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第七話 夕暮れの日課

 翌朝、渉を起こしたのは、ラッパの音だった。

 ぷうー。

 気の抜けた、間延びした音だった。

 窓の外の、まだ薄青い空気の中を、その音がゆっくり渡っていく。

 ぷうー、ぷうー・・。

 少し間を置いて、もう一度。


 渉は、布団の中で目を開けた。

 天井の木目が、見知らぬ模様をしていた。

 一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。

 それから、枕のそば殻がさらりと鳴って、樟脳の匂いが鼻に届いて、昨夜のことがすべて、一度に胸に戻ってきた。


 ・・豆腐屋だ。

 澄子が言っていた。

 毎朝あれで起きるのだと。

 目覚まし時計より正確で、聞こえないと寂しくなるのだと。

 渉は、しばらく、そのラッパの音に耳を澄ませていた。

 音は、路地をゆっくり曲がり、やがて遠くなった。

 窓の障子が、白く光っていた。

 渉は布団から這い出し、冷えきった畳に足を下ろして、障子をそっと開けた。

 庭に、霜が降りていた。


 石灯籠の笠が白く縁取られ、柿の枯れ枝の一本一本に細かい氷の粒が付いて、朝日を受けて淡く光っている。

 苔むした地面は、薄い銀の布を掛けられたようだった。

 吐く息が、白く窓の外へ流れた。

 美しい、と思った。

 それから、すぐに思った。

 ・・今日の夕方、五時半。

 その時刻だけが、この一日の、たった一つの、動かない点のように思われた。


 キヨは、台所にいた。

 竈の火が、ぱちぱちと小さな音を立てている。

 流しの上には、使い込んだ鉄瓶が据えられ、湯気を細く吐いていた。

 壁には、日めくりカレンダー。

 十一月二十六日、土曜日。


 卓袱台の上には、すでに朝食が並んでいた。

 白い飯と、豆腐の味噌汁と、沢庵と、焼いた塩鮭の切り身。

 飯は、釜で炊いたばかりらしく、粒が立って、艶やかに光っている。

 味噌汁の椀からは、豆腐と葱の匂いが立ち昇っていた。


「食べな」

 キヨは、ぶっきらぼうに言って、茶碗を渉の前に押しやった。

「すみません。いただきます」

「すみませんは、いらないよ」

 渉は、箸を取った。

 飯を一口、口に入れた。

 噛むほどに、甘みが広がった。

 炊飯器で炊いた飯とは違う。

 底に、微かな焦げの香ばしさが潜んでいる。


 味噌汁は、煮干しの出汁が利いていた。

 豆腐が、ほろりと崩れた。

 渉は、黙って食べた。

 気がつけば、茶碗は空になっていた。

「お代わりは」

「・・いただきます」

 キヨは、鼻でひとつ笑って、飯をよそった。


 食事を終えると、キヨは、渉に、一本の鋸と薪の山を指さした。

「働かざる者食うべからず、ってね。月二千円、あとでいいとは言ったけど、日銭くらいは稼いでもらうよ。薪を割って、風呂の焚き付けにする」

「やります」

「それから、軒下の雨樋の掃除と、裏の物置の片付け。いいかい」

「はい」

 渉は、その日、一日中、働いた。


 薪割りは、思っていたより難しかった。

 斧を振り下ろしても、木は素直に割れてくれない。

 刃が食い込んだまま抜けなくなって、何度も、キヨに笑われた。

「あんた、本当に何も知らないのね」

「すみません。やったことがなくて」

「どんな暮らしをしてきたのよ」

 渉は答えに詰まった。

 キヨは、それ以上は聞かなかった。

 手本を見せるように、ひょい、と斧を振り上げて、薪を二つに割った。

 乾いた、小気味いい音が、庭に響いた。


 額に汗が滲むころ、渉は、ようやく、薪の割り方を覚えた。

 体を動かしている間は、頭が静かだった。

 母のことも、父のことも、帰り方のことも、考えなくて済んだ。

 ただ、斧の重さと、木の繊維の抵抗と、割れた断面から立ち昇る樹脂の匂いだけが、世界のすべてだった。


 昼過ぎ、キヨが、握り飯と、沢庵と、番茶を縁側に持ってきた。

 二人で並んで、庭を見ながら食べた。

 陽が高くなって、霜はとうに溶けていた。

 柿の木の枝に、小さな雀が二羽、止まっては飛び立っていく。


「あんた、澄子ちゃんと、約束してるんだろ」

 キヨが、唐突に言った。

 渉は、握り飯を喉に詰まらせそうになった。

「昨夜、玄関で話してるのが、聞こえたよ。この家は、壁が薄いからね」

「すみません」

「謝ることじゃないって言ってるでしょ」

 キヨは、湯呑みを両手で包んだ。

「あの子はね、いい子だよ。ちょっと、まっすぐすぎるけどね」

「はい」

「泣かせたら、承知しないよ」

 渉は、思わず、キヨの顔を見た。

 老婆は、庭を見たまま、動かなかった。

「泣かせたりしません」

 渉は、静かに言った。

「絶対に」

 キヨは、何も答えず、ただ、小さく頷いた。


 夕方の四時を回ると、渉は、風呂場で顔と手を洗った。

 鏡は、水垢で曇っていた。

 映った顔は、いつもより、少しだけ、頬のあたりが痩せて見えた。

 髪を手櫛で整え、コートに袖を通す。

 まだ、昨夜の湿り気が、わずかに残っていた。


「行ってきます」

 玄関で声をかけると、奥から、キヨの声が返ってきた。

「あんた、道、わかるのかい」

「はい。昨日、覚えました」

「そうかい。じゃあ、気をつけて」

 格子戸を開けると、冬の夕方の空気が、頬を撫でた。

 まだ明るさの残る空が、西の方から、薄い橙に染まり始めていた。


 路地を抜けて、商店街のアーケードに入る。

 夕方の市が、ちょうど賑わう時刻だった。

 魚屋の前には、ねじり鉢巻きの主人が立って、「さあ、安いよ、安いよ、今日はもう終わりだよ」と、威勢のいい声を張り上げている。

 八百屋の店先には、白菜と大根と蜜柑が、山のように積まれていた。

 肉屋のコロッケの揚がる匂いが、アーケードの天井に溜まって、行き交う人の鼻先をくすぐる。


 子どもたちが、駄菓子屋の前に群がっていた。

 十円玉を握りしめた小さな手が、ガラスケースの上に伸びている。

 ケースの中には、きなこ棒、ラムネ、酢だこさん太郎、チェリオの瓶。

 店のおばちゃんが、小さな紙袋に駄菓子を詰めながら、「はい、おまけ」と一粒、飴を足していた。

 渉は、その光景に、足を止めかけた。

 子どものころ、叔母に連れられて行った駄菓子屋と、そっくりだった。

 いや、あの駄菓子屋は、この時代の駄菓子屋の、色褪せた名残だったのだ。


 アーケードの途中に、赤い公衆電話が立っていた。

 その横に、自動販売機があった。

「缶コーヒー 百円」の文字。

 ごとん、と音を立てて、作業着の男が一本、取り出した。

 プルタブを引く音が、ぷしゅ、と鳴る。

 男は、その場で、一気に飲み干した。

 渉は、その音を聞きながら、歩き続けた。


 煙草屋の前を通ると、あの日、会釈を交わしたおばあさんが、番台のような場所に座っていた。

 渉と目が合うと、おばあさんは、軽く頭を下げた。

 渉も、頭を下げた。

 昨日は初めてだったのに、今日は、もう、顔なじみのような気がした。


 商店街の外れを折れると、あの路地に出る。

 深い小豆色の庇が、視界に入った。

 珈琲 ことぶき。

 渉の胸が、静かに、早く打ち始めた。

 扉の前で、一度、深呼吸をした。

 それから、取っ手に手をかけた。

 からん、と鈴が鳴った。


「いらっしゃい」

 マスターの声だった。

 店の中は、昨日と同じ橙の光に満ちていた。

 ストーブの青い炎。

 サイフォンの泡立つ音。

 壁の丸い時計は、五時二十五分を指している。

 カウンターの端の席に、澄子が座っていた。

「あ、渉さん」

 彼女は、文庫本から顔を上げて、手を振った。

「早かったですね」

「澄子さんこそ」

「私、仕事が早く終わったんです。だから、先に来ちゃいました」

 彼女は、隣の椅子を引いた。

「ここ、どうぞ」

 渉は、その席に座った。

 マスターが、何も言わずに、カップを二つ、カウンターに置いた。

 ブレンド。

 湯気が、白く立ち昇った。

 渉は、財布を取り出そうとした。

「あ、渉さん、お金は後でいいですよ。ね、マスター」

 マスターは、小さく頷いた。

 渉は、手を止めた。

 そして、ふと、昨日の自分の財布の中身を思い出した。

 令和の硬貨。

 ここでは、使えない。

 ・・いや、待て。

 この町で、働いて、日銭を稼ぐことができれば。


「澄子さん、実は、僕、仕事を探していて」

「仕事、ですか」

「ええ。今日、キヨさんのところで薪割りをしたんですが、それだけではどうにも。この近くに、人手を欲しがっているところは、ありませんか」

 澄子は、少し考えた。

「うーん、そうですね。駅前の運送屋さんが、荷物の積み下ろしの人を探してたような」

「運送屋」

「あとは、商店街の本屋さんが、年末の棚卸しで人手がほしいって言ってました。たしか、三日間くらいの短期で」

「本屋」

 渉は、思わず顔を上げた。

「そこに、行ってみてもいいですか」

「いいと思います。店主さんは、優しいおじいさんなんです。私、よく本を買いに行くから、紹介しましょうか」

「お願いできますか」

「もちろん」

 澄子は、にっこりと笑った。

 目から先に、笑った。

 その笑顔を、渉は、静かに見つめた。

 カップの湯気が、二人の間で、ゆらゆらと立ち昇っていた。


 その日から、渉は、毎夕、五時半に、ことぶきに行くようになった。

 約束をしたわけではなかった。

 初日のあと、「明日も来ますか」とも、「来てください」とも、言い合ったことはない。

 ただ、翌日の夕方になると、足が自然に、あの路地へ向かう。

 扉を開けると、澄子が、窓際の二人掛けの席にいる。

 そういう日が、続いた。


 窓際の席は、いつしか二人の席になった。

 壁の時刻表のすぐ隣、ストーブから少し離れた、背もたれの高い席。

 緑のビロードの椅子の、座面が少し沈んでいる。

 窓の外には、路地の街灯が見える。

 夕方、その灯りが、ぽっ、と点く瞬間を、二人は、何度も一緒に見た。

「あ、点いた」

「点きましたね」

 その短いやり取りが、なぜか、毎日、少しだけ嬉しかった。


 澄子は、よく話した。

 本のこと、職場のこと、通勤のバスのこと、商店街の魚屋の主人が、昨日、冗談で彼女に鯛の目玉をおまけしようとしたこと。

 話は、いつも、少し脱線しては、また元に戻った。

 渉は、聞き役だった。

 相槌を打ち、時折、口を挟み、ほとんどの時間を、ただ、彼女の声を聞いて過ごした。

 不思議なことに、それが、苦ではなかった。

 むしろ、彼女の声を聞いていると、体のどこかが、静かにほどけていくようだった。


「それでね、その作家さんの、二番目の長編なんですけど」

 澄子は、また、文庫本の話を始めていた。

 彼女の鞄から、毎日、違う文庫本が出てくる。

 黄ばんだ紙。

 昭和の活字組み。

 背表紙には、出版社名と、小さな文字で、定価が刻印されている。

「定価三百二十円」。

 裏表紙をめくると、帯の代わりに、広告の頁がついている。

 次に出る新刊の案内。

 渉は、その古い体裁の、ひとつひとつを、懐かしむように目で追った。

 編集者として、渉は、こうした本を何冊も手に取ってきた。

 けれど、それは、古本屋の均一台や、資料室の棚で見る、「過去の本」だった。

 ここにあるのは、「今」の本だった。

 新刊として、澄子の鞄の中で、生きている。


「渉さんは、本、お好きなんですよね」

「ええ」

「どうして、好きなんですか」

 不意の質問に、渉は、少し考えた。

「・・そうですね。人が書いたものは、書いた人がいなくなっても、残るから、でしょうか」

「いなくなっても」

「ええ。声や顔は、だんだん思い出せなくなるけれど、書かれたものは、そのまま、そこにある」

 自分で言って、渉は、少しだけ、胸が痛んだ。

 澄子は、じっと渉を見ていた。

 それから、右上へ、視線を動かした。

「・・渉さんって、時々、すごく、遠くのものを見てるみたいな顔をしますね」

「そう、ですか」

「うん。私といるのに、私じゃない、ずっと向こうの何かを見てるみたいな」

 渉は、息を呑んだ。

 しかし、澄子は、すぐに、いつもの笑顔に戻った。

「あ、ごめんなさい。変なこと言って。気にしないでください」

「いえ」

 渉は、カップを取り、口をつけた。

 苦味が、舌に広がった。

 ・・見ているのは、確かに、あなたじゃないのかもしれない。

 あなたの、ずっと向こうにいる、もう一人の、あなただ。

 そう思ってしまう自分を、渉は、すぐに、打ち消した。


 十日あまりが過ぎた。

 十二月の声を聞くと、町の空気が、一段、鋭くなった。

 商店街には、歳末の売り出しの旗が揺れ、有線放送の曲が、いつの間にか、クリスマスの歌に変わっていた。

 電器屋の店先では、ブラウン管テレビが何台も並び、同じ番組の違う色合いを、競うように映している。

 レコード屋の前には、「松田聖子 新曲」の大きなポスターが、風にはためいていた。


 渉は、本屋の短期の仕事を、無事、務めた。

 店主は、六十過ぎの、眼鏡の奥の目が優しいおじいさんだった。

 棚卸しの三日間、渉は、文庫本の山の中で、帳簿と実物を一冊ずつ突き合わせ、埃を払い、ビニールの包装を整え、そして、澄子が好きな作家の棚を、いつの間にか、一番見やすい場所に移していた。


「あんた、こういう仕事に、慣れてるね」

 店主は、感心したように言った。

「いえ、たまたまです」

「本が好きなんだな。顔を見ればわかる」

 日当は、一日、二千円だった。

 三日分の六千円を、封筒に入れて渡されたとき、渉は、手が少し震えた。

 この時代の、この町で、自分の手で稼いだ金だった。

 その金で、渉は、キヨに、十二月分の部屋代を払った。


「もらっとくよ」

 キヨは、封筒を受け取って、中身も数えずに、箪笥の引き出しにしまった。

 そして、その代わりに、新しい毛糸の靴下を一足、渉に差し出した。

「足元が冷えるだろう。これ、履きな」

 厚手の、灰色の靴下だった。

 履いてみると、足の先まで、じんわりと温かい。

 キヨの手編みらしかった。

 渉は、礼を言おうとして、言葉が出なかった。


 その夕方、渉は、少し遅れて、ことぶきに着いた。

 扉を開けると、窓際の席に、澄子が、いつものように座っていた。

 彼女の前には、すでに、二つのカップが置かれていた。

 一つは、渉の席の前に。コーヒーは、もう、少しぬるくなっていた。

「遅かったですね」

「すみません。本屋の仕事の、最後の挨拶があって」

「あ、そうか、今日まででしたっけ。お疲れさまでした」

 澄子は、にっこり笑って、渉の前のカップを、少しだけ、押し出した。

「冷めちゃったけど、どうぞ」

「待っていてくれたんですか」

「ううん、私も、さっき来たところです」

 嘘だ、と渉は思った。

 カップの縁に、薄い口紅の跡が、微かに残っていた。


 澄子は、鞄から、小さな包みを取り出した。

「これ、渉さんに」

「僕に?」

「お仕事、お疲れさまのしるしに。たいしたものじゃないんですけど」

 包みは、薄い茶色の紙で包まれた、文庫本だった。

 開けてみると、芦原静雄の、別の作品だった。

『河口のひと』。

「この前、本屋さんで見つけたんです。渉さんが、まだ読んでないといいなと思って」

 渉は、その本を、両手で受け取った。

 古い紙の匂いがした。

 表紙の端が、わずかに黄ばんでいる。

 それは、新刊のはずなのに、すでに、何度も誰かの手に取られたような、柔らかな質感をしていた。


 渉は、この作品を、読んだことがあった。

 大学時代、三度、読んだ。

 けれど、そのことは、言えなかった。

「ありがとうございます」

 渉は、深く頭を下げた。

「とても、嬉しいです」

「そんなに?」

「はい。すごく」

 澄子は、少し照れたように笑った。

「よかった」

 それから、彼女は、窓の外を見た。

 街灯が、点いていた。

「あ、点いてる」

「点いてますね」

 二人は、同時に、笑った。


 その夜、渉と澄子は、ことぶきを出て、川沿いの道を、少し歩いた。

 夜の川は、黒く、ゆるやかに流れていた。

 対岸には、工場の長い煙突が、闇の中にぼんやりと立っていた。

 その先端から、白い煙が、ゆっくり、真上へ昇っている。

 夜の工場は、まだ働いているらしい。

 窓のいくつかが、橙の光を放っていて、その光が、川面にも揺れて映っていた。

 橋の上を、自転車が一台、通り過ぎた。

 ペダルを踏むたびに、ライトの小さなダイナモが、じー、じー、と音を立てた。


「寒くないですか」

「平気です」

 澄子は、マフラーを口元まで引き上げた。

 吐く息が、白く、夜空へ昇っていく。

「渉さん」

「はい」

「私ね、最近、思うんです」

 澄子は、少し間を置いた。

「毎日、ここに来るのが、すごく、楽しみになってて」

 渉は、足を止めかけた。

「渉さんと話してると、なんだか、すごく、落ち着くんです。変ですよね、会ってまだ、十日ちょっとなのに」

「・・いえ」

「でも、本当なんです。一日の中で、いちばん、ほっとする時間っていうか」

 彼女は、川面を見つめていた。


 渉は、返す言葉を探した。

 けれど、見つからなかった。

 何か言おうとして、喉が、ひりついた。

「僕も、です」

 やっと、そう言った。

「僕も、澄子さんといると、安心します」

 嘘ではなかった。

 けれど、その安心の正体を、渉は、まだ、知らなかった。

 知ろうとも、しなかった。

 問うてはいけないような気がしていた。

 問うた瞬間に、何かが、壊れてしまうような気がした。

 この、柔らかく、温かい、夕方の時間が。

 ただ、澄子の横顔を見ていると、胸の奥の、ずっと空いていた場所が、静かに、満ちていく。

 その理由を、いまは、ただ、受け取っていたかった。


 橋の上で、澄子は、立ち止まった。

「じゃあ、私、ここで」

「送りますよ」

「大丈夫です。すぐそこだから」

 彼女は、手を振った。

「また、明日」

「はい。また、明日」

 澄子は、橋を渡っていった。

 その赤いマフラーが、街灯の光の輪をいくつも通り抜けて、やがて、闇の中に消えた。


 渉は、しばらく、その場に立っていた。

 川の水音が、足元から、ゆっくりと聞こえてくる。

 対岸の煙突の煙が、星のない夜空に、淡く溶けていった。

 帰り道、銭湯の煙突が、路地の向こうに見えた。

 湯気が、煙突の先から、白くほどけて、街灯の光を受けて、ぼうっと輝いていた。


「ゆ」の暖簾をくぐっていく人々の、石鹸の入った洗面器が、かたかたと鳴る音が聞こえた。

 渉は、その音を聞きながら、ふと、思った。

 ・・毎日が、同じように、静かに過ぎていく。

 それは、渉が、二〇二四年では、決して手にできなかったものだった。

 締切もなく、スマートフォンの通知もなく、ただ、夕方になれば、会いたい人に会える。

 それだけの、小さな、小さな幸せ。

 けれど、その幸せには、期限がある。

 渉は、それを感じていた。

 十二月七日が、近づいている。

 いつか、帰る日が来る。

 その日が来たとき、自分は、どうするのだろう。

 渉は、その問いからも、目を逸らした。

 夜の冷たい空気を、深く吸い込んだ。


 キヨの家の、格子戸が、見えてきた。

 橙の灯りが、擦りガラス越しに、にじんでいる。

 渉は、胸ポケットの中の、文庫本に、そっと手を当てた。

 澄子がくれた、『河口のひと』。

 その固い手触りが、今日という日を、確かに渉の中に留めていた。


 格子戸を、がらがらと引いた。

「ただいま」

 その言葉が、いつの間にか、自然に口から出るようになっていた。

 奥から、キヨの声が返ってきた。

「おかえり。風呂、沸いてるよ」

 それは、渉にとって、生まれて初めて聞くような、温かい言葉だった。

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