第十三話 エピローグ
聖篝火教会の蔵書庫はいつだって埃っぽくてならない。俺は二、三度咳ばらいをしてから、開いていた歴史書を閉じた。ぱたりと乾いた音とともに、また幾らかの埃が舞った。
壁という壁が本棚で埋められた、薄暗い地下室の片隅。大切だけれど、さりとて保管するには面倒な書籍の数々が最終的に行きつく部屋。大都市メルキルエトの中枢に位置する聖篝火教会は、そんな厄介なアレソレを保管する役割を担っていたりもする。
人口台帳とか税務帳簿、交易目録、転移結晶管理簿。メルキルエトのものだけじゃない。他所の都市からの供託や写し、それから地図の上から消えてしまった都市の記録。この場所にはとかく様々な書籍が押し込められている。
国とかギルドで管理しろよって類の重要文書とかもあるしね。あれかな、メルキルエトにおけるテレジア教の立ち位置の強さが反映されてるのかな? それか単なる厄介払いか。
まぁ、この部屋だけで広範な資料が閲覧できるってのは、利用者としては嬉しい限りだけど。
俺は読んでいた年代記の一冊を押しやって、テーブルに積み上げられた本の山の頂上を手に取った。表紙には掠れた文字でミトゥヤク編年史と書かれている。ぶ厚いなぁ。
ぱらぱらぱらと手早く捲りながらも、俺はいつになく集中して文字の羅列を追っていた。学が無いもんで、この手のお堅い文章を読むには少しばかり神経を使うのだ。
そうしてじっと古臭い紙を見つめていたせいで。もしくは、こんなかび臭い部屋に人が来るわけないと油断していたせいで。俺は背後からやってくる人間の存在に、ついぞ気づくことができなかった。
「久しいな。二月、いや、三月ぶりか」
「……!」
俺は勢いよく体を声の方向に向けた。重たい木の椅子が石造りの床を擦り、耳障りな大きい音を立てた。
「見知らぬ男が蔵書庫を頻繁に利用していると聞いて来てみれば。グラウス、貴殿だったとはな」
「……仮面をつけていない時に、グラウスって呼ばないで」
「すっかり調子が戻ったようだ。心なしか顔色も、以前よりずっと良いじゃないか」
「イカれた女との縁が切れたからかもね」
嫌味を理解しているのかいないのか、俺の言葉に小さな笑い声を上げたこの女の顔を、一体誰が忘れようか。忘れたいけど。
祭司長フルクエ。この聖篝火教会の実務的なトップを担う、とても高貴な身分にある存在。俺なんかが祭司長サマを直視するのは大変恐れ多いことなので、どっかいってくれないかな。今すぐに。
「俺は正規の手続きを取ってここを使ってるんだ。祭司長殿のお手を煩わせることなんて、何一つとしてございませんとも」
「私だって仕事でここにいるわけじゃない。今日は休日だからな。治安維持も兼ねて教会内を見て回っていただけだよ」
休日に職場に来るなよ。部下が可哀想じゃん。同情しちゃうな。
「それで、グラウスは何故こんな場所に、」
「フルクエ」
刺々しい俺の指摘に、フルクエはハッと口元を片手で抑えた。
「では、………………ジョン、など?」
「……無理して名前を呼ばなくても、いいんだよ?」
この場所には俺達以外、誰もいないのに。……などと言えば俺自身にも刺さってしまうので、俺はおとなしく口を噤んだ。その俺の無言をどう捉えたのか、あろうことか、フルクエは極々自然な動作で俺の隣の席に座った。居座る気かよ。
「それで、ジ、ジョンは、どうして蔵書庫に? この場所に貴殿が望むものなんて、何一つとして無いように思えるが」
「俺だってたまには本を読みたい気分になるんだ」
「公文書を本と呼ぶ感性は、流石に分かりかねるよ。……都市ラグズール。シエガ。シジエノ。それとミトゥヤク。適当に取ったものではないな。共通項は……厄災か」
心臓が嫌な跳ね方をした。なんて賢しい女だ。面倒くさすぎる。
俺はじとりとフルクエを睨んだ。机に積み上げられた本の背表紙を指で辿っていたフルクエは、そんな俺の純然たる八つ当たりに気がつくことはなかった。
「貴殿は前々からこの手の話題には耳が早かったな。今もそうだというのなら、また貴殿のために特別な席を用意しようか」
「ちょっと黙っててくれないかな。俺は本を読みに来てるんだ」
「知りたいことがあるのなら、手を貸してやってもいいよ。簡単にではあるが、この部屋の本は一通り目を通していてね」
この部屋の本、って、見える範囲だけでも膨大な量があるけど。
俺は内心で舌を巻いた。この女ならそれくらいのことやってかねない。彼女が理想を押し付ける先は、何も他人だけじゃない。
「何が知りたい?」
「……今までで一番大きな被害を出した厄災」
「邪龍ヒュドラだな。とうに潰えた厄災だが」
フルクエは俺の築いた本の山の中からひょいひょいと数冊の本を抜き出した。それだけじゃ飽き足らず、俺が手をつけていない棚の方に足を伸ばしたフルクエは、さらに三冊の本を机の上に並べて見せた。
「西方の寝物語が二冊と、こっちは詩集だ」
「……ありがとう」
「礼を言われるほどのことじゃない。それで、先ほどの話の続きだが」
俺はロクな返事もしないで、フルクエが選びだした寝物語の一つに視線を落とした。ここまでされては邪険にもしづらいが、正直言ってちっとも聞きたい話じゃない。せめて無言でいることだけが、俺の精一杯の受容の表明である。
「戻ってくる気はないのか? 篝火隊に。あまりに姿を見せないものだから、レッティなどは貴殿で賭けをしている始末だ」
「生死?」
「死因だ。自殺か否かを」
レッティは俺をなんだと思っていたんだろう。確認したいような、死ぬまで知りたくないような、なんだかとっても複雑な気分だ。
「皆寂しがっているよ。貴殿の戻りを待っているんだ」
「寂しがってる奴は死因で賭けをしないんだよ。絶対に、戻らないからね」
「残念だよ、本当に」
始末の悪いことに、フルクエの声色は、心の底から残念がっていることが明白なそれであった。ズレているのはフルクエの方かな。それとも、罪悪感を覚えてしまった俺の方かな。
言いたいことを言い終えたのか、フルクエは現れた時のように唐突に椅子から立ち上がった。また来るよという彼女の言葉は、聞こえなかったことにした。
「ではな。グラ、……ジョン」
「じゃあね」
「……ああ、そういえば」
安堵の息を吐こうとした矢先、フルクエはつい今しがた思い出したかのような、独り言めいた声をあげた。あとほんの数歩で蔵書庫の外に出る、そんな位置で。
「最近、邪龍ヒュドラに関する下らない噂を耳にしたよ。邪龍を従える魔女がいるとか、そんな与太話を」
「……なに、それ」
「東方にあるバルタラ山に、龍の魔女なる人物が住んでいるらしい。龍の魔女は会いに来た人間の願いをなんでも叶えてくれるのだそうだ。潰えたはずの邪龍の力を使ってな」
「邪龍の力で人間の願いを叶える魔女? それはだいぶ、……非現実的だね」
「都市クグエクのご老人が好んでそのような話をしていると聞いてね。信じる人間はいないだろうが、このまま吹聴され続けると治安の悪化につながりかねん。どこかで一度、釘を刺さねば」
「ご老人でしょ? 祭司長殿が直々に釘を刺しにいったら、きっと心臓が止まっちゃうよ。やめておきなよ」
「しかし、」
俺が行くよ。そう言うと、フルクエは淡い色合いの瞳を丸く見開いた。
「私で心臓を止めてしまうのなら、貴殿が行っても同じことだろう」
「平気だよ。俺はグラウスじゃなくてジョンだから。そもそも、多忙な祭司長殿にそんな暇、ある?」
フルクエは押し黙った。自分のスケジュールを見直していたりするのかもしれない。
フルクエは物事の重要度を度外視して何事にも全力を尽くす節があるから、どこかで誰かが止める必要がある。オーバーワーク気味の上司の面倒を見るのはもう、俺の仕事ではないけど。
でも、ちょっと今回ばかりは、話が別かな。
「俺に任せておいてよ。うまいことやっておくからさ」
「……であれば、頼んだ。ありがとう」
それでは、とフルクエは今度こそ蔵書庫を後にした。バタリと重たげな音と共に扉が閉まる。カツカツと規則正しい足音がどんどん小さくなっていく。
自分以外の物音がすっかり無くなったのを見計らって、俺は開いていた寝物語を閉じた。折角選んでもらった本だけれど、今日はこれ以上読む気にはなれなかった。
なんでも願いを叶えてくれる、バルタラ山の龍の魔女。
馬鹿馬鹿しいな。ジョークにしたって出来が悪いや。信じる人間なんて、ただの一人もいないだろうよ。
……ってことは、俺が最初の一人目だね。
とうに潰えた厄災ヒュドラ。その力を自由に使える存在がいるかもしれないだなんて、なんて夢のある話だろうか。
ラードーンより強いのかな。あの炎よりもっとずっと凄いものを、俺は見ることができるのかな。
そうでなきゃ困るよ。あの火を、熱を、それ以上を、俺は渇望している。蜘蛛の糸より細い希望でも構わない。この命を棒に振ったって良い。何を使ってでも、叶えたい。
最後の一冊を本棚に戻した。向かうはクグエク。あるいはバルタラ山。ないしはその果て。向こう側。
蔵書庫の扉を押し開けた拍子、自分の左手が目に入った。革手袋と袖の隙間に醜い皮膚が覗いている。ただそれだけ。代わり映えのない、俺の腕。
以前の俺はどうしてこんなものに執着していたんだっけ。ちらりと過った疑問も、階段に足をかけるころには気にならなくなった。だって俺には、もっとずっと大事なことができたから。
もう一度あの光景に出会うこと。ただそれだけが、俺の望みの全てである。
虚飾の火 完
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
気が向いたら続きを書こうと思っていますが、未定ですので、ひとまずここで完結とします。
感想、評価等リアクションとても励みになりました。ありがとうございます。




