第四話 現存
少し待っていてくださいね、と魔女は顔料の入った小瓶を抱えて奥の小部屋に消えていった。
見知らぬ男一人を部屋に残してどこかに行っちゃうだなんて、迂闊が過ぎるな。俺が物盗りだったらどうするつもりなんだろう。もちろんそんなことをしにバルタラ山を登ってきたわけじゃないが、それはそれとして俺は辺りを見渡した。
物の多い部屋だった。火の入っていない暖炉、壁にはテレジア教の絵画が一枚。カウンターの向こう側に見えるキッチンの棚は、食器や調理器具でパズルでもしているみたいな有様だ。ダイニングテーブルには向かい合わせで並べられた椅子が二脚。
……これが彼女の迂闊の理由か。どうやら同居人がいるらしい。邪龍が椅子を使うかどうかは、怪しいけどさ。
俺は窓の外を眺めた。もうじきに夜が来る。そうなれば、世界は魔物の時間にとって代わる。
万物を腐り落とすとされる邪龍ヒュドラの力は、今も健在なのだろうか。俺の願いは、魔女に聞き入れてもらえるだろうか。
前者は今から見せてもらえる。後者は……拝み倒せばなんとかなりそうな気がする。
大人しくソファに座りながら感動的な身の上話をでっちあげていると、ややあって再び奥のドアが開いた。革製の外套を羽織った少女が、にこやかに笑って立っていた。
「見せてくれるそうですよ。ちょっと山の上の方に行くので、ついてきてください」
俺が酷い怪我をしているってこと、忘れちゃったのかもしれない。
でも、文句なんて言わないよ。ソファと癒着したかのような倦怠感をどうにか振り払って、俺はゆっくりと立ち上がった。邪龍の力を見ることができるんなら、この程度の怪我、なんの障害にもならない。
家の外は夕暮れであった。突き刺すような風が俺の身体を強かに打つ中、少女の掲げる明かりが上へと登っていくのが見えた。置いていかれまいと必死だったもので、布で巻かれた左腕の不自由だとか、荷物の大半を置いてしまったことだとか、そんな些細なことを煩う暇はなかった。
邪龍ヒュドラ。潰えぬ厄災。人類史上最も大きな損害を生んだ魔物。
滅びに形を与えたものだと語る人間がいた。共に綴られた都市の名は今日ではもう残っていない。西の詩人は今なお草一つ生えてこない大地を憂いて歌うのだ。
圧倒的な破壊を、徹底的な蹂躙を。
そんなものが、今、俺の目の前にあるらしい。
「大丈夫ですか?」
少女が振り返って俺に問う。大丈夫じゃないよ。寒いし、痛いし、心臓がうるさい。
「良くはないな。長く外にいすぎると、風邪を引いちゃいそうだ」
「それはいけませんね。まだ少し距離がありますけど……この辺りにしましょうか」
軽快な歩みが止まったのは、奇しくも俺と少女とが出会った場所であった。見上げた先、きりりと聳える峰の形に酷く見覚えがある。山頂の遠さを嘆いた記憶が、なんだかずっと昔のもののようだった。
「見えますか?」
少女が明かりを落とした。夕闇にぼんやりと浮かんだ山容を良く見ていると、うぞうぞと輪郭が蠢いていることに気がついた。
「なに、あれ」
「魔物です。夜になるとああやって活発になるんですよ」
「……ここからはかなり距離があるよね。それなのに、目に見えるってことはさ、」
「危ないですよね。良い機会なので、ついでに退治しちゃおうと思いまして」
じゃあ、お願いします。と少女が言った。気負いのない挨拶みたいな口調であった。俺に向かって言ったのかと思ったほどだ。だから俺は一瞬だけ視線を少女に向けた。彼女の目は山頂だけをじっと見つめていて、それで先ほどの言葉が俺宛てでないことに気がついた。
慌てて視線を峰の切っ先に戻したときにはもう、そこにいた。
神話や伝奇や寝物語に出てくる翼竜の影を切り取って空に貼り付けたみたいな異質な存在感。山頂に纏わりつくように飛ぶ龍の、伸びた一つの首が、緩やかに羽ばたく翼が、揺れる尾が、夜闇の中に浮いている。
「……邪龍の頭は九つだって聞いてるけど」
「元々はそうだったらしいですね」
瞬きの前後で邪龍と空の境界線が歪んだ。邪龍の身より出でた夕闇よりも濃い黒が、ゆっくりと山頂を覆っていく。音は無かった。衝撃も無かった。俺の予想の中にあった派手な暴虐もけたたましい轟音も何もかもが無いのに、それは確かに起こっているのだ。
囂々と風が吹いた。ばくばくと鳴り響く心音が邪魔でならなかった。
ほんの数秒の後、邪龍の身体が融けるようにして峰の上へと落ちていく。黒い霧の晴れた先には空があった。聳えた峰も、蠢く魔物も、全てが融けて消えていた。
鍋を火にかけるように、あるいは夜闇に灯りを翳すように。そんな日常の静けさと共に、この世界から峰の一つが消えたのだ。
「望んだものは、ありましたか?」
風の向こうから魔女の声が聞こえる。俺はすっかりなだらかになってしまった新しい山頂から目を離せないまま、その問いかけに頷いた。
この力を意のままに行使できる存在が、俺の手の届くところにいる。たった今目の前で証明されたこの事実こそが、俺の望んでやまないものである。
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