第八話 匂いと安心感
十二月に入って、最初の本物の寒波が来た。
朝、キヨの家の縁側の外では、庭の水鉢に厚い氷が張っていた。
柿の枯れ枝が白く凍り、石灯籠の笠の上に、霜柱が小さな森のように立っている。
渉が薪を抱えて裏口へ回ると、足の下で、霜柱がさくさくと崩れた。
「今日は冷えるよ。あんた、そんな薄いコートで行くのかい」
台所の戸口から、キヨが顔を出した。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないから言ってるの」
老婆は、いったん奥へ引っ込み、すぐに何かを抱えて戻ってきた。
「これ、死んだ亭主の古い襟巻きだ。毛玉だらけだけど、首に巻くぶんには役に立つ」
渡されたのは、鼠色の厚い毛糸のマフラーだった。
広げると、樟脳と、古い箪笥の木の匂いがした。
渉はそれを、首にぐるりと二重に巻いた。
「ありがとうございます」
「礼はいいから、風邪だけはひかないでおくれ」
そう言って、キヨは背を向けた。
割烹着の背中が、前よりも少し小さく見えた。
夕方の商店街は、歳末の気配で浮き足立っていた。
アーケードの梁から、赤と緑の紙の飾りが吊り下げられている。
電器屋の店先では、ブラウン管のテレビが十台ばかり並んで、同じ歌番組を、少しずつ違う色合いで映していた。
どの画面でも、同じ女性歌手が、同じ振りで、同じ口の形をしている。
通りかかる人々が、足を止めては、並んだ画面を見上げていた。
レコード屋の前から、有線放送が流れていた。
ゆるやかなテンポで、女性が歌っていた。
中森明菜の「セカンド・ラブ」だった。
渉は、その曲名を、後年の知識として知っていた。
けれど、いま耳に届いているのは、教科書の中の曲ではなく、発売されたばかりの、この冬の歌だった。
ハスキーな声が、アーケードの天井に反響して、行き交う人々の足音に混ざっていく。
渉は、歩調を緩めて、その声を聞いた。
切なげで、少し擦れていて、けれどどこか芯のある声だった。
・・この声が、澄子さんも、好きなのだろうか。
そう考えてから、渉は、自分が澄子のことばかり考えていることに、気づいた。
珈琲 ことぶき。
小豆色の庇の下で、渉はマフラーを緩めた。
扉の曇りガラスが、橙の光に染まっている。
からん、と鈴を鳴らして中へ入ると、石油ストーブの熱と、焙煎の匂いが、全身を包んだ。
「いらっしゃい」
マスターが、カウンターの中から、軽く顎を引いた。
窓際の席に、澄子はまだ来ていなかった。
壁の丸時計は、五時二十分。
渉は、自分たちの席に座り、窓の外の街灯を眺めた。
ガラスが、冷気で白く曇っていた。
指先で、小さな円を拭うと、濡れた路地と、街灯の灯りの輪が、にじんで見えた。
五時半を、数分過ぎたころだった。
からん、と鈴が鳴った。
「ごめんなさい、遅くなっちゃった」
澄子が、頬を真っ赤にして飛び込んできた。
息が白い。
前髪が風に乱れて、額にはりついている。
鼻の頭まで赤くなっていた。
「走ってきたんですか」
「はい、残業になりそうだったのを、無理やり切り上げて」
彼女は笑いながら、マフラーをほどいた。
その日の澄子は、薄い桃色の、毛糸のセーターを着ていた。
胸元に、白い雪の結晶の模様が、ぐるりと編み込まれている。
手編みらしく、編み目がわずかに不揃いで、それが、却って、柔らかな温かさを感じさせた。
「それ、素敵ですね」
渉は、思わず言った。
「あ、これ? 母が編んでくれたの。去年の冬に」
「お母さんが」
「うん。不器用だから、袖の長さが左右でちょっと違うんだけど」
澄子は、右の袖を、ひょいと持ち上げて見せた。
確かに、左より、指の第一関節ぶんほど長かった。
「でも、着てると温かいんです。母の手の温もりが、残ってるみたいで」
渉は、その言葉を、胸の奥で、静かに繰り返した。
母の手の温もり。
渉には、決して知り得ないものだった。
席に着くと、澄子は、大きく息をついて、コートを椅子の背に掛けた。
そのとき、ふわりと、空気が動いた。
匂いが、した。
石鹸の匂いだった。
牛乳石鹸の、赤い箱の、あの優しい香りに近い。
そこに、毛糸のセーターの、微かな羊毛の匂いと、外の冷たい風の匂いが混ざっている。
そして、その奥に、ごく淡い、温かい、人の肌の匂いがあった。
渉は、動けなくなった。
胸の奥が、突然、軋んだ。
痛みではなかった。
もっと、深い場所で、何かがほどけかけるような、不思議な感覚だった。
呼吸が、浅くなった。
指先が、カップの縁に触れたまま、止まっていた。
「渉さん?」
澄子の声が、遠くで聞こえた。
「あ、はい」
「どうかしました? 顔色が、ちょっと」
「いえ、大丈夫です。少し、寒くて」
「ほら、やっぱり。そのマフラー、薄くないですか」
「これは、キヨさんが貸してくれて」
「あ、高橋さんの旦那さんの。ああ、きっと、大事にしてたものですよ」
澄子は、屈託なく笑った。
渉も、笑い返そうとした。
けれど、うまく、笑えたかどうか、わからなかった。
その夜、二人は、いつもより少し長く、ことぶきにいた。
外では、いつの間にか、粉雪が舞い始めていた。
窓ガラスの向こうで、街灯の光を受けた細かな雪が、斜めに流れていく。
路地の石畳は、うっすらと白くなりかけて、それでも、まだ、濡れた黒が、所々に覗いていた。
「雪、降ってきましたね」
「ええ」
「初雪かな」
「たぶん」
澄子は、窓に額を寄せて、外を眺めた。
その横顔を、渉は、見ないふりをして、見ていた。
睫毛が長い。
頬の線が、まだ少女のように丸い。
耳たぶに、小さな産毛が、ストーブの光を受けて、金色に光っていた。
そういう細部のひとつひとつが、渉の目の奥に、焼きついていく。
見てはいけない、と思った。
見ていたい、とも、思った。
その二つの感情が、胸の中で、ぶつかり合い、渉は、手元のカップを、ただ握りしめていた。
「帰りましょうか」
澄子が、言った。
「雪、積もったら、大変ですから」
「そうですね」
二人は、席を立った。
マスターに、軽く頭を下げて、扉を開ける。
からん、と鈴が鳴った。
外気が、頬を叩いた。
息が、白く、夜の闇に昇った。
粉雪が、睫毛の先に触れて、すぐ溶けた。
街灯の灯りの輪の中に、細かな白い粒が、無数に舞っている。
澄子は、傘を持っていなかった。
「傘、ないんですか」
「だって、雪だと思わなくて」
彼女は、笑って、マフラーを頭からかぶった。
二人は、並んで歩き出した。
路地を抜けて、川沿いの道に出る。
橋の上は、風が強かった。
川面を渡ってくる冷気が、真正面から、顔に吹きつけた。
街灯の下で、雪が横殴りに流れている。
「寒い寒い寒い」
澄子が、肩をすくめた。
その瞬間、強い風が、澄子のマフラーをさらった。
長い毛糸のマフラーが、ふわりと夜空へ舞い上がった。
澄子が「あっ」と声を上げて、手を伸ばした。
渉は、反射的に、手を伸ばして、その端を掴んだ。
「ありがとう!」
渉は、マフラーを、澄子の首に、巻き直した。
そのとき、距離が、ひどく近くなった。
街灯の光の下で、澄子の顔が、数センチの距離にあった。
睫毛に雪の粒がついて、きらきら光っている。
頬が赤い。
吐く息が、白く、渉の顎にかかった。
そして、また、あの匂いが、した。
石鹸の匂い。
羊毛の匂い。
肌のぬくもり。
その匂いが、渉の胸の中へ、まっすぐに、流れ込んできた。
・・暗い部屋だった。
映像ではなかった。
光もなかった。
音も、ほとんどなかった。
ただ、闇の中に、温かい重さが、あった。
誰かの胸に、頬を押しつけている。
毛糸のようなざらざらした感触が、頬に当たっている。
そのざらざらの向こうに、とくん、とくん、と、規則正しい鼓動がある。
ゆっくりと、体が揺れていた。
右へ、左へ。
ゆりかごのように、ゆるやかに。
石鹸の匂いと、ミルクの匂い。
冷えた夜の空気の中で、その一点だけが、温かかった。
誰かが、何かを言っている。
言葉にならない、小さな、低い音。
喉の奥で、震えているような。
安心だった。
世界のすべてが、ここにあると思えるほどの、安心だった。
「渉さん?」
声が、遠くで、した。
渉は、目を開けた。
橋の上だった。
粉雪が、街灯の光の中で、横に流れている。
目の前に、澄子の顔があった。
心配そうに、眉を寄せて、渉を見上げている。
「どうしたんですか。急に、動かなくなって」
「あ」
渉は、慌てて、手を離した。
「すみません。ぼうっとしていました」
「風、強いですもんね。寒さで、頭が働かなくなっちゃったのかな」
澄子は、マフラーを、きゅっと結び直して、笑った。
「ありがとう、拾ってくれて」
「いえ」
渉は、手を、ポケットに突っ込んだ。
その手が、震えていた。
寒さのせいだ、と、自分に言い聞かせた。
橋を渡りきった先で、澄子は、立ち止まった。
「じゃあ、私、ここで」
「送りますよ。雪も降ってるし」
「ううん、すぐそこだから。大丈夫です」
彼女は、片手を上げた。
「また、明日」
「はい。また、明日」
澄子は、小走りに、雪の中を駆けていった。
桃色のセーターの背中が、街灯の輪をひとつ、ふたつと通り抜けて、やがて、雪の闇に、溶けた。
渉は、その場に、しばらく、立ち尽くしていた。
帰り道は、いつもより長く感じられた。
銭湯の煙突が、路地の向こうに見えた。
白い湯気が、夜空に向かって、ゆっくりと昇っている。
雪が、その湯気の中に溶けていく。
暖簾の向こうから、洗面器のかたかた鳴る音と、笑い声が漏れてきた。
渉は、足を止めて、その光景を見た。
湯上がりの人々が、頬を赤くして、暖簾をくぐって出てくる。
手拭いを首にかけた男。
濡れ髪を結い上げた女。
小さな子どもが、母親の手を握って、牛乳の空き瓶を大事そうに抱えている。
その子が、母親を見上げて、何かを言った。
母親が、屈んで、その子の頭を撫でた。
渉は、目を逸らした。
胸が、痛かった。
さっきの記憶が、まだ、体の奥に、残っていた。
暗い部屋。
毛糸の感触。
石鹸の匂い。
ゆっくりと揺れる、温かい胸。
あれは、何だ。
渉は、歩きながら、自分に問うた。
三歳の頃の記憶なのだろうか。
いや、三歳の頃の記憶は、映像にならない。
けれど、映像にならないからこそ、体のどこかに、匂いと温度だけが、残っているのかもしれない。
・・母だ。
そう思いかけて、渉は、慌てて、その考えを、打ち消した。
違う。
そんなはずはない。
あれは、ただの、気のせいだ。
寒さと疲れで、頭がぼんやりしていたから、変な錯覚を見ただけだ。
それに、石鹸の匂いなんて、どこにでもある。
牛乳石鹸も、毛糸のセーターも、この時代には、どこの家にもある。
懐かしい匂いというだけだ。
叔母の家の匂いと、重なっただけだ。
そう、自分に言い聞かせた。
けれど、言い聞かせれば言い聞かせるほど、胸の奥が、きしんだ。
もうひとつの考えが、頭をもたげた。
・・恋、なのか。
渉は、足を止めた。
街灯の下で、雪が、肩に積もっていた。
そうなのかもしれない。
澄子の笑顔を見ると、胸が温かくなる。
澄子の声を聞くと、体がほどける。
澄子のそばにいると、安心する。
会っていない時間は、夕方の五時半が来るのを、ただ、待っている。
それは、恋の症状だった。
編集者として、恋愛小説を、いくつも手がけてきた。
恋に落ちた人間が、どういう描かれ方をするかを、渉は、よく知っていた。
ああ、そうか、と、思った。
俺は、恋をしているのか。
その解釈は、不思議なほど、すとんと、腑に落ちた。
落ちて、そして、渉は、少しだけ、ほっとした。
安心の正体に、名前がついた。
名前がつけば、怖くない。
恋ならば、ありふれた感情だ。
誰にでも起こる、普通のことだ。
説明のつかない、深い、底の見えない何かではなく。
そう思って、渉は、歩き出した。
けれど、その足取りは、どこか、頼りなかった。
恋だとして、相手は、誰だ。
佐々木澄子。
二十三歳の、本が好きな、目から先に笑う女性。
そして、その名前は、仏壇の位牌に刻まれた、小さな文字と、同じだった。
渉は、その事実から、目を逸らした。
意識して、考えないようにした。
これは、恋だ。
ただの、恋だ。
そう繰り返しながら、渉は、キヨの家の格子戸の前に、辿り着いた。
格子戸を引くと、がらがらと、乾いた音がした。
三和土に、雪の水が、点々と落ちた。
「おかえり」
奥から、キヨの声がした。
「雪かい。降ってきたんだね」
「はい。初雪みたいです」
「そりゃ冷えるはずだ。風呂、沸いてるよ。入っといで」
「ありがとうございます」
渉は、マフラーを外して、玄関の鴨居の釘に掛けた。
キヨの亭主の、古いマフラー。
そこに、渉の肩から払い落とした雪の粒が、小さな水玉になって、ゆっくりと、毛糸に染み込んでいった。
風呂場は、湯気が立ち込めていた。
木の浴槽に、湯がたっぷりと張られている。
薪で焚いた湯の匂いは、やわらかく、少しだけ煙の香りがした。
渉は、体を沈めた。
熱い湯が、冷え切った手足を、じんわりと包み込む。
深い息が、口から漏れた。
湯気の向こうの、木枠の窓に、結露が流れていた。
外の雪の音は、聞こえない。
聞こえるのは、湯が、ちゃぽん、と揺れる音だけだった。
渉は、湯の中で、自分の両手を見つめた。
この手が、さっき、澄子のマフラーを掴んだ。
その指先に、まだ、毛糸の感触が、残っているような気がした。
湯から上がると、居間の炬燵に、夕食の支度ができていた。
大根と油揚げの煮物。
白菜の漬物。
焼き魚。
温かい味噌汁。
キヨは、黙って、渉の茶碗に、飯をよそった。
「あんた、今日は、いつもより、静かだね」
「そうですか」
「うん。何かあったのかい」
渉は、箸を持ったまま、少し考えた。
「いえ。雪が、きれいだったので」
「そうかい」
キヨは、それ以上、何も聞かなかった。
その沈黙が、有り難かった。
夕食の後、二階の六畳間に上がった。
窓の外では、雪が、本降りになっていた。
木枠のすりガラスの向こうが、ぼんやりと白く光っている。
部屋の隅の石油ストーブが、青い炎を小さく揺らしていた。
渉は、布団を敷いた。
湯たんぽを、足元に入れる。
掛布団の下は、少しずつ、温かくなっていった。
電灯を消すと、窓の雪明かりが、天井に、淡い青白さを落とした。
渉は、仰向けになって、その光を見つめた。
眠れなかった。
目を閉じると、あの匂いが、蘇った。
石鹸の匂い。
羊毛の匂い。
人の肌の、温かい匂い。
ゆっくりと揺れる、闇の中の温もり。
枕元に置いた、一冊の文庫本に、手を伸ばした。
澄子がくれた、『河口のひと』。
表紙を、指でなぞった。
紙の、ざらついた感触。
それから、ふと、昼間の記憶が、浮かんだ。
仏壇の前に座った、あの朝。
小さく古い、二枚の遺影。
父の写真は、色褪せていた。
母の写真は、表情が、よくわからなかった。
滲んだ輪郭の中に、ぼんやりと、女の人の顔があった。
その顔を、渉は、頭の中に、思い浮かべようとした。
輪郭だけの、母の顔。
少し、丸い頬。
肩のあたりで、切りそろえられた髪。
その輪郭の中に、ゆっくりと、別の顔が、重なっていった。
睫毛の長い、頬の赤い、雪の粒をつけた、横顔。
目から先に笑う、あの笑顔。
渉は、息を詰めた。
重なった、と思った。
遺影の輪郭と、澄子の横顔が、静かに、一つになろうとしていた。
その瞬間、渉は、考えるのを、やめた。
その先を、考えてはいけない、と思った。
まだ、早い。
まだ、何も、確かめていない。
恋だ、と、渉は、もう一度、自分に言い聞かせた。
これは、恋なのだ。
それだけのことだ。
雪が、窓の外で、音もなく、降り続けていた。
階下で、キヨの足踏みミシンが、かたかたと鳴り始めた。
規則正しい、小さな音。
その音は、板の間を伝って、渉の布団の下まで、静かに届いた。
かたかた、かたかた。
渉の瞼が、少しずつ、重くなった。
湯たんぽの温もりが、足先から、体の芯へと、広がっていく。
眠りに落ちる、その直前、渉は、ぼんやりと、思った。
明日も、五時半に、ことぶきへ行く。
あの匂いに、また、会える。
それが、嬉しい。
それが、怖い。
その二つの気持ちを、一緒に抱えたまま、渉は、深い眠りの中へ、沈んでいった。
窓の外では、初雪が、音もなく、町を白く染めていた。
灯りの消えた商店街にも、銭湯の煙突にも、川にかかる橋にも、そして、小さな交差点にも。
雪は、静かに、静かに、降り積もっていった。




