうにも、俺が見つかったのかもしれない」




