第七話 境界線の向こう側
嘘を吐いている、と思った。
だってそうだろ。指先一つ動かさずに山を削り落とせる魔女が、こうも情け深くある必要なんてどこにもないんだ。気に入らないものはすり潰しちゃっていいし、面白くないものは腐り融かしていい。それができるほどの力を、彼女は持っている。
人間が助け合うのは弱いからだ。助け合わないとあっという間に死んじまうから、嫌々周りの顔色を窺って生きているんだ。龍の魔女には不要だろ、助け合いなんて。それなのに、どうしてそんなことを言うのかな。
思えば。バルタラ山で死にかけている俺を救ったのはなんでだ? 治療に寝床に食事も施して、魔女に何の得があるんだ?
魔女の表情を直視できずに、俺は視線を広げたままの地図へと逃がした。……なにか裏があるのかもしれない。そうでなければ説明がつかないよ。もっとも、どんな裏があろうとも、俺の側にはろくに選択肢なんてないんだけれど。
「それで、対価の方のお話なんですけど」
そらきた。
「アルセダ顔料、あと一瓶あるけど。……これだけじゃ足りない?」
「もうちょっともらえたら嬉しいなーって。というのもですね」
魔女は地図の上、ラードーンの炎が広がっている区域に指を置いた。「目的地はここで、」と人差し指がゆっくり動き出し、それはやがて地図の上を飛び出していく。魔女の指は、サラダが入っていた器の上で動きを止めた。
「バルタラ山はこの辺り。かなり距離がありますから、移動がとても大変なんですよね。移動分の対価ももらえたら嬉しいなぁ、なんて」
「確かに直線距離はあるけどさ。ここから一番近い都市からなら、三回転移するだけでメルキルエトに着くんだよ。別途対価を支払うほどのことだとは、俺には思えないな」
「私達、転移結晶を使えないので」
さらりと水を流すような調子で魔女が言った。がたりと椅子を揺らした音が、やたらと騒々しく部屋の中に響いた。
転移結晶。人類の繁栄の根幹を成す技術であり、人々の信仰の対象でもある奇跡の鉱石。この鉱石によって人々は壁に囲まれた都市と都市間を瞬時に転移する術を得ている。人間社会からけして切り離すことのできない、重要な鉱石だ。だが転移結晶が特別視されている理由はそれだけじゃない。
転移結晶は人間しか使うことができない。
この性質こそが畏敬の対象。馬では駄目だ。牛でも、羊でも、犬でも、当然魔物だって転移結晶は使えない。でも人間であれば使える。人種外見人格信条その他いかなるアイデンティティを持つ人間であっても、人間でさえあれば転移結晶は受け入れる。転移結晶とは神に選ばれた人類の誇りであり、人類平等の御旗であり、人間と他との決定的な違いを示す揺るぎない境界線なのである。
……逆に言えば。どれだけ人間らしい在り方をしていようとも、転移結晶が使えない生物は、人間ではない。
「……魔女殿、転移結晶、使えないんだ」
「はい。なので、メルキルエトへ行くには壁外を経由しなければいけないんです」
引け目の一つも感じさせない、あっさりとした口調であった。そのせいで、「そうなんだ」って相槌を打つ自分の声がやたらと揺らいでいるように感じられた。
永劫を生きる龍の魔女。彼女が人間ではない可能性は当然想定していた、つもりだった。……狼狽えてしまうくらいには気が緩んでいたらしい。出会った時からずっと、魔女が人間みたいな表情ばかり浮かべていたから。
俺は酷く苦々しい気持ちで目の前で頬杖を突く魔女を眺めた。姿も動きも声も全部人間に見えるのに、中身はしっかり別物だ。絆されてはならない。
「壁外を通ってくるんなら、その、確かに大変かもね。ここからメルキルエトは、かなり遠い」
「ええ。だから、アルセダ顔料一瓶では移動分だけで精一杯と言いますか」
「それでもう少し対価が欲しいってわけだ」
魔女は控えめに「できれば」と言いながら頷いた。主張はよく分かったよ。だけど、
「……アルセダ顔料を手に入れるの、結構苦労したんだ。これ以上っていうのは、……厳しいな」
「相応のものであればなんでもいいですよ。それこそ、お金で支払ってくれたって」
「できるならそうしたいけど、俺、もう持ち合わせがなくてさ。……どうにかまけてくれないかな?」
俺はあくまでへりくだった態度で魔女に両手を合わせた。バルタラ山を登るために準備が必要だったせいで、俺が自由に出来る金は少ない。……頭を下げたらなんとかならないかな、なんて打算もないではないけど。
「そう言われましても、」
「これ以上は難しいんだ、本当に。それに、魔女殿だって顔料、欲しいんじゃないの? 俺だって願いを叶えて欲しいわけで、このままご破算ってなるのはお互いに嫌じゃない?」
「…………まぁ、それは、」
魔女は分厚い学術書を前にした学生のようにぎゅっと額に力を込めた。これで無理ならしょうがないな。頭の中で売り払える家財の勘定を始めた丁度その時、ぱちりと一つ、手を叩く音がした。重なった両手の向こうには、素晴らしい妙案が浮かんだとばかりに晴れ晴れとした魔女の微笑みがあった。
「そこまで言うなら、良いですよ。タダで」
正気?
という言葉があわや喉から出かかって、俺は代わりに奇妙な音を漏らした。流石にそこまでは望んでない!
「ごめん、俺、東方のスラングには明るくなくてさ。タダってどういう意味かな」
「無料、という意味です。アルセダ顔料だけで請け負いますよ。ね、ヨシュアさん」
水を向けられた従者は文句一つ言わずただただ小さく頷いた。控えめな合意を確認した魔女は、自信ありげに逸らした自身の胸元をとんと軽く叩いた。
「ラードーンの炎の消火は、私達に任せてください!」
……無理でしょ。怖いよ。タダってなんだよ。タダより高いものはないって古今東西言われているだろ。この魔女は、俺に何をさせようとしている?




