第二十二話 ここではない居場所へ
強烈な眠気のようなものがロルフの全身を支配しようとしていた時、暖かな柔らかい感覚がロルフの首筋を撫でた。
「ロルフ……」
ひどく懐かしい声を聞いた気がした。海の中で漂う点のようだったロルフの意識が覚醒する。
「シス……?」
赤色しかない視界の中、うっすらともやのような影が見えた。乳白色のもやは水中を漂うようにロルフに近づいてくる。
「ロルフ……ごめんなさい」
形を成してはいないが、目の前にいるのはシスだ。シスの意識と言えるものがロルフに語りかける。
「私、この子の中に入っていって思い出したの。私はただの意識。魔力の集合体。皆の無念」
「どういうことだ?」
「迫害されてきた魔術師の無念が魔力になり、蓄積されていく。殺された魔術師。商人に売られ見世物にされた魔術師。いろいろな無念が形になり私を形成していった」
シスはゆっくりと、一つ一つを噛みしめるように言葉を紡ぐ。
「あの森……ロルフと初めて会ったときにいたあの子が本当のシス。商人に売られ、乱暴され逃げてきた魔術師。かわいそうな子」
シスと初めて出会った場所。生命の森で朽ちていた死体が本当のシスだったのか。
「私を取り込んだこの子も同じ。迫害され、悲しみに満ちている」
シスの意識が、一度大きく揺れる。海藻のように漂うシスの意識は、薄くなり今にも消えてしまいそうだった。
「シスっ! 消えるな!」
ロルフは叫びシスに手を伸ばそうとするが、体全体が縛り上げられているような感触で指一本動かすことができない。
「だから私はシスなんかじゃない。人間になるなんて……」
「でも、お前はシスだ!」
シスの意識のもやが動きを止める。ふわふわと漂う意識はゆっくりとロルフに近づいてくる。
「俺にとってはお前がシスだ。人間になるなんて考えなくたっていい。お前と一緒にこの先を生きていければ」
「私はロルフが奴隷の後を消して、みんなと仲良く暮らすことができればそれでいい。そこに私がいなくても」
「シスがいないとダメなんだ!」
絞り出す。自分の思いを。
「シスは元奴隷の俺でも一緒にいてくれるんだ。シスじゃないとダメなんだ!」
「ロルフ。ありがとう。でも、私は……」
「シス!」
ロルフが動かなかったはずの腕を震わせる。全身が熱く燃え上がる。痛みと苦しみ。そして、さまざまな負の感情がロルフに襲いかかってゆく。それでも、ロルフは石のように固まっていた腕をシスの意識に伸ばした。
「手を取れ! シス!」
シスの意識が大きく膨れ上がる。次第に、人の形を作っていく。
「ロルフ。いいの?」
「当たり前だ! 俺はお前と一緒にいたい」
もやだった意識がシスの体を形作る。乳白色の髪に文様の広がる体。シスだ。
シスはもがくように手足をばたつかせると、ロルフの元へと漂ってくる。ロルフは腕を伸ばしシスの体を自分の胸へと引き寄せた。
暖かく、やわらかい感触を全身で感じながら、ロルフはシスをしっかりと抱きとめる。
その瞬間。一面赤だった視界が晴れ、急激に色を帯びていく。まばゆい光が差し込み、ロルフの視界を奪う。次に目を開いたときは、先ほどまでいた教会の屋根の上だった。
シスはロルフの胸の中で、目を閉じていた。
「シス」
ロルフがやさしく肩をゆすると、シスの喉から小さく声が漏れた。長いまつげを揺らしながらシスがゆっくりと目を開ける。
「ロルフ……私」
「ああ、よかった。シス。戻ってこられて」
ロルフはシスの頭を胸に抱え、ぬくもりを確かめる。さらり、としたシスの髪が愛おしい。
「……む。ぐぐぐ」
胸の中で、苦しそうな声が聞こえてきた。小さな手がロルフの胸を押す。
「……ブハっ! ロルフ! そんな強く抱きつくな! 痛い!」
シスはロルフの胸の中でジタバタと暴れている。体は小さいが力は強い。これだけ動ければ心配はないだろう。
周りを見ると、腰を抜かしていた商人も逃げたようだ。紅い羊はシスを吐き出したためか、普通の羊の外見に戻っている。屋根の上を恐る恐る歩いている。
シスはロルフの胸から離れ、紅い羊に近づいていく。紅い羊を支えようと手を伸ばす。
「シス! 触れるな!」
ロルフは叫ぶが、構わずシスは紅い羊に触れる。
が、シスの体には何も起こらず、紅い羊は気持ちよさそうに目を細めていた。
「どういうことだ? 触れても何も起こらない」
近づいて紅い羊の体を見ると、毛の奥に隠された皮膚はわずかに文様が波打っている。紅い羊が魔力を失ったわけでは無いようだ。
「この子は私の心に触れた。迫害された魔術師たちの心を。自分と同じだ。仲間だって……だからもう、私を吸収しようなんて思っていない」
直接心を通わせた者同士でしか分からない感覚だ。
ロルフはシスの頭を撫でる。艶やかな感触が心地よい。
「また撫でた! 子ども扱いするなって言ったのに!」
がうっ! っと獣のように歯を立てると、シスは素早く紅い羊の体に抱きつく。紅い羊の足元に隠れ、ロルフを凝視している。
ロルフの口元に笑みが漏れる。しかし、安心している場合でもない。ここは屋根の上なのだ。万が一、落下しないとも限らない。下のほうにも、ずいぶんと住民が集まっているのが見えた。速やかにこの街から離れたほうがよさそうだ。
「魔術師がいたぞ!」
突然の叫び声に、ロルフの背中が粟立つ。
「魔術師だ! あいつがこの街を襲った!」
もう一度。
ロルフが屋根から下を覗くと、騒ぎを聞きつけた住民で教会の周りがごった返していた。皆、ロルフたちを見上げ、口々に何かを話している。
群衆の中、一人の女が何かを喚き立てている。魔術師という言葉を聞いた住民は不安を掻き立てられ、それは次々と周りに伝染していく。
「魔術師だ!」「魔術師は殺せ!」「悪魔め!」
住民に恐怖が植え付けられ、苛烈な言葉が浴びせられる。
そんな中、住民をさらに焚きつけるように叫んでいた女がロルフを見上げた。
アルマだ。
アルマだけが混乱する住民の中、ロルフの瞳を見据えていた。
「あいつ……」
何が目的なんだ。
……考えている暇はない。もう少しすれば、暴徒と化した住民がこの教会の屋根まで上がってくるかもしれない。そうなれば、逃げ場の無いロルフたちは終わりだ。
「シスっ!」
ロルフはシスを見た。
おびえる紅い羊をやさしく撫でながら、空を見上げている。おびえる様子はなく、ただ穏やかな表情で空に浮かぶ月を見つめていた。
「シス! 何をしてるんだ。すぐに逃げないと――」
「ロルフ」
感情を抑えた穏やかな声だった。月明かりの下でも分かるくらいに唇を震わせ、震える足で近づいてくると、そっとロルフの手を握った。
「やっぱり……私はロルフと一緒にいれないよ」
「シス! いまさらなにを」
「ロルフはガンベルツにいるべき。アルマもロルフを求めているから。元奴隷同士なんだから。きっと、分かり合えると思う……よ」
突然、シスの髪の毛がぶわ、と膨らんだと思うと、全身に文様が浮かび上がった。
「さようなら。ロルフ」
言葉の真意を確かめる間もなく、ロルフの体は宙を舞った。抗えぬ力で吹き飛ばされると、屋根の上から放り出される。
地面に落下する直前。空気の膜につつまれるかのように、ロルフの体が地面で一回跳ねた。よろけながらも地面に着地すると、目を血走らせた住民がロルフを見下ろしていた。
「待て! 魔術師は魔術を使うと肌に文様が出る。そいつは魔術師じゃない」
住民はその声に動揺を走らせると、ロルフの顔をまじまじと見た。
ロルフは首筋を見られないように気を付けながら、視線に耐えていた。
「アルマ……お前」
アルマはロルフの顔を一瞥すると、住民に向き直る。
「それにこいつはこの街を救った英雄だ。お前らも見ただろう?」
真っ青な顔でアルマを見るのは、先ほど紅い羊に襲われていた二人の商人だった。そのうち一人がロルフを見ると、重い口を開いた。
「あ、ああ。確かに見た。その男が赤い羊に覆われていったんだ。殺されたかと思った。その男が、空から降ってきたときには……」
商人が教会の屋根を見上げる。
「あのバケモノはいなくなっていたんだ」
「そうだろう? この男はガンベルツを救った英雄だ!」
道化としか思えない。
普通の感覚ではこんなバカげたことを言っても、奇異の目で見られるだけだろう。しかし、今のこの異常な状況はアルマの言葉でも住民を先導する効果はある。
教会の周りでは、いまだに恐怖する者、歓喜に身を震わせる者、ロルフを畏怖する目で見る者、様々な感情が渦巻いていた。
アルマは頬を赤く染め、ロルフの顔から視線を逸らさずに歩いてくる。
「ロルフ。あのお嬢ちゃんはもういない。そして、この街ではお前は英雄になった」
「何が言いたい?」
アルマは服の中に手を入れると、一つの小瓶を取り出し、ロルフの目の前に置いた。
紅い羊の体液だ。
「よく考えろよ? ロルフ。これで奴隷の烙印を消せば、お前はこの街で何不自由ない生活ができる。仕事だって、私が紹介してやろう。家族も持つことができる。お前が望んだすべてが手に入るんだ」
それはロルフがこの八年間、望んでも手に入らなかった生活だ。仕事を持ちいくらかの賃金を得る。帰る家を持ち、友と酒を飲み語らう。家族を持って、慎ましいながらも安らぎの生活を送る。そして、叶うなら子や孫に最後を看取られれば最高の人生だ。それが、目の前まで来ている。
ロルフは目の前に置かれた、小瓶を手に取った。
一瞬、アルマの顔に笑みが戻る。しかし、ロルフが小瓶を頭上に掲げると、アルマの表情は悲壮感に満ちていった。
「おい……ロルフ。早まるな」
「それでも、俺は」
アルマは全身から力が抜けたように地面に手を付けているが、かろうじて上げられた腕はロルフに向けられている。
「ロルフ! 私じゃダメなのか? 一生、お前と一緒にいる。私はお前の子だって産んでやれる! だから、私と、一緒に……」
ロルフはアルマの言葉を振り払うように、小瓶を地面に叩きつけた。乾いた音と共に、紅い羊の体液は地面にまき散らされる。興奮した民衆に踏まれ、汚され、紅い羊の体液はただの泥となっていった。
アルマの表情からは感情の色は抜け落ち、ただ視点の定まらない瞳を割れた小瓶に向けていた。
ロルフは自分のローブのフードを掴むと、そのまま勢いよくはぎ取った。長年、人に見せることが無かった奴隷の烙印が色濃く残る首筋を晒す。
「俺は元奴隷だ!」
ロルフが誰に言うでもなく叫ぶ。
「お前たちはこの俺を受け入れてくれるか? 仲間だと認めてくれるか? 元奴隷の、俺でも!」
数人の住民がロルフの叫びに気が付いた。当初は、疑問顔を浮かべていたが、ロルフの首筋を見ると、その表情は恐怖に歪んだ。
「奴隷だ……」
誰か一人がそうつぶやくと、周りの人間も次々とロルフの首筋を見る。
「奴隷……」「忌むべきものだ」「奴隷は殺せっ」
今まで称賛の目を向けていた街の住民は、ロルフが奴隷とわかると表情を変える。恐れ畏怖し、汚物を見るような視線をロルフに向ける。
「俺の願いを叶えるのはここじゃない。俺はシスと共に行く」
アルマにロルフの声が届いていたのかわからない。
「すまない。アルマ」
そう言い残し、ロルフは走り出す。
ガンベルツの住民は、ロルフが走り出すと恐怖し道を開ける。
今までの喧騒が幻だったかのように、静まり返ってしまった場をロルフは立ち去っていった。




