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第二十話 心に蝕む呪い

「シスは……あいつはどうなったんだ? 紅い羊に触れたとき、煙のように消えてしまった。あいつは今どこにいるんだ?」


 アルマはシスの名を聞くと、あからさまに表情をゆがめた。


「なぁ。ロルフ。お前人間に戻りたかったんだろ?」


 アルマは質問には答えず、ロルフの顔を見つめていた。


「それをお前は駄目にした」


 冷え始めていたロルフの頭が再び熱を持った。立ち上がろうとする足を、自らの手で抑え込む。理性と感情がせめぎ合っていた。


「ああ、そうだな。そう思われても仕方がない」


 アルマの表情に影が入る。ロルフから視線を逸らし、自虐するように笑った。


「何……?」


「ロルフ……私はな、目的のためなら多少の嘘は許されると思ってる」


「何のことを言ってるんだ……?」


 アルマは視線を床に落としたまま、語り続ける。


「今お前は私を憎んでいるだろう? だが、長い間望んだことが叶うのなら、お前はきっと私に感謝する」


 アルマの言葉の真意がわからない。しかし、今まで見たことがないようなアルマの雰囲気にロルフは言葉が出てこない。


「あのお嬢ちゃんのことはあきらめるんだ」


 アルマから放たれた言葉が、ゆっくりとロルフの頭に浸透していく。


「あの紅い羊はな。魔術師の魔力だけに留まらず、精神と肉体をも吸収し自らの糧にする。滑稽だろ? 家畜である羊が人間を喰うんだ」


 アルマがくくっと喉の奥を鳴らす。


 ロルフの胸に抱いていた疑問が徐々に、黒い影を帯びていく。シスが吸収された? 胸がざわめく。指が震える。怒りではなく、悲しみ。まるで自分の体ではないかのように、足がアルマに向かって歩みだす。まるで雲の中にいるような感触がロルフを包んだ時、乾いた音が部屋に鳴り響いた。


 アルマが頭上に掲げた小瓶をテーブルに叩きつけたのだ。指一つ分くらいの大きさのガラスでできた小瓶の中には、粘液性の白濁した液体が波打っていた。

 アルマに向いていたロルフの視線が、ガラスの小瓶に釘付けになる。アルマが使った残りではない。正真正銘、ロルフを人間に戻すための紅い羊の体液だ。


「目の色が変わったな。ロルフ」


「それは……!」


「お前だけは人間に戻してやる」


 人間に戻す。その言葉がどんなにロルフの希望になりうるか。


「受け取れ。約束の報酬だ」


 アルマはガラスの小瓶を無造作にロルフに放った。小瓶は一度、ロルフの胸に当たり手の中へと吸い込まれていく。


 変哲もない小瓶の中に入った希望。求め続けた安息。それがロルフの手の中にあった。

 ――お前『だけ』は人間に戻してやる。

 ロルフの胸に膨らんだ未来への思いが、一瞬にして消えてなくなる。シスはどうなる?手の中の小瓶を強く握る。目を閉じて未来への思いをはせるが、今は何も思い浮かばない。


「ロルフ。体液を使って見せてくれ。あれだけ苦労して手に入れたんだ。私もお前が人間に戻るところを見てみたいんだ」


 アルマの声が甘美な誘いのように、ロルフの耳に浸透する。


 ――しかし。


「できない」


 ロルフはそう言うと、アルマに向け小瓶を放った。


 アルマは一瞬、呆けた表情をしていたが、自分の手に収まった小瓶を見ると歯を強く噛みしめた。


「あのお嬢ちゃんがそんなに大事か? そこまで長いつき合いでもないはずだ。この八年間。おまえはいったいどんな気持ちで生きてきたんだ!」


 アルマが感情を吐き出し、ロルフに詰め寄る。そこにいるのは利益を求め合理的に行動するアルマの姿ではなかった。


「ああ、そうだな。元奴隷として旅を続けた八年間、この奴隷の烙印が消えたらどんなにいいかって思ったよ」


「だったら……受け入れろ!」


 アルマの悲痛な叫びが部屋に満ちる。


「何でだろうな……でも今は……」


 ロルフの肩に置かれたアルマの手に力が入る。


「シスに会いたい」


 ロルフはアルマの手を振り払い、扉へと歩んでいく。


「……どこへ行く」


「シスを探しに行く」


「無駄だ。紅い羊は私たちの手を離れた。すでにガンベルツの外へ運び出されて、他の町で競売にかけられているはずだ。その行き先を私は知らない」


 それでもロルフは歩みを止めなかった。部屋の扉に手をかけたとき、アルマは半ば体当たりのようにロルフに覆い被さる。


「絶対に行かせない」


 アルマは手に持ったナイフをロルフの首に突きつけ、激しい呼吸を繰り返していた。


「どうしたんだ。アルマらしくもない。商人は損得しか考えないって言っていたじゃないか。今のおまえは駄々をこねる子供にしか見えない」


 アルマの腕に力が入る。ナイフの切っ先がロルフの首筋に触れ、鮮血が一筋流れた。


「おまえに私の何が分かる!」


 怒号なのか、悲鳴なのか分からない叫び声がロルフの耳をつんざく。


「確かに私は奴隷の烙印は消した。だけどな、いつまで経っても不安は消えないんだ。いつかまた烙印が出てくるんじゃないか。私を元奴隷だと知っている人間が現れるんじゃないか。迫害される日がまたくるんじゃないかって」 


 アルマは口からは滝のように言葉があふれ出る。それはロルフがいつも抱いている感情だった。


「私と……同じ境遇の仲間が欲しい……!」


 アルマは全身の力が抜けたように、ロルフの体を離すと床に突っ伏した。嗚咽を漏らし泣き崩れる様子は歴戦の商人ではなく、ただ一人の孤独な少女の姿だった。


 同じだ。


 奴隷の烙印を消したところで、心に刻まれた傷は癒えることはない。元奴隷は死ぬまで安息はないのだろうか。

 それでも。


「俺はシスを取り戻す」


 足下にすがるアルマには目もくれずにロルフは部屋の外へと出る。


 もしシスに出会う前にアルマに出会っていたら、受け入れてしまったのだろうか。元奴隷であることの傷を舐めあい、怯えながら一生を終えていたのだろうか。今となっては分からない。

 アルマは外に出て行こうとするロルフを涙目で見ると、這うようにして足下にすがる。ナイフをロルフの腰に突きつけた。


「行くのなら。殺す」


 もう、アルマには何を言っても無駄だろう。


「ああ、そうしたいのなら殺してくれ。お前の気が済むのなら」


 アルマのナイフを持つ手が震える。ナイフが手から離れ床に落ちたのと同時に、アルマがロルフからも手を離した。


「くそっ! くそっ!」


 アルマが床を何度も殴り続ける。

 ロルフがあの時感じたこと。


 ――アルマは俺と似ている。


 一緒なんだ。奴隷の烙印は、外側を消しても心に根を張るように蝕んでいく。一生消えることはない呪い。だからこそ、同じ呪いを持つもの同士、寄り添っていたい。傷を舐めあっていたい。


 床に突っ伏したまま、肩を震えさせるアルマを一瞥した時――西の空がいつもよりも赤く燃え上がっている光景が見えた。


 夕焼けだろうか?


 と、窓の外を注意深く見ると、赤く膨れ上がる煙のようなものが見えた。その煙は次第に空を覆いつくさんばかりに膨れ上がり、ガンベルツまでをも飲み込むようにも見えた。

 今まで旅をしてきてこんな夕焼けは見たことない。


 ロルフは部屋を出ると、ルイーゼ商会の人間が驚くのも気にせず外へと飛び出していった。西の空は巨大な山のように、赤い雲がガンベルツを見下ろしていた。

 町の住民も、立ち止まり真っ赤な雲を指さしている。得体のしれない出来事に、逃げるべきなのか迷っている様子だ。


 そうしている間にも、赤い雲はその身を大きく膨らませ、ガンベルツに迫っていた。

 ロルフの胸が鼓動を強める。


 西の方角は先日、紅い羊を取引した小屋がある。わざわざ、東にあるガンベルツに戻るような真似はしないだろう。詳細はわからないが、そのまま西のほうへ紅い羊を運んでいった可能性が高い。


 ロルフは頭で考えるよりも先に、西の方角へと走っていった。


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