第十二話 新生
夢を見た。俺の顔が焼かれる夢だ。
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ガンと扉を叩く音が聞こえて目が覚めた。汚れの無い窓から差し込む明るい光が、見慣れない天井を照らしている。この部屋の時計の場所は知らない。朝か夕かはわからない。来客が常識的でないことを、俺はとっくに知っている。
「邪魔するぞ」
嫌と言うほど聞き覚えのある声と共に、寝室の扉が力強く開け放たれた。端から家主からの返事が無いことを知っているかのような、形式だけの言葉だった。幸い、あるいは不幸にも俺は目が覚めてしまったけれど。
俺は寝台の上で体を起こした態勢のまま、堂々と寝室に入ってきたフルクエを迎えた。フルクエはそんな俺の様子を見て一瞬だけ体の動きを止めて、手に持っていた一冊の本をぽとりと床に落とした。
「目が覚めているとはな。順調に回復しているようで、なによりだ。調子は?」
「……とてもいいよ」
「そうか。今日はまともに会話もできるか」
フルクエは家主の俺よりも慣れた様子で、拾い上げた本をサイドテーブルの上に置いた。そのテーブルには既にいくつか物が乗っている。果物やパン、水差しなど。
俺はそれらの全てに見覚えがなかった。フルクエにあてがわれたこの家に住み始めてから、とうにそこそこの時間が経っているというのに、俺はまだ自分の家だという感覚を持つことができていない。
「では、先に共有事項を話そう。既に数回伝えてはいるが、貴殿は覚えていないだろうから、改めて。ラードーンは無事討伐された。負傷者は七名、死者はいない。一番の重傷者は貴殿だ。魔術兵器の投入試験も満足のいく結果を得た。……ただ、肝心の兵器本体は、ラードーンの炎に巻かれて完全に動きを止めてしまったそうだ」
「……じゃあ、成功したんだ。なにもかも」
「私の視点では、そうなるな」
ラードーンの炎を直視してから今日に至るまでの俺の記憶は曖昧だった。主観の上では、俺はあの日以降初めて目を覚ましたと認識しているんだけど、フルクエの口ぶりではどうも違うらしい。何回か説明してもらってるらしいが、全く記憶に残ってないな。
長らく寝ていたせいだろうか。いつもならごちゃごちゃと思考で散らかっている俺の頭の中が、どうしてか今はやたらと整頓されていた。まるで勝手に他人に掃除されたかのような気分だ。
「あの日から二週間程度が経過しているが。……かの魔物の死に際の炎は、今も燃え続けているよ。どうも普通の火ではないようだ。テレジア教と冒険者ギルドの双方で手を尽くしてはいるけれど、芳しい成果は得られていない」
フルクエはいつかの日と同じように、我が物顔で椅子の一つを引っ張り出してそこに腰かけた。今日はあの仰々しい祭服を着ていない。装飾のないシンプルな白のローブなんて、まるでごく一般的なメルキルエト市民みたいじゃないか。
「この二週間で貴殿の治療は適切に進められたし、とうに命の危険はない。ないが、……左腕を中心に、いくつか火傷跡が残ってしまう見込みだよ」
「うん」
淡々と状況を説明していたフルクエが、ふと訝しむように方眉を上げた。そんな表情をされる覚えは、ないんだけどな。俺の顔、何か変? 念のため両手で顔を触ってはみたけれど、顔にも両手にも執拗なほどに包帯が巻き付けられているようで、俺にわかることは何もなかった。
「……貴殿の顔は、他のどこの部位よりもずっと傷が少なかった。グラウス、貴殿、顔を優先して守っただろう」
「そうかもしれない」
「悪癖だ。訓練の度に指摘されていただろうに」
呆れた、とでも続きそうな語調であったが、その実フルクエの表情には大して悪感情は浮かんでいなかった。ええと、その感じ、なんて言うんだったっけ。フルクエらしくないな。目の前に座るこの女性は、本当にフルクエで合っているかな。
果たして彼女はこうも表情を表に出す人間だっただろうか。俺は自信が持てなかった。それは彼女が見慣れない服を着ているせいなのかもしれないし、それだけが理由ではないのかもしれない。なにが彼女を変えてしまったんだろう。
フルクエが言葉を途切れさせて、俺もなんにも言わないから、部屋の中からは急激に音が失せていった。この部屋に満ちているのは、俺の横に置かれた柑橘と消毒液の匂いばかりだ。
なんとなく居心地悪そうにしているフルクエの姿を見たのは、今日が初めてのはずだった。でも似たような表情を浮かべる彼女の姿が、確かに俺の記憶の中にあるのだ。ろくに感情の動かない鉄塊みたいな女だって俺は思っていたはずなんだけど、それはどうしてだったかな。
そのまま、俺達はしばらくの間無言の時間を共有した。いつもの俺であれば絶対に耐えられない空間だったけれど、今日の俺は本当に調子が良いから、いつまでだってフルクエの用事が済むのを待っていられるような気がした。
「……私は、」
窓から差し込む光の角度が代わって、俺の手元を明るく照らすようになった辺りで、フルクエが小さく口を開けた。
「私は貴殿の左腕を治しにきたんだ。此度の貴殿の働きは、人々に十分な希望を与えた。約束通り、その傷痕を治そう。今回の火傷の痕も、何もかも」
「…………」
「おめでとう、グラウス。これで目立つ部分の古傷が全て治るな。次はどうする。どうしたい? 胴体の傷も治そうか。それとも、また別の謝礼を、」
「もういい」
ぎ、と椅子の軋む音がした。立ち上がりかけたフルクエが、不自然に体の動きを止めてまた椅子に腰を落とす、その一連の流れによって生まれたものであった。
普段よりずっと大きく開かれた彼女の目が俺を映している。色素の薄い瞳が落っこちてしまいそうなほどに。
「……もういい、とは」
「言葉の通りだよ。治さなくっていい。左腕の古傷も、他のところも。全部要らない。篝火隊の隊長も、もうやめる」
「どうして」
うっかり零れたみたいなその言葉が、そっくりそのまま彼女の動揺を表していた。フルクエでも狼狽えることってあるんだ。そんなことを考えた瞬間、俺は彼女と初めて出会った日の事を思い出した。そういえばあの日も、俺の理解の及ばないところで戸惑っていたっけね。
あれ。じゃあ、変わったのはフルクエじゃなくて、
「隊長をやめるとは、どういうことだ。どうして。貴殿は私の同志だろう、貴殿はこの上なく私と理想を共有していたはず、なのに」
「……そうだった?」
「辞するのか。グラウス。貴殿は私を、私の理想を理解してくれていると、……それが例え完全でなくとも、同じ方向を向いていると、私はそう思っていたのに」
「だったらきっと、フルクエは最初から間違ってたんだろうね」
「……よしんば私が間違っていたのだとしても。貴殿は、その傷跡を治したいのではなかったか。治したいと思っていたからこそ、私についてきてくれていたんじゃないのか」
傷跡、という彼女の言葉に、俺は自身の左手を覆う包帯の一部を引きはがした。質の良さそうな紋章魔術で治療がなされていたその腕は、痛みこそほとんどないものの、真新しい火傷跡が広い範囲を覆っている。その下には昔作った傷跡が沢山。
醜い手だ。治したいって、思ってた。悪魔に魂を売ってでもってのが比喩じゃなくなる程度には。
そんな自分の渇望が、どうしてか今は他人の物のように思えた。
俺はどうして、あんなものを望んでいたんだっけ?
「……他に欲しい物ができたから、かも」
フルクエはほんの少しだけ口を開いたまま、信じられないものでも見るかのように俺の事をじっと見つめていた。上手に言葉が出てこないのか、放つべき言葉が見つからないのか。
いつの間にやら陽光は少しずつ赤色を帯び始めている。フルクエを急かすつもりはなかった。夜になっても構わないよ。なんだかんだ二年間くらい、一緒にやってきたもんね。俺だって別に、情を解さないわけじゃない。
「……やっぱり、簡単には辞められないかな。どうする? 今度こそ俺を脅してみる? 例えば俺の顔、焼いてみるとか」
今の俺は何の抵抗もできないよ。
殊更露悪的な俺の提案に、フルクエは力なく首を振った。
「今の貴殿はそれでは頷かないだろうよ」
「わからないよ。案外泣いて許しを請うかもしれない」
「つまらないジョークだ。心の底から」
突き放すみたいに吐かれた辛辣な彼女の言葉は、そのくせ隠し切れないほどに揺らいでいた。フルクエ自身も自覚があったのだろう。彼女は両手でくしゃりと顏を隠した。祈りめいた仕草であった。
「……私は、貴殿のことを見誤っていたのか? 違う。今の貴殿はグラウスじゃない。まるで別のなにかになってしまったかのようだ」
「はは、ジョーク返しのつもり? 似合わないね。俺は俺だよ。嫌になるくらいに」
「……信じていたんだ。貴殿は私の理解者であり続けると。いや、……本当のことを言うと、私は今だって、そうであってほしいと願っている」
「俺も願ってるよ」
「それでも、……それでももう、無理なのだろうな」
はぁ、とフルクエは深く深く溜息を吐いた。顔を覆っているせいで、彼女がどんな表情をしているのかを、俺は窺い知ることができなかった。
「一つだけ聞かせてくれ。グラウスは何処に行ったんだ。何が貴殿を、そのように変えてしまった?」
「俺は変わっていないよ。ただ、うまく言えないけど、……とても気分が良いんだ。ようやく自分を見つけられたみたいな、そんな感じ」
「……であれば私は、貴殿を祝福すべきなのだろうな。本来は」
三回ほどの呼吸の後にフルクエは顔を上げた。そこには俺の良く知った祭司長フルクエの、決意に満ちた真っすぐな瞳があった。必要であれば何もかもを飲み下して前を向く。それこそが、フルクエという女を成すなによりの強さである。
「今までご苦労だった、グラウス隊長。今日まで、貴殿はまさしく人々の希望であった」
「俺には過ぎた言葉です、祭司長殿」
不出来な希望でごめんね。次の希望は、もっとまともな奴だといいね。
俺の言葉に、フルクエは笑った。本当になと続いた彼女の声音には、どうしようもない程の諦観が含まれていた。




