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8/21

第八話 匂いと安心感

 十二月に入って、最初の本物の寒波が来た。

 朝、キヨの家の縁側の外では、庭の水鉢に厚い氷が張っていた。

 柿の枯れ枝が白く凍り、石灯籠の笠の上に、霜柱が小さな森のように立っている。

 渉が薪を抱えて裏口へ回ると、足の下で、霜柱がさくさくと崩れた。


「今日は冷えるよ。あんた、そんな薄いコートで行くのかい」

 台所の戸口から、キヨが顔を出した。

「大丈夫です」

「大丈夫じゃないから言ってるの」


 老婆は、いったん奥へ引っ込み、すぐに何かを抱えて戻ってきた。

「これ、死んだ亭主の古い襟巻きだ。毛玉だらけだけど、首に巻くぶんには役に立つ」

 渡されたのは、鼠色の厚い毛糸のマフラーだった。

 広げると、樟脳と、古い箪笥の木の匂いがした。

 渉はそれを、首にぐるりと二重に巻いた。

「ありがとうございます」

「礼はいいから、風邪だけはひかないでおくれ」

 そう言って、キヨは背を向けた。

 割烹着の背中が、前よりも少し小さく見えた。


 夕方の商店街は、歳末の気配で浮き足立っていた。

 アーケードの梁から、赤と緑の紙の飾りが吊り下げられている。

 電器屋の店先では、ブラウン管のテレビが十台ばかり並んで、同じ歌番組を、少しずつ違う色合いで映していた。

 どの画面でも、同じ女性歌手が、同じ振りで、同じ口の形をしている。

 通りかかる人々が、足を止めては、並んだ画面を見上げていた。


 レコード屋の前から、有線放送が流れていた。

 ゆるやかなテンポで、女性が歌っていた。

 中森明菜の「セカンド・ラブ」だった。

 渉は、その曲名を、後年の知識として知っていた。

 けれど、いま耳に届いているのは、教科書の中の曲ではなく、発売されたばかりの、この冬の歌だった。

 ハスキーな声が、アーケードの天井に反響して、行き交う人々の足音に混ざっていく。

 渉は、歩調を緩めて、その声を聞いた。

 切なげで、少し擦れていて、けれどどこか芯のある声だった。

 ・・この声が、澄子さんも、好きなのだろうか。

 そう考えてから、渉は、自分が澄子のことばかり考えていることに、気づいた。


 珈琲 ことぶき。

 小豆色の庇の下で、渉はマフラーを緩めた。

 扉の曇りガラスが、橙の光に染まっている。

 からん、と鈴を鳴らして中へ入ると、石油ストーブの熱と、焙煎の匂いが、全身を包んだ。

「いらっしゃい」

 マスターが、カウンターの中から、軽く顎を引いた。

 窓際の席に、澄子はまだ来ていなかった。


 壁の丸時計は、五時二十分。

 渉は、自分たちの席に座り、窓の外の街灯を眺めた。

 ガラスが、冷気で白く曇っていた。

 指先で、小さな円を拭うと、濡れた路地と、街灯の灯りの輪が、にじんで見えた。


 五時半を、数分過ぎたころだった。

 からん、と鈴が鳴った。

「ごめんなさい、遅くなっちゃった」

 澄子が、頬を真っ赤にして飛び込んできた。

 息が白い。

 前髪が風に乱れて、額にはりついている。

 鼻の頭まで赤くなっていた。

「走ってきたんですか」

「はい、残業になりそうだったのを、無理やり切り上げて」

 彼女は笑いながら、マフラーをほどいた。


 その日の澄子は、薄い桃色の、毛糸のセーターを着ていた。

 胸元に、白い雪の結晶の模様が、ぐるりと編み込まれている。

 手編みらしく、編み目がわずかに不揃いで、それが、却って、柔らかな温かさを感じさせた。

「それ、素敵ですね」

 渉は、思わず言った。

「あ、これ? 母が編んでくれたの。去年の冬に」

「お母さんが」

「うん。不器用だから、袖の長さが左右でちょっと違うんだけど」

 澄子は、右の袖を、ひょいと持ち上げて見せた。

 確かに、左より、指の第一関節ぶんほど長かった。

「でも、着てると温かいんです。母の手の温もりが、残ってるみたいで」

 渉は、その言葉を、胸の奥で、静かに繰り返した。


 母の手の温もり。

 渉には、決して知り得ないものだった。

 席に着くと、澄子は、大きく息をついて、コートを椅子の背に掛けた。

 そのとき、ふわりと、空気が動いた。

 匂いが、した。

 石鹸の匂いだった。

 牛乳石鹸の、赤い箱の、あの優しい香りに近い。

 そこに、毛糸のセーターの、微かな羊毛の匂いと、外の冷たい風の匂いが混ざっている。

 そして、その奥に、ごく淡い、温かい、人の肌の匂いがあった。


 渉は、動けなくなった。

 胸の奥が、突然、軋んだ。

 痛みではなかった。

 もっと、深い場所で、何かがほどけかけるような、不思議な感覚だった。

 呼吸が、浅くなった。

 指先が、カップの縁に触れたまま、止まっていた。


「渉さん?」

 澄子の声が、遠くで聞こえた。

「あ、はい」

「どうかしました? 顔色が、ちょっと」

「いえ、大丈夫です。少し、寒くて」

「ほら、やっぱり。そのマフラー、薄くないですか」

「これは、キヨさんが貸してくれて」

「あ、高橋さんの旦那さんの。ああ、きっと、大事にしてたものですよ」

 澄子は、屈託なく笑った。

 渉も、笑い返そうとした。

 けれど、うまく、笑えたかどうか、わからなかった。


 その夜、二人は、いつもより少し長く、ことぶきにいた。

 外では、いつの間にか、粉雪が舞い始めていた。

 窓ガラスの向こうで、街灯の光を受けた細かな雪が、斜めに流れていく。

 路地の石畳は、うっすらと白くなりかけて、それでも、まだ、濡れた黒が、所々に覗いていた。


「雪、降ってきましたね」

「ええ」

「初雪かな」

「たぶん」

 澄子は、窓に額を寄せて、外を眺めた。

 その横顔を、渉は、見ないふりをして、見ていた。

 睫毛が長い。

 頬の線が、まだ少女のように丸い。

 耳たぶに、小さな産毛が、ストーブの光を受けて、金色に光っていた。

 そういう細部のひとつひとつが、渉の目の奥に、焼きついていく。

 見てはいけない、と思った。

 見ていたい、とも、思った。

 その二つの感情が、胸の中で、ぶつかり合い、渉は、手元のカップを、ただ握りしめていた。


「帰りましょうか」

 澄子が、言った。

「雪、積もったら、大変ですから」

「そうですね」

 二人は、席を立った。

 マスターに、軽く頭を下げて、扉を開ける。

 からん、と鈴が鳴った。


 外気が、頬を叩いた。

 息が、白く、夜の闇に昇った。

 粉雪が、睫毛の先に触れて、すぐ溶けた。

 街灯の灯りの輪の中に、細かな白い粒が、無数に舞っている。

 澄子は、傘を持っていなかった。

「傘、ないんですか」

「だって、雪だと思わなくて」

 彼女は、笑って、マフラーを頭からかぶった。


 二人は、並んで歩き出した。

 路地を抜けて、川沿いの道に出る。

 橋の上は、風が強かった。

 川面を渡ってくる冷気が、真正面から、顔に吹きつけた。

 街灯の下で、雪が横殴りに流れている。


「寒い寒い寒い」

 澄子が、肩をすくめた。

 その瞬間、強い風が、澄子のマフラーをさらった。

 長い毛糸のマフラーが、ふわりと夜空へ舞い上がった。

 澄子が「あっ」と声を上げて、手を伸ばした。

 渉は、反射的に、手を伸ばして、その端を掴んだ。

「ありがとう!」

 渉は、マフラーを、澄子の首に、巻き直した。

 そのとき、距離が、ひどく近くなった。

 街灯の光の下で、澄子の顔が、数センチの距離にあった。

 睫毛に雪の粒がついて、きらきら光っている。

 頬が赤い。

 吐く息が、白く、渉の顎にかかった。

 そして、また、あの匂いが、した。

 石鹸の匂い。

 羊毛の匂い。

 肌のぬくもり。

 その匂いが、渉の胸の中へ、まっすぐに、流れ込んできた。


 ・・暗い部屋だった。

 映像ではなかった。

 光もなかった。

 音も、ほとんどなかった。

 ただ、闇の中に、温かい重さが、あった。

 誰かの胸に、頬を押しつけている。

 毛糸のようなざらざらした感触が、頬に当たっている。

 そのざらざらの向こうに、とくん、とくん、と、規則正しい鼓動がある。

 ゆっくりと、体が揺れていた。

 右へ、左へ。

 ゆりかごのように、ゆるやかに。


 石鹸の匂いと、ミルクの匂い。

 冷えた夜の空気の中で、その一点だけが、温かかった。

 誰かが、何かを言っている。

 言葉にならない、小さな、低い音。

 喉の奥で、震えているような。

 安心だった。

 世界のすべてが、ここにあると思えるほどの、安心だった。


「渉さん?」

 声が、遠くで、した。

 渉は、目を開けた。

 橋の上だった。

 粉雪が、街灯の光の中で、横に流れている。

 目の前に、澄子の顔があった。

 心配そうに、眉を寄せて、渉を見上げている。

「どうしたんですか。急に、動かなくなって」

「あ」

 渉は、慌てて、手を離した。

「すみません。ぼうっとしていました」

「風、強いですもんね。寒さで、頭が働かなくなっちゃったのかな」

 澄子は、マフラーを、きゅっと結び直して、笑った。

「ありがとう、拾ってくれて」

「いえ」


 渉は、手を、ポケットに突っ込んだ。

 その手が、震えていた。

 寒さのせいだ、と、自分に言い聞かせた。

 橋を渡りきった先で、澄子は、立ち止まった。

「じゃあ、私、ここで」

「送りますよ。雪も降ってるし」

「ううん、すぐそこだから。大丈夫です」

 彼女は、片手を上げた。

「また、明日」

「はい。また、明日」

 澄子は、小走りに、雪の中を駆けていった。

 桃色のセーターの背中が、街灯の輪をひとつ、ふたつと通り抜けて、やがて、雪の闇に、溶けた。

 渉は、その場に、しばらく、立ち尽くしていた。


 帰り道は、いつもより長く感じられた。

 銭湯の煙突が、路地の向こうに見えた。

 白い湯気が、夜空に向かって、ゆっくりと昇っている。

 雪が、その湯気の中に溶けていく。

 暖簾の向こうから、洗面器のかたかた鳴る音と、笑い声が漏れてきた。


 渉は、足を止めて、その光景を見た。

 湯上がりの人々が、頬を赤くして、暖簾をくぐって出てくる。

 手拭いを首にかけた男。

 濡れ髪を結い上げた女。

 小さな子どもが、母親の手を握って、牛乳の空き瓶を大事そうに抱えている。

 その子が、母親を見上げて、何かを言った。

 母親が、屈んで、その子の頭を撫でた。


 渉は、目を逸らした。

 胸が、痛かった。

 さっきの記憶が、まだ、体の奥に、残っていた。

 暗い部屋。

 毛糸の感触。

 石鹸の匂い。

 ゆっくりと揺れる、温かい胸。

 あれは、何だ。

 渉は、歩きながら、自分に問うた。

 三歳の頃の記憶なのだろうか。

 いや、三歳の頃の記憶は、映像にならない。

 けれど、映像にならないからこそ、体のどこかに、匂いと温度だけが、残っているのかもしれない。


 ・・母だ。

 そう思いかけて、渉は、慌てて、その考えを、打ち消した。

 違う。

 そんなはずはない。

 あれは、ただの、気のせいだ。

 寒さと疲れで、頭がぼんやりしていたから、変な錯覚を見ただけだ。

 それに、石鹸の匂いなんて、どこにでもある。

 牛乳石鹸も、毛糸のセーターも、この時代には、どこの家にもある。

 懐かしい匂いというだけだ。

 叔母の家の匂いと、重なっただけだ。

 そう、自分に言い聞かせた。

 けれど、言い聞かせれば言い聞かせるほど、胸の奥が、きしんだ。

 もうひとつの考えが、頭をもたげた。


 ・・恋、なのか。

 渉は、足を止めた。

 街灯の下で、雪が、肩に積もっていた。

 そうなのかもしれない。

 澄子の笑顔を見ると、胸が温かくなる。

 澄子の声を聞くと、体がほどける。

 澄子のそばにいると、安心する。

 会っていない時間は、夕方の五時半が来るのを、ただ、待っている。

 それは、恋の症状だった。


 編集者として、恋愛小説を、いくつも手がけてきた。

 恋に落ちた人間が、どういう描かれ方をするかを、渉は、よく知っていた。

 ああ、そうか、と、思った。

 俺は、恋をしているのか。

 その解釈は、不思議なほど、すとんと、腑に落ちた。

 落ちて、そして、渉は、少しだけ、ほっとした。

 安心の正体に、名前がついた。

 名前がつけば、怖くない。

 恋ならば、ありふれた感情だ。

 誰にでも起こる、普通のことだ。

 説明のつかない、深い、底の見えない何かではなく。

 そう思って、渉は、歩き出した。

 けれど、その足取りは、どこか、頼りなかった。


 恋だとして、相手は、誰だ。

 佐々木澄子。

 二十三歳の、本が好きな、目から先に笑う女性。

 そして、その名前は、仏壇の位牌に刻まれた、小さな文字と、同じだった。

 渉は、その事実から、目を逸らした。

 意識して、考えないようにした。

 これは、恋だ。

 ただの、恋だ。

 そう繰り返しながら、渉は、キヨの家の格子戸の前に、辿り着いた。


 格子戸を引くと、がらがらと、乾いた音がした。

 三和土に、雪の水が、点々と落ちた。

「おかえり」

 奥から、キヨの声がした。

「雪かい。降ってきたんだね」

「はい。初雪みたいです」

「そりゃ冷えるはずだ。風呂、沸いてるよ。入っといで」

「ありがとうございます」

 渉は、マフラーを外して、玄関の鴨居の釘に掛けた。

 キヨの亭主の、古いマフラー。

 そこに、渉の肩から払い落とした雪の粒が、小さな水玉になって、ゆっくりと、毛糸に染み込んでいった。


 風呂場は、湯気が立ち込めていた。

 木の浴槽に、湯がたっぷりと張られている。

 薪で焚いた湯の匂いは、やわらかく、少しだけ煙の香りがした。

 渉は、体を沈めた。

 熱い湯が、冷え切った手足を、じんわりと包み込む。


 深い息が、口から漏れた。

 湯気の向こうの、木枠の窓に、結露が流れていた。

 外の雪の音は、聞こえない。

 聞こえるのは、湯が、ちゃぽん、と揺れる音だけだった。

 渉は、湯の中で、自分の両手を見つめた。

 この手が、さっき、澄子のマフラーを掴んだ。

 その指先に、まだ、毛糸の感触が、残っているような気がした。


 湯から上がると、居間の炬燵に、夕食の支度ができていた。

 大根と油揚げの煮物。

 白菜の漬物。

 焼き魚。

 温かい味噌汁。

 キヨは、黙って、渉の茶碗に、飯をよそった。


「あんた、今日は、いつもより、静かだね」

「そうですか」

「うん。何かあったのかい」

 渉は、箸を持ったまま、少し考えた。

「いえ。雪が、きれいだったので」

「そうかい」

 キヨは、それ以上、何も聞かなかった。

 その沈黙が、有り難かった。


 夕食の後、二階の六畳間に上がった。

 窓の外では、雪が、本降りになっていた。

 木枠のすりガラスの向こうが、ぼんやりと白く光っている。

 部屋の隅の石油ストーブが、青い炎を小さく揺らしていた。


 渉は、布団を敷いた。

 湯たんぽを、足元に入れる。

 掛布団の下は、少しずつ、温かくなっていった。

 電灯を消すと、窓の雪明かりが、天井に、淡い青白さを落とした。

 渉は、仰向けになって、その光を見つめた。

 眠れなかった。

 目を閉じると、あの匂いが、蘇った。

 石鹸の匂い。

 羊毛の匂い。

 人の肌の、温かい匂い。

 ゆっくりと揺れる、闇の中の温もり。


 枕元に置いた、一冊の文庫本に、手を伸ばした。

 澄子がくれた、『河口のひと』。

 表紙を、指でなぞった。

 紙の、ざらついた感触。

 それから、ふと、昼間の記憶が、浮かんだ。


 仏壇の前に座った、あの朝。

 小さく古い、二枚の遺影。

 父の写真は、色褪せていた。

 母の写真は、表情が、よくわからなかった。

 滲んだ輪郭の中に、ぼんやりと、女の人の顔があった。

 その顔を、渉は、頭の中に、思い浮かべようとした。

 輪郭だけの、母の顔。

 少し、丸い頬。

 肩のあたりで、切りそろえられた髪。

 その輪郭の中に、ゆっくりと、別の顔が、重なっていった。

 睫毛の長い、頬の赤い、雪の粒をつけた、横顔。

 目から先に笑う、あの笑顔。


 渉は、息を詰めた。

 重なった、と思った。

 遺影の輪郭と、澄子の横顔が、静かに、一つになろうとしていた。

 その瞬間、渉は、考えるのを、やめた。

 その先を、考えてはいけない、と思った。

 まだ、早い。

 まだ、何も、確かめていない。

 恋だ、と、渉は、もう一度、自分に言い聞かせた。

 これは、恋なのだ。

 それだけのことだ。

 雪が、窓の外で、音もなく、降り続けていた。


 階下で、キヨの足踏みミシンが、かたかたと鳴り始めた。

 規則正しい、小さな音。

 その音は、板の間を伝って、渉の布団の下まで、静かに届いた。

 かたかた、かたかた。

 渉の瞼が、少しずつ、重くなった。

 湯たんぽの温もりが、足先から、体の芯へと、広がっていく。

 眠りに落ちる、その直前、渉は、ぼんやりと、思った。

 明日も、五時半に、ことぶきへ行く。

 あの匂いに、また、会える。

 それが、嬉しい。

 それが、怖い。

 その二つの気持ちを、一緒に抱えたまま、渉は、深い眠りの中へ、沈んでいった。


 窓の外では、初雪が、音もなく、町を白く染めていた。

 灯りの消えた商店街にも、銭湯の煙突にも、川にかかる橋にも、そして、小さな交差点にも。

 雪は、静かに、静かに、降り積もっていった。

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