第二十一話 すべてを飲みこむ災厄
すでに、西の空は視界を覆いつくさんばかりに赤い色で埋め尽くされていた。
ガンベルツの西の市壁は大勢の人でごった返していた。開かれた門からは市壁の外がよく見える。
遠くからでは赤い雲のように見えていたが、近くまで来てみると地上の一点から空に向け煙のようなものが噴出されている。徐々に煙の発信源はガンベルツへと近づいているようにも見えた。
もし、シスを取り込んだ紅い羊なら……。
アルマの言葉が本当ならば、すでに紅い羊は遠くの場所で貴族に買われているはず。ここにいるはずはない。
太陽は完全に沈み、夜の帳が落ちているはずだ。しかし、西の方角は昼間のような明るさだ。
ロルフは民衆にもみくちゃにされながら、市壁の門へとたどり着いた。
「……オオオオォォ」
西の方角から、腹の底に響くような咆哮が聞こえてきた。
突然、市壁の外へ出ていた何人かが喚きたてる。その声は次第に伝染し、周りの人間を不安に掻き立てていった。
「こっちに近づいてくる!」
誰か一人がそう叫ぶと、人だかりは不安に揺れる。何人かが、反対側へと逃げていくと、それにつられる様に住民の半分ほどがちりぢりに逃げていく。
まだ残っている人間はよほど好奇心を抑えきれないのだろう。ほとんどが城市壁の外で、迫りくる何かを凝視している。
たしかに、赤い景色はゆらゆらと揺れ、一層大きくなっていく。
「あれは……やはり」
地面を疾走する何かが見えた。四つ足の獣だ。空よりも赤い体と毛を風になびかせながらガンベルツへと走ってくる姿が確認できた。
間違いない。紅い羊だ。
禍々しささえ覚えるその姿は、とても貴族に扱える生き物ではないように思える。シスの魔力のせいだろうか。
疑問が頭に浮かんだ時、紅い羊は眼前に迫っていた。そのまま市壁に激突する勢いだ。人だかりが恐れに身を縮める前に、紅い羊は大地をえぐり大きく跳躍した。紅い羊から発生する煙は一層沸き立ちガンベルツを覆っていく。紅い羊は市壁を乗り越えると、そのまま街の中心部へと走り去っていった。
「シス!」
ふいに声が出た。
街の中心部では、悲鳴と交じり建物が崩れる音も聞こえてくる。ロルフが街の方向へと足を向けたときには、中心部から火が上がり住人たちが我先に市壁の門へと逃げてきた。
「オオオオォオオオォォォオオオ」
今まで聞いたこともないような声だ。人の声のようにも、獣のようにも聞こえる。
住民は紅い羊の雄叫びを聞くと、頭を抱え突っ伏し、叫び声も上げられないほどに怯え切っている。
しかしロルフにはむしろ、紅い羊が怯え悲しみ、苦しんでいる叫び声のようにも聞こえた。
ロルフは人の流れに逆らい、紅い羊のいる街の中心部へと駆けていく。
紅い羊が見えた。
教会の屋根の上でその優雅な赤い毛並みと、逞しい体を月の光に照らしガンベルツを見下ろしていた。
目が開けられないほどの光を発し、その姿は神話に出てくる霊獣を思い起こさせる。
周りには、恐れを知らない住民がぐるりと教会の周りを囲んでいる。商人だろうか。奇異の目で、あるいは金になると踏んでいるのだろうか。興味深そうに目を輝かせている人間も見受けられた。
「捕らえろ!」
と、誰かが声をあげた。声のした方を見ると、先日紅い羊を盗みに教会へと足を踏み入れた際、アルマと会話をしていたバール商会の男が、目を血走らせ叫んでいた。
バール商会の男の周りにいる小間使いのような男たちは、相当怯んでいたが、意を決し教会内部へと入っていった。
それと同時に、紅い羊から人の体ほどもある火球が空へと放たれた。空中で火球はいくつかに分かれると、思い思いの方向へと解き放たれた。
建物に着火すると、石の外壁を焼き炭へと変えてゆく。
その光景を見下ろしている紅い羊は、再度火球を出現させると空中へと解き放つ。
天へ向かって雄叫びをあげた。
なぜわざわざ紅い羊はガンベルツへ戻ってきたんだ? これではまるで、この街を破壊しにきた悪魔のようだ。
まるで、この街を憎んでいるかのように。
無理もないのかもしれない。奪われ、意味の分からぬまま仲間から引きはがされ、見せ物にされた。シスは紅い羊を怯えていると言った。シス自身も商人は好きではないと言っている。ひょっとすると、意識を融合させた紅い羊とシスがこのガンベルツという商人の街を破壊しようとしているのではないか?
ぞくり、と背筋が冷える。
魔術師は一人で数千人を葬り去ることができる力を持つ。その力が無差別に襲ってくるとしたら……。
ガンベルツは間違いなく壊滅する。
ロルフは額に流れる冷や汗を拭うと、教会に入っていった男たちを追っていく。
教会内部は閑散としており、耳を澄ますとどこからか祈りの声が聞こえてくる。二階へと続く階段の通路を通っていくとき、礼拝堂で何人かの修道士が神に祈りを捧げているのが見えた。神が人に与えた紅い羊。神の試練とでも思っているのだろうか。しかし、今ガンベルツを焼き尽くそうとしている紅い羊は人間の欲から生まれた存在だ。
ロルフは修道士たちを一瞥すると、上の階へと急ぐ。
先に入っていった商人たちの姿が見えない。時折、上の階から地鳴りのような重い音が聞こえる。無事なら良いが。
ロルフが教会の二階まで駆け上がると、紅い羊の咆哮がハッキリと聞こえてくる。
教会の二階は、ほとんどが修道士たちの部屋となっており、通路には小窓が設置されている。その隙間から今の涼しい季節には似合わない熱風が入りこんできた。
「この上だ」
ロルフは突き当りの小部屋の中から、屋上へと続く梯はしごを昇る。長い間、使われていなかったらしく、足を掛ける鉄の棒には埃が積もっていた。よく見ると、埃が掃われている場所もある。あの二人の商人たちが先に昇っていったのだろうか。
長いはしごを昇り終えると、屋根へと続く扉は開け放たれており、雷のような赤い光が明滅している。
屋根へと降りると、この世のものとは思えない光景が広がっていた。
空は一面、血を塗ったように赤い色が広がり、所々に走る黒い血管のような筋が脈打っている。空気は乾燥し、産毛を焼くかのような熱気が辺りを包んでいる。
目の前の二人の商人は完全に腰を抜かしている。足がマヒしてしまったかのように、腕だけで紅い羊から距離を取ろうと這いずっている。
「……あ、あ」
息を吸うのも忘れるほどの畏怖。目の前にいる紅い羊はすでにこの世のものではなかった。
体は膨れ上がり、ロルフの身長の三倍はある。目は血の赤よりも鮮やかに染まり、理性の感じさせない瞳が商人たちを見据えていた。鼻や口は炎の揺らめきのように形を変え、その体から発せられる赤い煙は天を貫かん勢いで空に向かい放出されている。
神から遣わされた霊獣と言われる紅い羊だが、ロルフの目には世界を終わらせる悪魔のしもべのようにも見えた。
紅い羊は一歩一歩商人たちへと近づいてくる。その巨体は質量を感じさせず水面を滑るかのように近づいてくる。商人たちの眼前へと歩んできた紅い羊は、一度体を震わせると体から炎を散らせる。それが次第に大きくなり商人たちを包み込もうとしている。
「シスっ!」
火炎をまとった紅い羊は、ロルフの声で動きを止める。恐怖に震える商人たちを尻目に、ロルフへと顔を向けた。揺れる瞳はロルフを捉えると、一瞬目を細めたように見えた。
やはり、シスの意識は紅い羊の中に残っている。
「シスっ! 俺だ。ロルフだ!」
再び紅い羊に語りかける。が、変化を見たのは先ほどだけで、紅い羊はもう一度商人たちに向き、体から炎をちらつかせている。放たれた火炎が商人たちを覆う。
「くっ!」
ロルフは地面を蹴ると、恐れおののき動けない商人たちに体ごとぶつかっていった。
炎に包まれた商人たちは、ロルフの出現に驚いたのか目を白黒させている。
商人たちの服は所々焦げてはいたが、命に別状はなさそうだ。
「早く逃げろ! お前たちでどうにかなる相手じゃない!」
腰を抜かした商人が、よろよろと腕を上げロルフの後ろを指し示した。
「あ、あれ……」
背中がじりじりと熱い。
後ろを振り向くと、炎の赤が視界を覆いつくしていた。体を動かす間もなく、ロルフは炎に包まれてしまう。熱いという感覚は一切なかった。ただ、炎は生き物のようにロルフの体にまとわりつき、蹂躙していく。目、鼻、口の中へ。爪の先からも炎が入り込んでいく。
焼かれる。
痛みも、感情も、遠い日に見た記憶も、悲しみもすべてが焼き尽くされていく。
ロルフの視界が閉じていく。




