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第六話 高橋キヨの家

 雨上がりの路地は、夜の匂いがした。

 濡れた土と、石炭の燃え残りのような煤の匂い。

 どこかの家の台所から流れてくる、醤油を焦がした匂い。

 風呂の焚き口から漏れる、湿った木の煙の匂い。

 二〇二四年の夜にはなかった匂いが、いくつも重なって、渉の鼻先をかすめていった。


 澄子は、閉じた傘を手に提げて、半歩先を歩いていた。

 街灯は、白熱灯の黄みを帯びた光だった。

 電柱の中ほどに丸い笠のついた灯りが取り付けられていて、その下だけが円く明るい。

 光の輪に入ると、濡れた路面が金色にぎらりと光り、輪を出ると、足元はまた黒に沈んだ。

 渉は、その明暗の繰り返しの中を歩いた。


「あ、そこ、水たまり」

 澄子が、振り向きもせずに言った。

「大きいですから、右に寄って」

 渉は言われたとおりに右へ寄った。

 靴の先すれすれを、街灯の光を溜めた水たまりが通り過ぎる。


 角を曲がると、小さな豆腐屋があった。

 店はもう閉まっていたが、軒下に木の桶が重ねて伏せてあり、その横に自転車が一台、立てかけてあった。

 荷台に取り付けられた木箱の側面に、「とうふ 油揚 がんも」と墨で書かれている。

 ラッパのついたハンドルが、街灯に濡れて光っていた。


「朝になると、あのラッパが鳴るんです。ぷうー、って。気の抜けた音で」

 澄子が笑った。

「毎朝それで起きるんですよ、私。目覚まし時計より正確」

「いい音ですか」

「うーん、いい音かどうかはわからないけど。聞こえないと、なんだか寂しくなっちゃうかな」

 渉は、その「ぷうー」を想像した。

 四十一年後の朝には、もうどこにもない音だった。


 路地はさらに細くなった。

 両側に低い板塀が続き、その内側から、ほころびかけた椿の枝が道へ張り出している。

 板塀の下のほうは、雨水が跳ね返って黒ずんでいた。

 ところどころの塀に、琺瑯(ホーロー)の看板が打ちつけられている。

「大塚製薬 オロナミンC」「ボンカレー」「金鳥の渦巻」。

 錆が浮いて、色が剥げて、それでも文字だけは読めた。

 渉は、その看板のひとつひとつを、目に焼きつけるようにして通り過ぎた。


 どの家からも、音がした。

 テレビの音。

 笑い声。

 皿の触れ合う音。

 誰かの咳。

 幼い子が親を呼ぶ声。

 板塀の向こうの、障子の向こうの、暮らしの音が、細く、途切れ途切れに路地へ漏れ出している。

 渉は、その音の中を歩きながら、胸の奥が妙にしんとしていくのを感じていた。

 この家々のどこかに、父がいるのかもしれない。

 この音のどれかが、母の暮らしの音なのかもしれない。

 そう考えると、足の裏の感覚が急に頼りなくなった。


「着きました」

 澄子が立ち止まった。

 古い二階建ての家だった。

 瓦屋根は雨に濡れて黒く光り、軒先に、苔の生えた雨樋が垂れている。

 玄関の格子戸の脇に、擦りガラスの入った木枠の窓があり、その内側から、橙色の灯りが漏れていた。

 表札は、板に墨書きで「高橋」。

 その下に、小さな釘が二本だけ打たれていて、何かの札を掛けていた跡が残っている。

 門柱の脇の植え込みに、南天が赤い実をつけていた。

 雨の雫が、その一粒一粒に宿っている。


「ここで待っててくださいね」

 澄子は格子戸を引いた。

 がらがらと、乾いた音がした。

「高橋さーん。こんばんはー。澄子です」

 奥から、返事がなかった。

 澄子はもう一度、声をかけた。

「高橋さーん」

「・・はいはい、聞こえてますよ。そんなに大きな声を出さなくたって」

 廊下の奥から、足音が近づいてきた。

 ぺたり、ぺたりと、素足が板を踏む音だった。

 やがて、柱の陰から、小柄な老婆が現れた。

 七十を越えているだろう。

 白髪を後ろでひっつめにして、紺の絣の着物の上に、白い割烹着を着ている。

 背は曲がっているが、目だけは鋭く、眼鏡の奥の瞳がぎょろりと澄子を捉えた。


「なんだい、こんな時間に」

「すみません。実は、お願いがあって」

 澄子は、半身を引いて、後ろの渉を示した。

「こちら、桐島さんっていう方なんですけど、今日この町に着いたばかりで、泊まるところがなくて。二階の部屋、空いてましたよね」

 キヨの視線が、澄子の肩越しに、渉へ向いた。

 上から下まで、ゆっくりと眺め回した。


 濡れたウールのコート。

 革靴。

 マフラー。

 手袋。

 そして、手に何も持っていないこと。

 最後に、渉の顔に戻ってきた視線は、容赦がなかった。

「・・変な格好ね」

 それが、第一声だった。

 渉は思わず自分の服を見下ろした。

「すみません」

「謝ることじゃないわよ。変だって言っただけ」

 キヨは、鼻を鳴らした。

「荷物は」

「ありません」

「なんにも?」

「はい。着の身着のままで」

「ふうん」

 キヨは、しばらく渉の顔を見ていた。

 その沈黙が、渉には長かった。

 何を見抜かれるのか。

 何を問われるのか。

 身分証もない。

 保証人もいない。

 名前だって、本当は・・。


「あんた、悪いことをして逃げてきたんじゃないだろうね」

「違います」

 渉は、即座に答えた。

「それだけは、違います」

 自分でも驚くほどの強い声だった。

 キヨは、一度だけ瞬きをして、それから、ふっと肩の力を抜いた。

「そうかい。目を見りゃわかるよ。悪いことした人間の目じゃない」

「高橋さん」

「まあ、上がんなさい。そんなところで立ってたら、せっかく乾いてきた服がまた濡れる」

 キヨは、くるりと背を向けて、奥へ歩いていった。

「あ、ありがとうございます」

 渉は、澄子と顔を見合わせた。

 澄子は、目を細めて、小さく親指を立てた。

「ね、大丈夫でしょ」

 囁くような声だった。

 渉は、思わず笑った。

 久しぶりに、顔の筋肉が緩んだ気がした。


 玄関に入ると、土間があった。

 灰色の三和土は、ところどころ磨り減って、黒光りしている。

 壁際に、下駄箱があった。

 その上に、小さな招き猫と、色褪せた造花の菊を挿した花瓶。

 壁に掛けられた丸い掛け時計は、ぜんまい式なのか、振り子がゆっくりと左右に揺れていた。


 そして、匂いがした。

 木と、畳と、味噌と、古い布の匂い。

 それに、ほんのかすかに、樟脳の匂いが混ざっていた。

 渉は、靴を脱ぎかけた足を、止めた。

 叔母の家の匂いだった。

 子どものころ、毎日嗅いでいた匂い。

 長野の叔母の家の、玄関を開けた途端にふわりと迎えてくれる、あの匂い。

 三十八年かけて、渉が「家の匂い」だと思い込んできたものが、ここにあった。

 この時代の暮らしの匂いが、叔母の家の中に、そのまま残っていた。

「どうしました?」

 澄子が、不思議そうに覗き込んだ。

「いえ、何でもないです」

 渉は、靴を脱いだ。

 上がり框の木が、足袋のように、冷たく柔らかかった。


 キヨに案内されたのは、二階の六畳間だった。

 階段は急で、一段ごとに、ぎしり、と鳴った。

 手すりは、長年の手のひらに磨かれて、飴のような艶を持っている。

 障子を開けると、畳の匂いが立ち昇った。

 六畳の和室だった。

 部屋の隅に、小さな文机。

 窓際には、木枠の窓があって、すりガラスが入っている。

 その窓の外に、細い縁側があるらしい。

 壁には、半紙に書かれた書が一枚、画鋲で留められていた。

「温故知新」

 墨の色が、少し褪せていた。

 天井から、笠のついた白熱灯が一つ下がっている。

 ひもを引くと、ぱちん、と音がして、部屋が橙に染まった。

 キヨが、押し入れの襖を開けた。

 中に、布団が積まれていた。

 樟脳の匂いが、そこから一気に広がった。

「敷布団と掛布団、あるからね。毛布も出しとくよ。夜は冷えるから、湯たんぽを入れてあげる」

「そんな、お構いなく」

「構うもなにも、凍え死なれちゃ困るのよ」

 キヨは、布団を畳の上に落とした。

 ずしりと重い音がした。

 それから、押し入れの奥から、ゴム製の湯たんぽを取り出して、一階へ降りていった。


 渉は、部屋の中に立ち尽くしていた。

 澄子が、窓際に寄って、障子を少しだけ開けた。

「ここの窓から、庭が見えるんです。夜だから、あんまり見えないけど」

 渉は、澄子の隣に立った。

 窓の外に、闇があった。

 その闇の底に、石灯籠の輪郭と、枯れかけた柿の木が、ぼんやりと立っている。

 月は雲の向こうで、どこか遠くの庭の気配が、空気の冷たさだけで伝わってきた。


「朝になるときれいなんですよ。霜が降りて、柿の木の枝が白くなって」

「そうなんですね」

「渉さん、ここなら、ゆっくりできると思います」

 澄子は、窓を静かに閉めた。

「キヨさん、口は悪いけど、すごく優しい人なんです。私が入社したばかりの頃、道に迷ってたら、お茶を飲ませてくれて」

「澄子さんも、お世話に」

「うん。だから、安心してください」

 彼女は、渉を見て微笑んだ。

 その顔が、橙の灯りの下で、やわらかく揺れて見えた。

 階下から、キヨの声が聞こえてきた。

「あんたたち、ちょっと下りてきなさい。お茶を出すから」


 居間は、六畳の畳に炬燵が据えられていた。

 炬燵布団は、花柄の綿入れだった。

 布団の縁に、茶色の染みが一つだけあった。

 天板の上には、蜜柑の入った籠と、色褪せた茶筒と、アルミの灰皿。

 壁際には、古い箪笥と、その上に載せたブラウン管のテレビがあった。

 テレビの上には、白いレース編みの敷物と、小さな招き猫が一匹。

 部屋の隅には、足踏みミシンがあった。

 黒い鋳鉄の脚に、木の天板。

 針の周りが、油で鈍く光っている。

 その脇に、縫いかけの布が、きちんと畳まれて置かれていた。


 渉は、ミシンから目を離せなかった。

 叔母の家にも、かつて同じものがあったからだ。

 叔母が使っているところを、渉は何度も見た。

 針が上下するたびに、ことことと軽い音が鳴り、足元のペダルがゆっくりと揺れる。

 その音を聞きながら、渉は畳の上に寝転がって、絵本をめくった。


「そこ、座んなさい」

 キヨが、炬燵の一辺を指さした。

 渉は、炬燵に足を入れた。

 その瞬間、ぬくもりが、足先から全身に這い上がってきた。

 炬燵の熱は、石油ストーブの熱とは違った。

 もっと穏やかで、じんわりと身体の芯を溶かすような熱だった。

 渉は、思わず、深い息を吐いた。


「ほら、お茶」

 キヨが、湯呑みを置いた。

 番茶だった。

 香ばしく焦げた匂いがした。

 口に含むと、少し渋くて、喉を通ったあとに、ほんのり甘みが残った。

「蜜柑もお食べ」

 キヨは、籠から蜜柑を一つ取って、渉の前に転がした。

 渉は、それを手に取った。

 皮が、薄く、柔らかかった。

 爪を立てると、ぷつりと破れて、酸っぱい香りが立ち昇った。

 白い筋を丁寧に剥いて、一房、口に入れた。

 甘酸っぱい果汁が、舌に広がった。

 叔母の家の仏壇に供えられていた蜜柑と、同じ味がした。

 渉は、剥いた蜜柑の皮を、掌にそっと載せた。

 それから、澄子が自分の分を剥きながら、キヨと他愛もない話をしているのを、黙って聞いていた。


「そういえば、今日のテレビ見た? あの、おしんの・・」

「ああ、見てたよ。ずいぶん辛い目に遭ってるわねえ」

「ほんと。私、見るたびに胸が苦しくなっちゃって」

 テレビの中では、ニュースが流れていた。

 画面の下に「NHK」の文字。

 アナウンサーが、淡々と原稿を読んでいる。

 渉は、ふと、キヨの視線に気づいた。

 老婆は、湯呑みを両手で包んだまま、渉を見ていた。

「あんた、桐島さんって言ったね」

「はい」

「下の名前は」

「渉です」

「渉。いい名前だ。・・いつまでいるんだい」

 不意の質問だった。

 渉は、湯呑みを置いた。

「・・わかりません」

 正直に答えた。

「いつまでいるのか、自分でも、わからないんです」

 キヨの目が、細くなった。

 澄子が、横で、何か言いかけた。

 それを、キヨが、ちらりと目で制した。


「そうかい」

 キヨは、それだけを言った。

「部屋代は、月二千円。あんたに手持ちがあるようには見えないから、あとでいいよ。仕事が見つかったら、そのときに払いな」

「でも」

「でもも何も、ないよ。あの部屋は、使わなきゃ畳が傷むんだ。誰かが寝てくれるほうが、部屋も喜ぶ」


 渉は、言葉が出なかった。

 財布の中身を思い出していた。

 令和の硬貨。

 平成三十年の五百円玉。

 ここで出していたら、きっと大騒ぎになっていた。

 それを、キヨは、知らずに、あっさりと救ってくれた。

「ありがとうございます」

 渉は、深く頭を下げた。

「そのうち、ちゃんとお返しします」

「そんなこと、いいから。ほら、蜜柑がまだ残ってるよ」

 キヨは、籠を押してよこした。

 その手の甲に、深い皺が刻まれていた。

 長い年月、水に濡れ、針を握り、誰かの世話を焼いてきた手だった。


 澄子は、それを見て、嬉しそうに笑った。

 帰り際、澄子は、玄関で靴を履きながら言った。

「じゃあ、私、そろそろ行きますね」

 渉は、土間まで見送りに出た。

「今日は、ありがとうございました」

「いえいえ。私こそ、楽しかったです。芦原さんの話ができて」

 澄子は、傘を手に取って、少し間を置いた。

 視線が、右上に動く。

「・・あの、渉さん。明日も、ことぶきに来ますか」

 渉の胸が、一度だけ、強く鳴った。

「・・はい」

「何時ごろに?」

「澄子さんは、いつも」

「仕事が終わるのが五時なので、五時半には着いてます」

「じゃあ、五時半に」

「ほんとに?」

「はい」

「約束ですよ」

 澄子の目が、ぱっと明るくなった。

 目から先に、笑った。

「約束」

 渉は、その言葉を、口の中でもう一度転がした。

「じゃあ、明日。おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 格子戸が、がらがらと開き、閉まった。

 澄子の足音が、路地を遠ざかっていく。

 ぱた、ぱた、ぱた。

 傘の先が、時々、石畳をこつんと叩いた。

 その音も、やがて、夜の中に吸い込まれていった。

 渉は、土間に立ったまま、しばらく動けなかった。

 格子戸の向こうの闇を、ただ見つめていた。


 布団に入ったのは、十一時を過ぎてからだった。

 湯たんぽは、ゴムの匂いがして、足元でじんわりと温かかった。

 掛布団は重く、ごわごわした綿の感触が、肩に食い込む。

 枕は、そば殻なのか、頭を動かすたびにさらさらと音を立てた。

 電灯を消すと、部屋は、完全な闇になった。

 目が慣れてくるまで、渉は、天井を見つめていた。

 やがて、窓の木枠の影が、うっすらと浮かんできた。

 すりガラス越しに、庭の闇が、青みを帯びてにじんでいる。


 静かだった。

 二〇二四年の夜には、決して訪れない静けさだった。

 車の音がない。

 冷蔵庫の唸りもない。

 遠くの高速道路のかすかな振動も、スマートフォンの通知音もない。

 そのかわりに、古い家が、夜の冷えに軋む、ぱきん、ぱきんという乾いた音が、天井や柱のあちこちで鳴っていた。


 渉は、目を閉じた。

 眠れそうになかった。

 この町に、父と母がいる。

 その考えが、何度も、胸の中でぐるぐると回った。

 三十五年間、遺影の中でしか会えなかった二人が、今この町の、どこかの屋根の下で、眠っている。

 ひょっとしたら、さっき路地ですれ違った誰かが、父だったかもしれない。

 あの自転車を押していた作業着の男。

 あの角の煙草屋の前に立っていた若者。

 顔を知らない。

 どれだけ目を凝らしても、見分けがつかない。


 けれど・・母には、会ってしまった。

 佐々木澄子。

 渉は、暗闇の中で、その名前を、声に出さずに呼んだ。

 赤いセーター。

 濡れた前髪。

 右上に動く視線。

 目から先に笑う、笑い方。

 あれは、母だ。

 頭では、わかっていた。

 そうだと、疑う余地はなかった。

 名前が同じで、町が同じで、年齢が合っている。

 位牌に刻まれた名前と、あの人は、同じ人だった。

 けれど、心は、まだ、追いついていなかった。


 母、という言葉が、あの人の姿と、どうしても結びつかなかった。

 あの人は、二十三歳の、本が好きな、少し間を置いて話す、普通の女性だった。

 コーヒーに角砂糖を一つ落として、芦原静雄の話をして、「同じです」と笑う、そういう人だった。

  「お母さん」と呼ぶべき相手ではなかった。

 そもそも、渉は、その言葉を、誰にも言ったことがなかった。

 三歳の子どもが言えた「ママ」という音は、記憶のどこにも残っていない。

 叔母を「おばさん」と呼び、そのまま三十八年が過ぎた。

「お母さん」という言葉は、渉にとって、教科書の中の言葉のように、いつまでも遠いものだった。

 それが今、すぐ近くにいる。

 歩いて十分もかからない場所で、同じ夜の空気を吸っている。


 重い、と思った。

 胸の上に、見えない石が一つ、置かれたようだった。

 母に会ってしまった重さ。

 会ってはいけないはずの人に会ってしまった重さ。

 名前を名乗り、お茶を飲み、笑い合い、そして・・明日の約束までしてしまった重さ。

 けれど、その重さの隣に、もうひとつ、別の感情が、確かに在った。

 嬉しい。

 それを認めた瞬間、渉は、思わず、布団の中で顔を覆った。


 嬉しかった。

 どうしようもなく、嬉しかった。

 母が、生きている。

 笑っている。

 コーヒーを飲んで、本を読んで、仕事に不満を言って、傘を持って、夜道を歩いている。

 写真の中ではなく、声と、体温と、匂いを持って、そこにいる。

 それだけのことが、こんなにも、胸を揺さぶるのだと、渉は初めて知った。

 三十八年間、空っぽだった場所に、水が流れ込んでくるようだった。

 けれど、その嬉しさは、同時に、罪のように感じられた。

 この嬉しさは、息子としての嬉しさなのか。

 それとも・・。


 渉は、考えるのをやめた。

 それ以上、踏み込んではいけない問いだった。

 階下で、ことり、と何かが動いた。

 キヨが、まだ起きているらしい。

 足踏みミシンの、かたかたという音が、微かに響いてきた。

 夜なべの仕事だろうか。

 古い家の板の間を伝って、その音は、渉の布団の下まで届いた。

 かたかた、かたかた。

 規則正しい、小さな音だった。

 叔母も、夜になるとミシンを踏んだ。

 幼い渉は、その音を聞きながら、眠りに落ちた。

 母が、いなかった夜。

 叔母のミシンの音が、母の子守唄の代わりだった。

 渉は、目尻を、指で拭った。

 涙が、知らないうちに、こめかみまで伝っていた。


 遠くで、電話が鳴った。

 じりりりりん、じりりりりん。

 黒電話の、金属的なベルの音だった。

 誰かの家で、夜中に、電話が鳴っている。

 誰かが、慌てて起き上がり、廊下を駆けて、受話器を取る音がした。

 ほどなく、ベルは止んだ。

 その短い騒ぎが過ぎると、また、夜は静寂に戻った。


 渉は、布団の中で、体を丸めた。

 足元の湯たんぽが、温かかった。

 ゴムの匂いが、懐かしかった。

 この町で、この時代で、自分は何をするべきなのか。

 何のために、ここへ来たのか。

 答えは、まだ、どこにもなかった。

 ただ、明日、五時半に、あの喫茶店へ行く。

 それだけが、今の渉にとって、たった一つの確かな予定だった。


 約束、と澄子は言った。

 その言葉が、闇の中で、ひとつの灯りのように、胸の奥にともっていた。

 窓の外で、風が出てきたらしい。

 柿の枯れ枝が、ガラスに触れて、こつ、こつ、と小さな音を立てた。

 渉は、それを聞きながら、いつの間にか、浅い眠りに落ちていった。


 夢は見なかった。

 ただ、眠りの底に落ちる直前、遠くの方で、誰かが、小さな声で、歌っているような気がした。

 知らない歌だった。

 けれど、どこかで、聴いたことのある気がした。

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