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第九話 子守唄

 雪は、三日で消えた。

 最後まで残ったのは、キヨの家の庭の北側、柿の木の根元の日陰だった。

 そこだけ、灰色に汚れた雪が、小さな島のように固まっていた。

 朝、渉が縁側に出ると、その島の表面に、薄い氷が張って、朝日を受けて鈍く光った。


 十二月も、半ばに差しかかっていた。

 この町に来てから、三週間が過ぎようとしている。

 渉は、その数字を、指で数えるように、確かめた。

 二〇二四年の十一月の末・・雨の交差点に立った日から、一九八三年の十二月へ。

 時間の数え方が、もう、よくわからなくなっていた。

 ここでの三週間は、向こうでは、いったい、どれほどの時間なのだろう。

 叔母は、渉が帰ってこないことを、どう思っているのだろう。

 美咲は。

 そういう考えが浮かぶたびに、渉は、それを、胸の奥の、引き出しにしまった。

 引き出しの鍵は、毎夕、五時半に、少しずつ、緩んでいった。


 その日は、水曜日だった。

 珈琲ことぶきは、水曜が定休日だった。

 夕方の四時前、渉は、キヨの家の庭で、薪を割っていた。

 斧の刃が木の目に食い込み、乾いた音を立てて、薪が二つに割れる。

 その音が、冬の空気の中に、よく響いた。


 格子戸が、がらがらと、開いた。

「こんにちはー」

 澄子の声だった。

 渉は、斧を下ろして、顔を上げた。

 門のところに、澄子が立っていた。

 濃い緑のウールのコートに、赤いマフラー。

 両手をコートのポケットに突っ込んで、肩をすくめている。

 吐く息が、白く流れた。


「今日、定休日ですもんね。いるかなと思って」

「どうしたんですか」

「ううん、特に用事ってわけじゃないんですけど」

 澄子は、少し間を置いた。

 視線が、右上に動く。

「・・散歩、しませんか。川沿い」

 渉は、一瞬、言葉を失った。

 それから、斧を、薪割り台の脇に立てかけた。

「はい。ぜひ」


 縁側から、キヨが、顔を出した。

「行っといで。薪は、あとでいいよ」

「すみません」

「すみませんは、いらないって言ってるでしょ。ほら、これ、持っていきな」

 キヨは、台所から、何かを持ってきた。

 新聞紙に包まれた、小さな包みだった。

「干し柿。軒先のが、ちょうどいい塩梅になったから」

 渉は、それを受け取った。

 ほんのり甘い、柿の香りが、新聞紙越しに漂った。

「ありがとうございます」

「澄子ちゃんと、半分こしな」

 キヨは、それだけ言って、奥へ引っ込んだ。

 澄子は、その背中を見送って、くすりと笑った。


 商店街のアーケードを抜けて、川沿いの道へ向かった。

 夕方の光は、もう、低かった。

 西の空が、橙から、薄い紫へと、ゆっくり色を変えていく。

 アーケードの影が、石畳の上に長く伸びている。

 豆腐屋の前を通ると、店先で、ご主人が、桶の水を替えていた。

 冷たそうな水が、石畳に、きらきらと広がった。

 魚屋の前では、おかみさんが、売れ残った魚を、新聞紙に包んで、近所の猫に分けていた。

 遠くから、声が聞こえた。

「いーしやーきいもー、おいもー」

 長く伸びる、少し嗄れた男の声だった。


 やがて、角の向こうから、軽トラックが、ゆっくりと現れた。

 荷台に、黒い大きな釜が据えられている。

 煙突から、白い煙が立ち昇っていた。

 焼き芋の、甘い匂いが、冬の空気の中に、ふわりと広がった。

「あ、焼き芋」

 澄子が、目を輝かせた。

「買っちゃおうかな」

「買いましょう。僕が」

「いいんですか」

「この前の、お返しです」


 渉は、軽トラックを、手を挙げて、止めた。

 運転席から、帽子をかぶった初老の男が、にこにこと顔を出した。

「いらっしゃい。どれにする」

「大きいの、二本ください」

 新聞紙に包まれた焼き芋が、渉の手に渡された。

 ずしりと重く、熱かった。

 掌から、じんわりと、温もりが染みてくる。

「百五十円」

 渉は、財布から、小銭を数えた。

 ここで稼いだ金だった。

「毎度あり」

 軽トラックが、また、ゆっくりと走り出した。

「いーしやーきいもー」という声が、冬の夕暮れの中に、遠ざかっていく。


 澄子が、一本を、渉から受け取った。

「あったかい」

 彼女は、新聞紙の端を、そっとめくった。

 湯気が、白く立ち昇った。

 皮の隙間から、黄金色の身が、艶やかに覗いている。

「いただきます」

 澄子は、一口、かじった。

「うわ、甘い」

 目が、ぱっと見開かれた。

「おいしい。渉さんも、食べてみて」

 渉は、自分の分を、かじった。

 熱い。

 甘い。

 ほくほくとして、舌の上で、とろけた。

 皮の焦げた香ばしさが、鼻の奥に抜けていく。


 懐かしい味だった。

 叔母の家で、冬になると、よく、食べた。

 火鉢の灰の中に、新聞紙とアルミホイルで包んだ芋を埋めて、じっくりと焼いた。

 叔母は、焼き上がると、火箸で、灰の中から、ゴロリと取り出して、「熱いよ、気をつけて」と、渉に渡してくれた。

 その手の温かさと、焼き芋の熱さが、渉の中で、ひとつになった。

「おいしいですね」

「ね。冬は、これだよね」

 二人は、焼き芋を食べながら、川沿いの道へ向かって歩いた。


 川沿いの道は、静かだった。

 雪が溶けた後の遊歩道は、まだ、少し湿っていた。

 柳の枯れ枝が、川風に揺れている。

 水面は、夕焼けを映して、鈍い金色に光っていた。

 対岸の工場の煙突が、空に向かって、黒く立ち上がっている。

 その先端から、白い煙が、ゆっくりと昇っている。

 工場の窓には、もう、灯りがともり始めていた。

 遊歩道に沿って、街灯が並んでいた。

 柱の先に、裸電球が、一つずつ、ぶら下がっている。

 笠のない、むき出しの電球が、夕暮れの中で、ぼうっと、橙色に灯り始めた。

 灯りの周りに、細かな塵が、金色に舞っている。


 橋の欄干に、自転車が一台、立てかけてあった。

 カゴに、買い物袋が入っている。

 白菜の葉が、袋の口から、覗いていた。

 持ち主は、橋のたもとで、近所の人と、立ち話をしている。

 そういう、ささやかな風景のひとつひとつが、冬の夕暮れの色に、染まっていた。


 澄子は、ポケットに、両手を入れて、歩いていた。

 赤いマフラーが、風に揺れる。

 コートの裾が、足の動きに合わせて、ふわり、ふわりと広がる。

 吐く息が、白く、夕空に溶けていく。

 渉は、その半歩後ろを、歩いた。

 二人とも、しばらく、黙っていた。

 それは、居心地の悪い沈黙ではなかった。

 川の水音と、遠くの工場の低い唸りと、自分たちの足音。

 そういうものが、沈黙の隙間を、柔らかく埋めている。


「渉さん」

 澄子が、口を開いた。

「この町、好きですか」

「はい」

 渉は、即座に答えた。

「とても」

「どういうところが?」

「・・静かなところ、でしょうか。夕方になると、灯りが、ひとつずつ点いて。人の声が、遠くから聞こえて。ここに来て、ずっと、ほっとしています」

「よかった」

 澄子は、嬉しそうに笑った。

「私も、この町、好きなんです。生まれたところだから、っていうのもあるけど」

「ずっと、ここに?」

「うん。ずっと。・・でも、いつか、どこか遠くに行きたいなって、思うこともあって」

 彼女は、遠くを見るような目をした。

「でも、結局、ここに戻ってきちゃう気がする。ここが、いちばん、落ち着くから」


 渉は、その横顔を、見つめた。

 夕日が、澄子の頬を、橙に染めていた。

 睫毛の影が、頬に、細く落ちている。

 ふと、澄子が、鼻歌を歌い始めた。

 最初は、聞こえないほどの、小さな音だった。

 風に紛れてしまいそうな、唇の隙間から漏れる、柔らかな旋律。

 ふん、ふ、ふふーん。

 ふん、ふ、ふふーん。

 ゆっくりとした、穏やかな調子だった。

 一定の拍子で、ゆらり、ゆらりと、揺れるような。

 澄子は、自分が歌っていることに、気づいていないようだった。

 ポケットに手を入れたまま、足元の石畳を見つめて、歩きながら、ただ、鼻歌を歌っていた。


 渉は、最初、聞き流していた。

 誰でも、歩きながら、鼻歌を歌うことはある。

 そういう、何気ない音の一つだと思って、川の水音と、一緒に、耳に流れ込ませていた。

 けれど。

 三小節目に入った、その瞬間だった。

 渉の足が、止まった。

 知っている、と思った。

 頭ではなかった。

 記憶ではなかった。

 言葉でも、映像でもない。

 もっと古い、もっと深いところにある、何か。

 体の奥の、骨の髄に刻まれた、何か。


 この旋律を、知っている。

 渉は、動けなかった。

 澄子は、渉が足を止めたことに気づかず、数歩、先へ進んだ。

 鼻歌は、続いている。

 ふん、ふ、ふふーん。

 ふん、ふ、ふふーん。

 その音が、渉の胸の奥の、閉ざされた扉を、静かに叩いた。


 暗い部屋だった。

 先日の夜の、あの感覚が、蘇った。

 毛糸の感触。

 石鹸の匂い。

 ゆっくりと揺れる、温かな胸。

 けれど、今度は、それだけではなかった。

 音が、あった。

 頭の上から、降ってくる音。

 喉の奥で震える、低い、柔らかな、旋律。

 胸の骨を通して、直接、耳に響いてくる声。


 ふん、ふ、ふふーん。

 ふん、ふ、ふふーん。

 その音が、揺れの拍子に、ぴたりと重なっていた。

 右へ、左へ。

 ゆらり、ゆらり。

 闇の中で、小さな体を、大きな温もりが、包んでいる。

 目を閉じていても、世界が、安全だとわかる。

 この音がある限り、何も、怖くない。


 子守唄だった。

 渉は、喉の奥が、熱くなるのを、感じた。

 澄子の鼻歌が、一つの句の終わりに、差しかかろうとしていた。

 旋律が、ふっと、途切れた。

 澄子が、歌うのを、やめた。

 その瞬間、渉の唇が、動いた。

 自分の意志ではなかった。

 体が、勝手に、動いていた。

 渉の喉から、小さな、かすれた声が、漏れた。

 ・・ふ、ふーん、ふ、ふふ。

 途切れた旋律の、続きだった。

 澄子が、まだ歌っていない、その先の音。

 誰にも、聞かせたことのない、その旋律の、続き。


 渉は、自分が歌っていることに、気づいて、はっとして、口を閉じた。

 けれど、遅かった。

 澄子が、立ち止まっていた。

 川沿いの道の、裸電球の下で、澄子は、凍りついたように、動かなかった。

 ゆっくりと、振り返った。

 その顔から、笑みが、消えていた。

 大きな目が、見開かれている。

 唇が、わずかに、開いたまま。

 夕日の橙が、その頬を、静かに照らしていた。


「・・今」

 澄子の声が、かすれていた。

「今、歌いましたよね」

「あ、いえ」

「歌いましたよね。続き」

 渉は、何も、言えなかった。

「どうして」

 澄子が、一歩、近づいた。

「どうして、この歌、知ってるんですか」

 川の水音が、遠くで、鳴っていた。

 裸電球の灯りが、風で、わずかに揺れた。

「私が、作った歌なんです」

 澄子は、言った。

「小さい頃から、ひとりで、口ずさんでた。誰にも、教えてない。母にも、友達にも、聞かせたことない。ひとりのときにしか、歌わない歌なんです」

 その声が、震えていた。

「なのに、どうして、渉さんが、続きを」


 渉は、口を開いた。

 けれど、声が、出なかった。

 何を、言えばいいのか、わからなかった。

 本当のことを、言うわけにはいかなかった。

 あなたが、将来、僕を産んで、毎晩、この歌を、歌ってくれるのだと。

 そんなことを、言えるはずがない。

 けれど、嘘も、つけなかった。


「・・わかりません」

 渉は、やっとの思いで、言った。

「わからないんです。ただ、聞いた瞬間に、知っている、と思って」

「知っている」

「ええ。どこで、とか、いつ、とか、そういうことは、全然、思い出せないんですけど。体が、勝手に」

 渉は、自分の胸に、手を当てた。

「ここが、知っているんです」


 澄子は、じっと、渉を見つめていた。

 大きな目が、揺れていた。

 何かを、探しているようだった。

 渉の顔の中に、何か、見覚えのあるものを、探しているようだった。

 長い、長い、沈黙が、流れた。


 やがて、澄子は、ふっと、息を吐いた。

「・・不思議」

 彼女は、小さく、首を振った。

「ほんとに、不思議。なんだか、すごく、変な感じ。怖いはずなのに、怖くない」

「澄子さん」

「あのね、渉さん」

 澄子は、少し、笑った。

 目から先に、笑った。

 その目の端が、潤んでいた。


「私、さっき、渉さんが歌ったのを聞いて、すごく、嬉しかったんです。なんでかわからないけど、ずっと、誰かに、聞いてもらいたかった気がして」

 渉の目の奥が、熱くなった。

「ごめんなさい。変なこと、言って」

「いえ」

 渉は、首を横に振った。

「変じゃないです」

「そっか」

 澄子は、少し、うつむいた。

 それから、また、歩き出した。

「行きましょう。暗くなっちゃう」

 渉は、その後ろを、ついていった。

 もう、澄子は、鼻歌を歌わなかった。

 二人は、無言で、川沿いの道を歩いた。

 夕日は、すっかり沈み、空は、深い藍色に変わっていた。

 裸電球の灯りが、ひとつ、またひとつと、闇に浮かび上がる。

 対岸の工場の窓が、橙の点になって、川面に揺れていた。

 橋のたもとで、澄子は、立ち止まった。


「じゃあ、ここで」

「送ります」

「ううん、今日は、いい。ひとりで、帰りたい気分なの」

 澄子は、渉を見上げた。

「怒ってるとかじゃないんです。ただ、なんだか、胸がいっぱいで」

「はい」

「また、明日、ことぶきで」

「はい。また、明日」

 澄子は、小さく手を振って、橋を渡っていった。

 その背中が、街灯の灯りの輪を、ひとつ、またひとつと、通り過ぎていく。

 赤いマフラーが、闇の中で、少しだけ、明るかった。

 渉は、橋のたもとに、立ち尽くしていた。

 川の水音が、足元から、聞こえてくる。


 キヨの家に帰ったのは、夜の八時を過ぎていた。

 夕食は、断った。

 腹が、まったく、空いていなかった。

 キヨは、何も言わずに、握り飯を二つ、盆に載せて、二階の部屋の前に置いてくれた。

 六畳間の電灯は、消したままだった。

 窓の外の、青白い月明かりだけが、畳に、四角い光を落としている。

 石油ストーブの小さな炎が、橙の点になって、揺れていた。


 渉は、布団の上に、胡坐をかいて、座っていた。

 目を閉じる。

 すると、あの旋律が、蘇った。

 ふん、ふ、ふふーん。

 ふん、ふ、ふふーん。

 その音が、頭の中で、ゆっくりと、繰り返された。


 暗い部屋。

 温かな胸。

 ゆっくりと揺れる体。

 頭の上から降ってくる、低い、柔らかな声。

 その声は、いつも、同じ人のものだった。

 渉は、その声を、知っていた。

 今日、川沿いの道で聞いた、澄子の鼻歌と、同じ声だった。

 同じ旋律。

 同じ温もり。

 同じ、揺れの拍子。


 渉は、膝の上で、拳を握りしめた。

 ・・この人が、母だ。

 その言葉が、静かに、胸の奥から、浮かび上がってきた。

 頭で、考えたのではなかった。

 論理で、導いたのでもなかった。

 体が、先に、知っていた。

 三十八年間、閉ざされていた扉が、音もなく、開いた。

 その向こうに、光があった。

 温かく、懐かしく、崩れるような、光だった。


 渉は、喉の奥から、嗚咽が、込み上げてくるのを、感じた。

 声を殺そうとしたが、できなかった。

 肩が、震えた。

 熱いものが、頬を伝って、落ちた。

 母だ。

 あの人が、母だ。

 位牌に刻まれた、その名前を、渉は、何度も、仏壇の前で、見つめた。

 けれど、それは、ただの文字だった。

 ただの、記号だった。

 今、その名前に、声がついた。

 笑顔がついた。

 体温がついた。

 匂いがついた。

 佐々木澄子は、生きていた。

 本が好きで、焼き芋をおいしそうに食べて、母の編んだセーターを着て、芦原静雄の話をして、目から先に笑う、二十三歳の女性として。

 そして、渉を産み、渉に子守唄を歌って、渉が三歳のとき、雨の交差点で、いなくなる人として。


 渉は、両手で、顔を覆った。

 指の隙間から、涙が、止めどなく、溢れた。

 嬉しかった。

 悲しかった。

 怖かった。

 全部が、同時に、胸の中で、渦を巻いていた。

 どれが、どの感情なのか、もう、わからなかった。

 ただ、温かく、熱く、胸の奥が、崩れていくようだった。


 やっと、会えた、と思った。

 三十八年、探していたものに、やっと。

 それから、別の考えが、頭をもたげた。

 ・・あの人は、まだ、何も知らない。

 自分が、誰なのか。

 どこから来たのか。

 三年後に、何が起きるのか。

 あの人は、何も、知らないで、笑っている。


 渉は、歯を、食いしばった。

 言えない。

 絶対に、言ってはいけない。

 それが、時間というものの、掟なのだと、渉は、直感した。

 けれど、言えない、その重さが、渉の胸を、じりじりと、押しつぶしていった。


 窓の外で、風が出てきたらしい。

 柿の枯れ枝が、ガラスに触れて、こつ、こつ、と鳴った。

 階下から、足踏みミシンの音が、聞こえてきた。

 かたかた、かたかた。

 その音に、渉の嗚咽が、静かに、溶けていった。


 どれほどの時間が、経っただろう。

 涙が、ようやく、止まった。

 渉は、袖で、顔を拭った。

 それから、のろのろと、盆の上の握り飯に、手を伸ばした。

 冷えた飯が、ほんのり、塩の味がした。

 中に、梅干しが入っていた。

 酸っぱくて、涙腺が、また、緩みかけた。

 それでも、渉は、ゆっくりと、食べた。

 一口、一口、噛みしめるように。


 母が、生きている。

 その事実を、体が、受け入れようとしていた。

 布団に入って、天井を見上げた。

 月明かりが、障子に、ぼんやりと、滲んでいた。

 明日、五時半に、ことぶきへ行く。

 澄子に、会う。

 どんな顔を、すればいいのだろう。

 渉は、考えた。

 けれど、答えは、出なかった。

 目を閉じると、あの旋律が、また、聞こえた。

 ふん、ふ、ふふーん。

 ふん、ふ、ふふーん。

 ゆらり、ゆらり。

 渉は、その音に、身を委ねた。

 母の声の中で、眠りに落ちていく、小さな子どもに、戻ったような気がした。

 夜は、静かに、更けていった。

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