エルフ領
夜明け前。
四人は馬を降りた。
「ここから歩きます」
レオンが言った。
前方に道はない。
森だった。
王国にも森はある。
だが、これは違う。
木々が大きい。
一本一本が太いというだけではない。高さも、枝の広がりも、密度も、人間の知っている森とは完全に違っていた。
街道は、その手前で終わっている。
「ここが国境?」
カイが訊く。
「だいたい」
「柵も砦もないですけど」
「必要ないんでしょう」
ガレスが馬の荷を下ろした。
「馬は?」
ミリア。
「連れていけない」
レオンは手綱を木へ結ぶ。
水。
食料。
資料。
杖。
必要なものだけ背負う。
「帰ってきた時いますかね」
カイが馬を見る。
「いなかったら歩きます」
「王都まで?」
「嫌なら見張ってていいですよ」
「行きます」
即答だった。
レオンは森を見る。
何年ぶりだろう。
勇者だった頃、一度。
いや、二度。
国選第三勇者パーティとして、この森を通った。
あの時は。
迎えがいた。
王国の旗もあった。
今はない。
「行きましょう」
四人は森へ入った。
*
一時間。
何も起きない。
「……本当にエルフ領なんですか」
カイが小声で訊いた。
「そうですよ」
「誰もいない」
「います」
レオンは前を向いたまま答えた。
「え?」
「たぶん入った時から」
カイが止まりかける。
「どこに?」
「分からない」
「分からないんですか?」
「分かったら苦労しません」
ガレスが木々を見上げる。
「昔より静かだな」
「季節が違います」
「それだけかね」
鳥。
水。
葉。
風。
それ以外はない。
レオンにも見つけられない。
魔力探知。
薄く広げる。
反応なし。
「やめとけ」
ガレス。
レオンは探知を止めた。
「嫌われます?」
「街で家の中を覗きながら散歩するようなもんだ」
「それは嫌ですね」
「何の話?」
ミリア。
「探知魔術」
「ああ」
さらに進む。
木漏れ日。
朝。
森の中だけ、まだ夜が残っている。
カイが何度も後ろを見る。
「追ってきてませんよね」
「今のところ」
レオン。
「いくら国選第三勇者パーティでも、この森で俺たちを追うのは難しい」
「先生たちは来たことあるんですよね」
「あります」
「エルフと戦った?」
「なんで」
「勇者だから」
「勇者は何でも殴る仕事じゃないですよ」
「お前は結構殴ってたけどな」
ガレス。
レオンは無視した。
*
昼前。
沢を見つけた。
水を補給する。
カイが倒木に腰を下ろした。
「もう無理」
「まだ午前ですよ」
「昨日から馬乗って逃げて戦ってまた逃げてるんですよ」
「俺もです」
「先生と一緒にしないでください」
ガレスが荷物を置く。
「休むぞ」
反対はなかった。
レオンも木の根元へ座る。
脚が重い。
肩もまだ少し痛む。
静かだった。
追手。
命令。
戦争。
ここへ来てから。
全部が急に遠い。
レオンは辺りを見回して、ため息をついて懐へ手を入れた。
煙草。
一本。
口へ。
隣でガレスも同じことをしていた。
向こうではカイ。
三人がほぼ同時に火を出す。
「ここでは、煙を吐かないでください」
三人の手が止まった。
ミリアが顔を上げる。
レオンは煙草を口から外した。
立つ。
誰もいない。
「……どこです?」
返事はない。
ガレスも立った。
カイが魔導器へ手を伸ばす。
「触るな」
レオンが止める。
エルフ語へ切り替えた。
「姿を見せていただけますか。我々に敵意はありません」
沈黙。
風。
頭上。
枝が僅かに揺れた。
一人。
いつからいたのか。
太い枝の上に立っている。
長い淡金の髪。
弓。
灰色の衣。
長い耳。
こちらを見下ろしていた。
「久しいですね、レオン・アルヴェイン」
レオンの眉が上がった。
「……俺を?」
エルフは答えない。
枝から降りる。
音がしなかった。
人間なら脚を折る高さだった。
地面へ。
ただ一歩踏み出したように着地する。
「名乗る必要がありますか」
レオンは顔を見る。
記憶。
昔。
「シルヴァレシエル?」
「ようやく」
「髪、長くなりました?」
「七年で?」
レオンが黙った。
ガレスが小さく笑う。
「人間には長いんですよ」
シルヴァレシエルが言う。
「知っています」
視線がガレスへ。
「ガレス・ヴァルガ」
今度はガレスが黙った。
「……覚えてたのか」
「何を?」
「俺を」
シルヴァレシエルは僅かに首を傾ける。
「忘れる理由が?」
ガレスは返事をしなかった。
シルヴァレシエルの目が移る。
ミリア。
カイ。
荷物。
そして。
三人の手にある煙草。
「それを」
「はい」
レオンはしまった。
ガレスも。
カイは慌てて箱へ戻す。
「煙草が嫌いなんですか」
カイが訊いた。
シルヴァレシエルが彼を見る。
「いいえ」
「じゃあ、どうして」
シルヴァレシエルは沢へ顔を向けた。
「二刻ほど後に雨が来ます」
四人が空を見る。
晴れている。
木々の隙間。
青空。
「雨?」
ミリア。
「西の谷では、夜明け前から蟻が巣を塞いでいます。沢の小魚は深みに下りました。北斜面の苔は胞子を閉じ始めています」
レオンは沢を見る。
何も分からない。
「風はまだ南ですが、その上を東から冷たい風が流れています」
シルヴァレシエルは続ける。
「土も変わりました」
しゃがむことすらしない。
「昨夜より湿り始めています」
カイが地面を見る。
触る。
「……分かんない」
シルヴァレシエルが三人を見る。
「煙は、それらを見えなくする」
レオンは手に残った煙草の匂いを嗅いだ。
強い。
普段なら気にも留めない。
「匂いで全部?」
「匂いだけではありません」
「前来たときは吸わせてくれたのに」
それ以上、シルヴァレシエルは話をしなかった。
「ここでは控えます」
レオンが言った。
「そうしてください」
「他では?」
「場所によります」
「分かりました」
シルヴァレシエルが歩き出す。
「来なさい」
「どこへ?」
「あなた方は我々の領域へ無断で入りました」
カイの顔が強張る。
「やっぱり捕まるんですか」
シルヴァレシエルが振り返る。
「捕まっていなかったと?」
カイが固まった。
レオンは森を見る。
何もない。
「……何人います?」
シルヴァレシエルは答えない。
「シルヴァレシエル」
「あなたは昔から、知らなくてもよいことを知りたがる」
「仕事だったので」
「今も?」
レオンは黙った。
シルヴァレシエルの目が杖へ。
荷物へ。
王国軍の装備へ。
泥。
血。
「国選勇者の旗は?」
「持ってません」
「王国の使者でもない」
「はい」
「それでも東へ来た」
「事情があります」
「あるでしょうね」
視線。
黒い金属片が入った鞄。
見えてはいないはずだった。
「女王に会いたい」
レオンが言った。
初めて。
エイレンの表情が僅かに変わった。
「何のために?」
「聞きたいことがあります」
「あなたが?」
「はい」
「それとも、人間の王国が?」
レオンは答えるまでに少し時間がかかった。
「俺が」
「そうですか」
シルヴァレシエルはまた歩き始めた。
「女王は俺を覚えてるか?」
ガレスが訊く。
レオンが振り返る。
「そこ気にしてたんですか」
「うるせえ」
シルヴァレシエルは前を向いたまま言った。
「女王陛下に直接お尋ねください」
ガレスが眉を上げる。
「会わせてくれるのか?」
「いいえ」
足が止まる。
シルヴァレシエルが振り返った。
「陛下が、あなた方に会うと仰せです」
レオンは黙った。
「もう知ってるんですか」
「何を?」
「俺たちが来たこと」
「当然でしょう」
シルヴァレシエルは少し考えた。
「あなた方が、まだ人間の街道を東へ走っていた頃には」
レオンの顔から表情が消えた。
「……国境を越える前?」
「はい」
「どうやって」
「レオン」
シルヴァレシエルが呼ぶ。
昔と。
同じ声だった。
「あなたは以前ここへ来た時も、同じことを尋ねました」
レオンは記憶を探す。
少年だった。
国選勇者。
自分なら何でも分かると思っていた頃。
「その時、俺になんて答えました?」
シルヴァレシエルは森の奥を見る。
「知らなくてもよいことは、知らずにいることです」
「……思い出した。それ嫌いだった」
「覚えています」
初めて。
ほんの僅かに。
シルヴァレシエルが笑った。
「陛下も、覚えておいでです」
森の奥。
木々の間に。
石造りの道が見えた。
人工物。
なのに。
いつからそこにあったのか。
レオンには分からなかった。
シルヴァレシエルがその道へ入る。
「お帰りなさい、レオン・アルヴェイン」
レオンは足を止めた。
歓迎。
ではない。
そう分かる声だった。
それでも。
数年前。
勇者として通った道を。
今度は王国から逃げる身で。
レオンは再び歩き始めた。




