第十一話 願い。望み。欲求。
湯の沸くに似た唸り声が、朗々と青空の下で響いていた。
準厄災級の火蜥蜴、ラードーン。
蜥蜴というには無機物的で、自然災害というには悪意があった。質の悪い石炭を寄り集めて作ったような、生き物の枠の端の端に立つ怪物。体表の一部はラードーン自らが生み出す炎によって赤熱し、発光と消光を緩やかに繰り返している。まるで明滅する星空に見えた。
「昼間だっていうのに、どうしてそうも元気なんだろうね」
俺は支給されていた紋章魔術符の一枚を掲げた。水弾というには心許ない水の塊が、一直線にラードーンの顔らしき場所に向かって飛んでいく。ラードーンの気を引くためだけに用意された小道具であった。
当たった、と思った次の瞬間にはじゅっと小気味良い音が鳴り、俺の放った拙い水弾は真っ白い煙に変わって消える。挨拶程度の刺激もなさそうだったのに、ラードーンの唸りが一瞬なくなって、ぎろりと俺に視線が落ちてきた。
聞いてたよりも煽りに弱いね。人間なんて歯牙にもかけませんよって顔して、案外苛立ったりするんだ?
……なんて心の声を読み取ったわけではないだろうが、ラードーンは怒りの表明とばかりに唸り声を轟かせ、次の一歩を俺へと差し向けた。
移動とも攻撃ともつかないそれは、なんとか避けることができた。ぼこぼこと歪に隆起した尻尾の振り下ろしも、まぁ、なんとかいなせたと言っていいだろう。砕けて吹っ飛んできたラードーンの表皮のいくつかが俺の体を打ったけれど、動きに支障が出るほどじゃない。
俺のすべき動作は単純だ。適度に距離を保ちながらラードーンの攻撃を避けて、三基の魔術兵器の中心部に向かって移動する。それだけ。
ラードーンの注意を俺に向けるのはとても簡単だった。準備も作戦も十全に機能していた。ラードーンの動きは想像よりずっとずっと愚鈍で、大怪我なんてしようもないように思えた。
青空の中に高らかにラードーンの声が響く。数度の爆発音とともに火柱が上がり、周辺の草木を真っ火に染め上げる。アレが万全の状態でさえあったなら、辺り一面はとっくに火の海に沈んでいただろう。
でも今はただただ周囲を焦がすだけの火だ。人間が必死になって作り上げた火止めの杭がかの炎を押しとどめ、ラードーンを苦しめて、ゆっくりと確実にその命を削り取っていく。
可哀想に。
草原を薙ぐように振られた尾は緩慢だった。唸り声すらも弱弱しく聞こえた。ラードーンの真骨頂たる全てを焼き尽くす熱だって、人間が地道に張り巡らせた紋章魔術に阻まれて、俺一人すらも燃やせない。
本来なら人間なんかあっという間に灰に変えてしまえるだろうに。俺ごときなど一呼吸もかけずに消し炭にできるだろうに。
なんて可哀想な化物。厄災になり得るだなんて勝手に人間に期待されて、必死に対策を立てられて、まんまとそれに負けてしまう惨めな魔物。
このままじゃ左手を治してもらうことは出来ないな。
近くに人間がいないせいかふっと俺の頭の中に酔狂な考えが過って、それがどうにも振り払い難くて、俺は目標地点に向けていた足を止めた。振り返り見上げた先、ラードーンはカチカチと打鉄に似た音を放っていて、体の赤熱は先ほどよりも強さを増している。
火柱だ。そう直感して、けれど俺は何もしないでただただラードーンを見ていた。哀れな魔物の断末魔に相違ない。せめて俺くらいは最期の輝きを見ていてやろうって、そんなことすら思っていたというのに。
ざり、と不快な音が聞こえた。石と石とを力任せに擦り合わせるに似た、神経を直接障るような音であった。
耳元で強く手を叩かれたみたいな音が続いて、恨めしげに俺を見下ろしていたはずのラードーンの首がゆらりと傾ぐ。吹き上がる水蒸気、呻き声、石を擦る音。
パン、と再び音が鳴った。ラードーンの頭を掠めた何かが辺りに激しく飛び散って、その正体にようやく俺は今目の前で起きている事態を把握した。
水だ。赤熱した鱗すらも砕く強烈な水弾が、ラードーンを攻撃しているんだ。
――魔術兵器が起動したのか。中心地点まではまだ結構距離があるんだけどな。
ざりざりとまた音がして、俺はその方向の空を見上げた。辛うじて目に捉えられる速度の水弾が空を裂き、一直線にラードーンの頭部へと迫っていく。しかし破裂音は続かなかった。ラードーンはほとんど動いていないから、魔術兵器が攻撃を外してしまった、のだろうが。
命中精度が課題ってのは聞いていたけど、あんなでかい的すら外すの? かなり上の方を狙っている今ならいいけれど、これ、小さい魔物相手に照準を合わせていたら、俺達人間にも当たっちゃわない?
攻撃が始まってしまったけれど、俺はこのまま誘導を続けるべきだろうか。既にラードーンの意識は俺には向いておらず、怒りをぶつけるべき方向を探して虚空に唸りを吐くばかりだ。
爆発音、破裂音、それから硬いものがばらばらと降り落ちる音。俺がぼんやりとラードーンの奮闘を見上げている間中、それらの音が幾度も繰り返されていた。
音がするたびにラードーンの体が揺れる。吹き上げる炎もすぐに消されて、大きく開いた顎が何かに届くこともない。
ああ、駄目だ。ラードーンはじきに死ぬ。俺を焼くこともできないで、魔術兵器による歴史的な討伐だったと記録されて、その醜聞が未来永劫残っていく。
呆気ない。無様だ。見るに堪えない。いい気味だ。……同情するよ。
立ち込める水蒸気の熱が皮膚を撫でる中、ふと遠くの方から俺の名を呼ぶ声が聞こえた。近づいてきている。この喧しい感じ、レッティだな。
「隊長ー! グラウス隊長ー! 無事スか? 無事スね。めずらしー」
「一言多いよ。他の二人は?」
「後から来るんじゃないスか? この場所、結構アタシの持ち場寄りなんで」
予定の場所からそこそこズレているもんね、ここ。
「合流してもらったところ悪いけど、たぶんもう、おしまいだ。このままラードーンが魔術兵器に殺されるところを、のんびり見学するだけかも」
「えー、つまんな。魔術兵器なんて正直期待してなかったスけど、案外いけるもんなんスね」
「うーん、どうかな。ただラードーンと相性が良かっただけのような、そんな気がする」
俺が見ている間だけでも何発も攻撃を外しているし、ラードーンがもっと動ける魔物だったら当てることすらままならないかも。照準がもっと地面寄りに合わされていたら人間へ誤射することもありそうだし、実用化はまだまだ先が長そうだ。
それでも。不完全な兵器であっても、ラードーンを倒すことはできる。人々に希望を与えるには十分すぎる成果だ。
「これで隊長はお役御免かな」
「グラウス隊長が? お役御免? はは、あははは! っはは、ぐぇ、はははは、げほっ」
「俺そんな咽るほど面白いこと、言った?」
断末魔と共に迸る熱と、笑い続けるレッティの声。吹きあがる白い煙と、時折思い出したかのように響く破裂音。
レッティを咎める気にもなれなくて、俺は溜息の代わりに仮面の位置を正した。向こう側に見える景色は、丁度ラードーンの体がぐらりと倒れ込むところであった。
どすんと派手な地響きを立ててラードーンが頭部から地面に沈む。二、三度ほど首を持ち上げようともがいていたが、魔術兵器の二発目の追い打ちによって、ラードーンは完全に地に伏すこととなった。
その際に飛び散った鱗の一部が俺の左肩に裂傷を作った。……それだけだ。こんな傷じゃどうにもならないよ。期待させるだけさせておいて、現実はこんなにもつまらない。
「……終わりだね。一応完全に動かなくなるのを確認して帰ろうか」
「っはは、あー、了解ッス」
「皆と合流して、祭司長殿に報告して、それから」
ぞわり、と奇妙な感覚が俺の首筋を撫でた。
咄嗟に向けた視線の先にはうぞうぞとのたうつように蠢くラードーンがいるだけだ。もう火柱を上げることもない。自慢の尻尾だって地面を撫でるばかり。立ち上がることすらできないだろう。
それなのにこの嫌な予感はなに?
頭の中をかき混ぜられるような違和感は、塗り替えられるような不快感は、いじくりまわされるような嫌悪感はなに?
「……レッティ、逃げよう」
「は? でも、死ぬとこ見届けてこいって、フルクエさんが」
「隊長命令。撤退だ。他の二人にも合図を出して。この場所を離れる。今すぐに」
「り、了解ス」
困惑した様子を見せながらも、レッティの動きは迅速だった。彼女の人差し指が真っすぐに空を示して、その先端からチカチカと光明が数回瞬く。合図が問題なく行われたのを目の端に捉えながら、レッティの背を追いたてるようにして俺は走り出した。ラードーンから離れる方向に。レッティの担当していた、魔術兵器の方向に。
ぱん、と俺達の横を掠めるようにして水弾が地面を叩いた。……これまで空の方向に飛んでいた攻撃が、地面の方を向いている。ラードーンが倒れたせいで照準が下方にズレたんだ。今回は偶然外れた。次は、偶然俺達に当たるかもしれない。
長くここに留まっているのは物理的にも危ない。それに、どうしてか、あの攻撃がもう一度ラードーンに当たったらとても良くないことが起こりそうな気がする。
「レッティ、もっと早く走って。できるでしょ」
「アタシが本気で走ったら、隊長のこと置いていっちゃうじゃないスか!」
「それでいいから! 俺のことなんて鑑みないで、とにかく急いでここを離れて、」
ざりざりざりとあの音が聞こえる。さっきよりずっと大きいそれは、まるで俺の耳の中を直接擦り上げているかのようだ。頭が割れるように痛む。破裂音が続く。化物の呻く声が、朗々と歌い上げるような断末魔が、俺を呼ぶ声が、
「隊長、なにしてるんスか!? どうして立ち止まって、」
「……ごめん。なんか、呼ばれてる、かも」
「はぁ!? 何言ってんスか! 逃げるんでしょ!? トチ狂ってねぇで、隊長も早く、」
レッティの叫び声が俺の遥か後ろの方から聞こえてくる。その声の遠さに安堵しながらも、俺の視線は死にかけている醜い魔物の塊から逸らすことができなかった。
だから、俺は見た。
目の前の動かぬ死骸から炎の波が溢れ出すところを。草原も、そこに打ち込まれた数多の火止めも、俺自身も、全てを吞み込んでいくところを。
自然も、人間が作ったものも、関係ない。分け隔てなく平等に。ラードーンの命を燃やし尽くして生み出されたその炎は、俺の失望を嘲笑するみたいに、圧倒的な力を誇示しながら全てを洗い流していく。
なんだ。やっぱりできるんだ。
人間なんかには到底届き得ないような暴力。破壊。蹂躪。探していたもの。見たかった光景。俺の願い。望み。欲求。
知らない感情が頭の中に流れ込む。ぱきりと硬いものが割れる音がする。
頭の中で聞こえたその音の正体を、俺は未だに知ることができないでいる。




