第三十六話 願い。望み。欲求。
魔女が目を覚ましたのは、魔術兵器が沈黙してから――俺が自らの魔物除けを破壊してから、十数分後のことであった。
大怪我を負った魔女を抱えて荷車の近くに戻ってきた俺達は、ろくに会話を交わすことも無く、各々のやり方で魔女の目覚めを待っていた。従者は微動だにせず魔女の隣に座り込んでいて、俺はと言うと、少し離れた場所で落ち着かない気持ちに従うまま折れた足に巻き付けた紋章魔術の端をひたすら弄り回していた。
静かなネシュの森の中、聞こえていたのは微かな衣擦ればかりであった。だから不意に発せられた魔女の呻き声を聞き逃すことはなかった。
「う、い、痛かった……」
「魔女殿! 良かった、目を覚ましてくれて。調子はどう?」
「……まぁまぁ、ですねぇ。ヨシュアさん、今、どんな状況ですか」
「全部終わった。後は炎を消すだけだ」
恐ろしく雑な従者の報告を、魔女はありのまま受け止めた。そうですかと安堵の表情を浮かべた彼女は、ぺたぺたと魔術兵器の攻撃を受けた部分を確かめた後、よいしょと少しダルそうに上体を起こして、
「いやぁ、ご迷惑をおかけし――」
不自然に言葉を切った。たぶん、その理由は、目の前で深々と頭を下げた俺にあるんじゃないかと思う。
未だ治らぬ足のせいでろくに立てもせず、膝立ちの不格好な姿勢のまま、それでも俺はできる限りの誠意を込めて彼女達に頭を下げていた。
「ごめん、魔女殿、従者殿。二人がこんな目に遭ったのは俺のせいだ。俺がここまで連れてこなければ、魔女殿は怪我をしなかった。……本当に、ごめんね」
「いや、あの、頭を上げてください。私の怪我は治りましたし、そもそもあの魔術兵器が動いたのは、グラウスさんにも予想外のことだったんですよね?」
「……俺の言うこと、信じてくれるんだ?」
軽口めいた言葉を選びながらも、俺は頭を上げることが出来なかった。意図的なものではなかったにせよ、魔女と従者が俺を責めるのであれば、何だって甘んじて受ける気でいた。首筋を晒すことくらい、わけのないことだった。
……一方で、傲慢にも俺は、彼女達がこの誠意を受け取ってくれることを、全く疑っていないのだ。
ああ、もう、認める他ない。俺は彼女達の寛容を、許容を、人間からかけ離れた在り様を、この上ないほどに信じている。
「信じますよ、グラウスさんのこと。それに足る証明を見せてもらいましたから」
「……結局、中途半端だったけどね」
魔女がもう一度頭を上げるように促したため、俺は大人しく従った。魔女だけでなく従者もまた俺の顔を覗き込むようにしゃがんでいて、なんだかかなり気恥ずかしい。こうも素直に感情を曝け出したのは、一体いつぶりのことだろうか。
「お二人は……特にヨシュアさんは無茶をしませんでしたか? 怪我とかしてませんか」
「俺の足は軽ーく折れているかも。一応、紋章魔術で治す努力はしているんだけど」
「俺は無茶も怪我もしていない」
俺はつい従者の右腕に目をやった。あれ、無茶じゃないんだ。
邪龍だもんねと納得しそうになったが、ふと感じた視線に顔を向けると、疑わし気な表情をした魔女が無言で俺に真偽の程を問うている。俺は曖昧な笑顔を返した。どっちに肩入れすべきか判断できなかったもんで。
「……それなら、まぁ。では、グラウスさんの足が治り次第、本来の目的を果たしに行きましょうか」
「待たなくてもいいよ。人間の足はすぐには治らないから」
そんなことより、魔女殿と従者殿さえ準備が出来ているんなら、さっさと炎を消そうよ。早い方が良いよ。さっきのドタバタを聞いて誰かがやってきたら面倒だし。やろうよ。急いで。今すぐに。
明るい空の真ん中で、負けじと強く月が存在を主張していた。疑いようもなく夜だった。であれば、好き勝手にやってもらわなくては。今はもう、彼女達の時間だ。
「そこまで言うのなら、やっちゃいましょうか。ヨシュアさん、いけそうですか?」
「いける」
端的に了承した従者は、おもむろに立ち上がって十分な距離をとった。およそ荷車五台分。いや、ちらりと俺の方を見て、さらに数台分ほど離れていく。木々に交じるように立つ彼は、たぶん今から邪龍に変わる。
くっと服の端が引かれた。その先に、閉じた自分の目を指さしている魔女がいた。目を閉じろって言ってるのね。もちろん従うけど、魔女殿が先に目を閉じちゃったら、俺がちゃんと言う通りにしているのかわからなくない?
それほどまでに愚直に信頼されているというのは、嬉しさよりも、流石に少し心配が勝るな。もっとも、夜の壁外、魔物除けも剣も失った状況で龍の魔女を前にして素直に目を閉じている俺だって、同じくらいに愚かしい。
遠く遠くに感じる炎熱と、枯れ枝を踏みしめるような音。大きくなっていく何かの気配と、雨の日の空に似た臭い。
「これで二度目、いや三度目になるのかな」
「慣れましたか?」
「どうだろう。自信はないな」
いつまで目を閉じておけばいいのか、堪え性のない好奇心がちらりと鎌首を擡げた辺りで、「もういいですよ」と魔女が言った。俺の目が真っ先に受け入れたのは、バルタラ山の峰で、あるいは三日前にネシュの森で出会った、漆黒の翼竜の姿であった。
夕暮れのように明るい空の下だというのに、周囲に滲み出している黒い霧がそれの輪郭を曖昧にしていた。定型を持たない生命が無理矢理翼竜の形に押し込められている。そんな歪さが物質として佇んでいる。
絶えず与えられた熱によって乾いていたはずの大地が、ぐずぐずと沼のように蕩けていくのを見た。臆せずそこに踏み込んでいく魔女の腕には、つい先ほどまで荷車にかかっていた帆布が抱えられている。
「このままヨシュアさんに飛んでもらって、空から炎を消します。グラウスさんは、どうします?」
「直接触ると腐っちゃうんだっけ」
「ええ。……一応、敷布越しだと、大丈夫なんですけど」
首をぺたりと地面につけて丸くなる翼竜の背に、ばさりと大判の帆布がかけられた。あまり見ない類の紋章魔術が施されたそれは、きっと彼女達のための特別性なんだろう。情け程度の革紐を何重か邪龍の体に巻き付けることで轡代わりにしているけれど、空を飛ぶことを思えば到底心許ない装備だった。従者が気まぐれを起こしたら、俺は成す術もなく真っ逆さまに落ちちゃうんだろうね。
でも、いいよ。
「信じるよ。俺も連れて行って」
「ええ。もちろんですとも」
にこりと笑った魔女に手をひかれ、邪龍の背の上に乗り上げる。俺がしっかりと革紐を掴んだことを確かめてから、「飛んでください」と魔女が言う。
不気味なほどに音の無く、黒い翼がゆっくりと左右に広がった。枯れ果ててなお形を残す周囲の木々は、まるで彼の邪魔にはならなかった。艶のない鱗に触れた端から崩れ落ちていく様子は、まるで枯れ木が頭を垂れて邪龍に道を譲っているかのようだった。
ぐ、と空から押し付けられるような感覚の後、強い強い風が吹く。閉じてしまった目を開けた時にはもう、俺達は星々の下にいた。眼下には広く燃え続けるラードーンの炎。何人たりとも受け入れまいと輝く峻烈な輝きを、あの日俺を焼いた炎を、今日は遥か上から見下ろしている。
とてもとても良い気分だった。ようやく、ようやく俺は、この瞬間に辿り着くことができたんだ。身を焦がすほどに焦がれた願いが、まさに今叶おうとしている。
吹きすさぶ風に混ざって、誰かの笑い声が聞こえている。今はそんな些細なことなどどうでもよくて、俺はちっとも気に留めなかったんだけど、
「嬉しそうですね」
「なんのこと?」
「グラウスさん、笑っているから」
「嬉しいよ。当たり前だろ。俺はずっとこの瞬間を望んでいたんだ」
だから、お願い。そう言うと、俺の隣で革紐にしがみついていた魔女は、一つ力強く頷いた。
「ヨシュアさん、お願いします」
龍の首が吠えるような調子で天を向く。喉に相当する器官が存在しないのか、聞こえてくる音は何一つとしてなかったけれど、それが従者の肯定であることは俺にも理解することができた。声の代わりに、夜を切り出したみたいな霧が、覆いのようにラードーンの炎の上に立ち込めていく。
龍の顎に似た部分が、再び無音の叫びをあげた。
それだけ。たったそれだけだ。龍の発する黒い霧が、地表の太陽を余すことなく塗りつぶしていく。夜を遮る眩い光が、端から順に潰えていく。派手な轟音もドラマチックな苦労も無い。戯れに絵の具をひっくり返した程度の、静かで穏やかな変化であった。それなのに、あの日の炎が、その内に取り残されたままの人類の技術の粋が、全ての形を失っていくのだ。
我が物顔で燃え盛っていたラードーンの炎を嘲るかのような、あるいは、何一つとして手出しができなかった人間を憐れむかのような、そんな力。俺の願い。望み。欲求。
「……あの炎は、俺のことを焼いたんだ」
「そう、言っていましたね」
「目の前で、あっという間に全部を呑み込んでいくのを見た。木も、大地も、魔術兵器も、俺自身も、何もかもを分け隔てなく平等に。あの力が、人間よりも遥かに強大で抗いようもない暴力が、ずっと忘れられなかった。だから、だから俺はあの光景を」
蠢く霧の下、遥か彼方に輝く炎の最後の一片が消えるのを見た。急速に暗さを思い出した世界の中に、ラードーンの炎はもう存在しない。ラードーンよりもっとずっと強い力が、全てを壊してしまったから。
ああ、こんなにも素敵なことって、他には無いだろ。
「もう一度だけ、見たかったんだ」




