女王
石畳は、森の奥へ続いていた。
道の左右には相変わらず木しかない。
だが、しばらく歩いてカイが足を止めた。
「……あれは家ですか?」
巨木の向こうに、石壁が見えた。
「たぶん」
ミリアが答える。
「たぶん?」
「だって、どこからが建物なのか分からないもの」
もっともだった。
人間の街とは違う。
森を切り開いて建物を並べたのではない。
岩壁に回廊が刻まれ、その上を木の根が這っている。巨木同士の間には細い石橋が渡され、その先には柱廊がある。
石壁の一部は崩れているように見える。
しかし、その割れ目から生えた木に合わせて、別の石材が継ぎ足されていた。
「古いですね」
カイが呟いた。
シルヴァレシエルが振り返る。
「どこが?」
「え?」
「どの部分を指していますか」
カイが困った顔をした。
「全部……?」
「左の柱廊は二百年ほど前です。橋は四百年。あちらの壁は新しい」
指差した先。
苔むした巨大な石壁だった。
「新しい?」
「六十七年前です」
カイが黙った。
ガレスが笑った。
「こいつらと時間の話をするな。頭がおかしくなるぞ」
シルヴァレシエルがエルフ語で何かを返した。
ガレスもエルフ語で答える。
レオンは眉を上げた。
「今の表現、北部ですよね」
「お、分かったか」
「意味は分かります。でも、王国で習うエルフ語ではない」
「お前のは教科書なんだよ」
「ガレスさんのは訛っているだけでしょう」
シルヴァレシエルが口を挟む。
「ガレス・ヴァルガの方が、この地方では自然です」
ガレスが勝ち誇った顔をした。
「ほらな」
「ただし、文法はレオン・アルヴェインの方が正確です」
今度はレオンが笑う。
「ほら」
ミリアが訊いた。
レオンは人間語へ戻した。
「ガレスさんのエルフ語は、酒場で覚えたエルフ語です」
「違う。現地で身につけた生きた言葉だ」
「俺のは王立学院で学んだ正しい言葉です」
「だから、お前が喋ると百年前の役人みたいになるんだよ」
「それは初めて聞きました」
「今、教えてやった」
前を歩いていたシルヴァレシエルが言った。
「正確には、百三十年ほど前の宮廷語に近いです」
レオンは黙った。
ガレスが吹き出した。
*
都市の中心へ近づいても、人は増えなかった。
エルフはいる。
石段に腰掛けて何かを書いている者。
木の高所で枝を整えている者。
水路のそばで話している者。
子供らしい姿も見えた。
だが。
誰も急いでいない。
王国では戦争が始まった。
兵が街道を埋め、避難民が南へ流れ、命令書が一日で国境へ届く。
ここには、その速度が存在しない。
一人のエルフが、石壁に彫刻をしていた。
カイが見る。
「何を作っているんでしょう」
シルヴァレシエルが答える。
「墓碑です」
「……亡くなった方の?」
「まだ生きています」
「はい?」
「本人が作っています」
見ると。
彫っているエルフ自身が、時々離れて出来を眺めている。
「いつ使うんですか」
「分かりません」
シルヴァレシエルは平然と言った。
「彼も知らないでしょう」
レオンは少し笑った。
以前来た時にも。
この感覚が嫌いではなかった。
人間が大事件だと思っていることが、ここでは少しだけ小さくなる。
同時に。
それが腹立たしくもある。
*
都市の最奥。
巨大な岩壁をくり抜いた広間へ通された。
扉はなかった。
衛兵も見当たらない。
その中央に。
女がいた。
白銀に近い長い髪。
薄い衣。
装飾品はほとんどない。
玉座すらなかった。
窓辺に立ち、森を見ている。
レオンは足を止めた。
数年ぶりだった。
何も変わっていない。
顔も。
声も。
おそらく。
レオンが生まれる百年前から。
「ラウリュセリエン陛下」
レオンはエルフ語で言った。
女が振り返る。
「レオン・アルヴェイン」
微笑みもしない。
「大きくなりましたね」
「……前に会った時は十二歳でしたから」
「十一です」
レオンが固まった。
ガレスが横を見る。
「お前、間違えてんじゃねえか」
「いや……」
女王は続ける。
「初めて会った時は十一。二度目が十二です」
「そうでした」
レオンは頭を下げた。
「よく覚えていますね」
「あなたにとっては昔なのでしょう」
それだけ。
今度はガレスを見る。
「ガレス・ヴァルガ」
「お久しぶりです、陛下」
ガレスのエルフ語は、レオンより柔らかい。
言葉遣いそのものは丁寧だが、響きが違う。
ラウリュセリエンが僅かに首を傾けた。
「以前より東の言葉が増えましたね」
「こちらでちと飲みすぎました」
「覚えています」
ガレスの顔が引きつった。
「そこまで覚えてなくていいんですが」
「忘れる理由がありません」
それから。
ミリア。
カイ。
女王は二人を見る。
「あなた方の言葉で話しましょう」
流暢な人間語だった。
訛りすらない。
「その方が、全員が理解できます」
ミリアが小さく頭を下げた。
カイは完全に緊張している。
レオンは鞄を開いた。
「陛下。見ていただきたいものがあります」
黒い金属片を出す。
ラウリュセリエンは。
見なかった。
レオンを見る。
「何です?」
「あなたは、それが何であるかを尋ねに来たのではありませんね」
レオンの手が止まる。
「……では、何をしに来たと?」
「自分が間違っていなかったと、誰かに言ってほしいのでしょう」
沈黙。
ガレスが目を逸らした。
ミリアは逸らさなかった。
「違います」
「そうですか」
それだけ。
反論しない。
レオンは妙に腹が立った。
「魔導器に、人間の魔術とは違う構造があります。魔族の腕輪にも同じものがあった。軍の命令系統にも異常がある。俺たちはそれを調べて――」
「知りません」
レオンが止まった。
「……何を?」
「誰が戦争を始めたのかを、私は知りません」
「まだ聞いていません」
「いずれ聞くでしょう」
ラウリュセリエンはようやく金属片を見る。
「これを誰が作ったのかも知りません」
「陛下でも?」
「ええ」
あまりにも普通に言う。
「私が知らないことの多さは、数えることもできません」
レオンは黙った。
「ですが」
女王が金属片へ指を近づける。
触れない。
「この形を、私は知っています」
レオンの目が変わる。
「何ですか」
「その話は後にしましょう」
「なぜです?」
「あなた方は疲れています」
「俺は大丈夫です」
「あなたの話はしていません」
ミリアが吹き出しかけた。
レオンは振り返る。
「笑いました?」
「笑ってない」
「今――」
「レオン」
ラウリュセリエンが呼ぶ。
それだけで。
レオンは口を閉じた。
昔もそうだった。
この女の前では、どうにも調子が狂う。
「その前に、一つだけ」
ガレスが言った。
「陛下。俺たちは王国軍に追われています」
「知っています」
「俺たちを匿えば、王国との問題になる」
「そうでしょうね」
「なら、なぜ俺たちを入れたんです?」
女王は少しだけ考えた。
「あなた方を助けるためではありません」
レオンが見る。
「では?」
「人間と魔族が大規模な戦争を始めれば、東の森も無関係ではいられません。難民は流れ、軍は動き、交易路は閉じるでしょう。戦火がここまで来ない保証もありません」
淡々としている。
「そして、その金属片があなたの言う通り人間と魔族の双方に存在するのであれば、それは人間だけの問題でも、魔族だけの問題でもない」
金属片を見る。
「我々が知らない仕組みが、我々の隣で広がっている」
そこで初めて、女王の目が僅かに細くなった。
「知らないものを、知らないまま放置することと、知らないものを、知ったつもりで放置することは違います」
レオンは何も言わなかった。
「あなた方を保護することには、我々にも利益があります。あなた方が持つ情報を知ることができる。そして王国軍がこの地へ入るなら、拒む理由も得られる」
「つまり」
カイが恐る恐る口を開く。
「俺たちを助けてくださるんですか?」
「利害が一致している間は」
即答だった。
カイが背筋を伸ばした。
レオンは少し笑った。
「分かりやすくて助かります」
「そうですか」
ラウリュセリエンはシルヴァレシエルを見る。
何かをエルフ語で告げる。
ガレスの眉が上がった。
レオンも。
「……今、何と言いました?」
ミリアが訊く。
「風呂に入れって」
ガレスが答えた。
「風呂?」
「正確には」
レオンが訂正する。
「温泉です」
カイの顔が明るくなった。
「温泉があるんですか!?」
「ありますよ」
レオンは以前来た時を思い出す。
エルフの都市。
数百年の建築。
人間とは違う時間。
神に最も近いと言われる種族。
そしてなぜか温泉。
「前から疑問だったんですが」
レオンはラウリュセリエンを見る。
「どうしてエルフに、あんな入浴文化があるんです?」
「我々が始めたものではありません」
「では、誰が?」
「人間です」
「人間?」
「三百四十七年前」
ラウリュセリエンは言った。
「東の森へ、一人の人間が迷い込みました」
ガレスも知らないらしい。
「王国の人間ですか?」
「いいえ」
「帝国?」
「いいえ」
「では、どこから?」
ラウリュセリエンは少しだけ。
本当に僅かに。
困ったような顔をした。
初めてだった。
「分かりません」
レオンが瞬きをする。
「本人も、我々には理解できない土地の名を語っていました」
「何という?」
「ニホン」
沈黙。
レオン。
ガレス。
ミリア。
カイ。
誰も知らない。
「……どこです?」
「ですから」
ラウリュセリエンは静かに答えた。
「分かりません」
そしてシルヴァレシエルへ視線を戻した。
「彼らを湯殿へ」
「承知しました」
「待ってください」
レオンが言う。
「その人間について――」
「後です」
「でも」
「レオン・アルヴェイン」
女王はレオンの服を見る。
逃亡。
野宿。
戦闘。
泥。
血。
「まず、身体を洗いなさい」
レオンは自分の袖の匂いを嗅いだ。
「……そんなにですか」
ミリアが横から答えた。
「そんなに」
ガレスも頷く。
「俺も?」
「全員」
「俺は昨日――」
「全員」
カイが立ち上がった。
「俺は温泉に行きます」
「裏切りましたね?」
「先生より温泉です」
シルヴァレシエルが歩き出す。
レオンは黒い金属片を鞄へ戻した。
三百四十七年前。
ニホン。
魔術を知らない人間。
そして温泉。
分からない。
また一つ。
分からないものが増えた。
レオンは小さく息を吐いた。
それから。
今度は追いかけて質問せず。
三人とともに、シルヴァレシエルの後を歩いた。




