第十一話 瞳
「あのね、人間は邪龍が怖いんだ。当然、それを意のままに操る魔女殿のこともだ。邪龍が暴れていた時代は今や過去のものだけど、人類の奥底には未だに恐怖がこびりついてる。沢山の人が死んじゃったことも、融け落ちた都市も、駄目になった大地も、忘れてない。魔女殿が邪龍を従えていたって、なくなるものじゃない」
「……グラウスさんも、そうなんですか。だって、一緒にご飯を食べたりとか、」
「怖くないって言ったら嘘になるよ。でも、それ以上に、俺には目的があるから。普通の人はすごく怖がる。メルキルエトを大混乱に陥れたいんなら、俺とは関係ないタイミングでやって」
「……そう、でしたか。すみません、私、ちょっと浮かれていたかも」
グラウスさんが、ずっと普通に接してくれていたから。
魔女は衣擦れにも負けてしまいそうなほどの声で、ぽつりと言った。俺は聞こえなかったふりをした。俺達は互いに利用し合うだけの関係だ。不必要に関わるつもりは、毛頭なかった。
「そういうわけだから、邪龍はどこかバレないところに引っ込めてもらえるかな」
「……ええ、わかりました」
魔女は下げていたポーチの中から、革製の小箱を取り出した。中身は一本の注射器であった。余りに太い針がついているせいで、医療器具というよりは武器に近い印象を受けた。
星明りの下、辛うじて見えた中の液体は深い緑色をしていた。……前払いとして魔女に渡したアルセダ顔料三番。あの色に似ている。
俺は何でもないふりをしながらそれとなく腰元の長剣に手をやった。魔女はそんな俺を一瞥もしないで、ただ音も無く佇む邪龍だけを見ていた。邪龍は不気味なほどに大人しくしたまま、魔女が近づくのに合わせてゆったりと顔を寄せていく。
邪龍を従えてはいない? とんだ虚言じゃないか。それ以外に、今俺の目の前で起きている事象をどう説明つけろっていうんだ。
「いきますよ」
魔女が言った。俺に向けたものではなかった。重たげに構えられた大きな注射器、その切っ先を邪龍の瞳へと、
「…………」
俺は咄嗟に目を逸らした。泥濘に足を突っ込んだ時に似た音が一つ、静かな森に溶けて消えた。それから硬い物の落ちる音が、果実を踏みつけたみたいな水の音が、這いずる蛇の擦れるような音が続く。何が起きているのかを正確に把握したくはなかったが、俺の耳は殊更そんなものばかりを拾い上げた。
いつもよりずっと静かな森だったから。きっとこれも全て、この化物達のせいなんだろう。
「これなら、メルキルエトに向かえますよね」
指示語を使わないでよ、そっちを見ないといけないだろ。
最低な気分を抑えつけながら、俺は緩慢に顔をあげた。そこに邪龍の姿はなかった。そこにいたのは少しばかり浮かない顔で俺を見ている魔女と、ヨシュアと名乗った不健康そうな従者だけ。
邪龍を従えた龍の魔女。
掌で片目を覆い隠した《《従者》》の姿に、俺はそんな噂のフレーズを思い出していた。
「……もう出発できるの?」
「ええと、ちょっとだけ時間を下さい」
今になって気がついたのだが、地面には小型の荷車も転がっていた。邪龍の背に積んでいたのかもしれない。積み荷のいくつかは無造作に周囲に落っこちていて、それを積み込む時間が欲しいと魔女は言う。
魔女と従者が二人がかりで荷物を積み込んでいくところを、俺は離れた位置から眺めていた。一抱えほどの木箱が二つ、小ぶりの樽が三個、それから袋がいくつか。何に使うかは知らないが、彼女達の大荷物は俺にとっては都合がいい。
空いたスペースに魔女が乗り込んだのを合図に、従者が荷車を引き始める。俺の前で立ち止まった従者の、相も変わらず感情の薄い顔。その左目付近には血の流れ出た跡があるのに、肝心の傷跡はどこにも見つからないのだ。この所業を回復魔法によるものだと思える純粋さを、俺はとっくに捨てている。
あっちもこっちも人間じゃないものばかり。やっぱり世界は人類にとって過酷な場所だ。
「お待たせしました」
「案内を、頼んでいいか」
「もちろん、任せてよ。メルキルエトまでしっかり案内するからね」
持ち込んでいた魔術式のランタンに明かりを灯した。太陽の光が完全に失せた今、こんなにも堂々と壁外を歩くのは自殺志願者か馬鹿しかいない。でも、今の俺には些細なことだね。
「魔物が出たら、何とかしてくれる?」
「……出てこられるものなら」
頼もしいね、怖いくらいに。
そんじょそこらの魔物よりももっとずっと危険な存在を引き連れながら、俺は都市メルキルエトに向けて大いなる小さな一歩を踏み出した。




