第五話 珈琲ことぶき
庇の下に入った途端、雨音が変わった。
アーケードの屋根を叩くトタンの金属的な響きではない。
もっと近く、もっと柔らかい音だった。
軒先に張り出した小さな布の庇に、雨粒が一つずつ落ちては弾けている。
その向こうに、濡れた路地の黒い光が揺れていた。
渉は庇の下で、コートの肩から水を払った。
商店街の外れだった。
アーケードの切れ目を出て、細い路地へ折れた先に、その店はあった。
深い小豆色の庇には、白い文字が染め抜かれている。
珈琲 ことぶき
庇の端が雨を吸って、布の色が黒に近くなっていた。
入口の脇には背の低い煉瓦積みの花壇があり、枯れかけたパンジーが一鉢と、泥のついた空の牛乳瓶が二本、並んでいる。
店先のガラスケースには食品サンプルが飾られていた。
ナポリタン、ピラフ、プリンアラモード。
ケースの隅には歳月ぶんの埃が白く積もり、緑のクリームソーダだけが、日に焼けて少し青みがかっていた。
渉は、そのガラスケースをぼんやりと見ていた。
実物を見たことはない。
それなのに、扉の隙間から漏れてくる匂いだけが、どこかで嗅いだことのあるもののように思えた。
焙煎した豆の匂いだった。
それだけではない。
煙草の煙の匂いが、その底に沈んでいる。
使い込んだ木の匂い。
ほんの少し甘いのは、ミルクを温めた匂いだろうか。
いくつもの匂いが重なって、この店だけの空気を作っている。
渉の鼻の奥が、きゅっと痛くなった。
理由はわからない。
コーヒーの匂いは二〇二四年にもある。
コンビニの前にも、オフィスのフロアにも、スマートフォンの中のカフェにも、コーヒーの匂いはいくらでもある。
けれど、ここの匂いは違った。
深くて、重くて、何かが沈殿している。
焙煎の匂いというより、時間の匂いだった。
寒さが、いまさらのように骨に染みてきた。
渉は指先をポケットの中で握り直した。
濡れたウールの手袋が冷たい。
靴の中にも、とうに水が入っている。
財布の中には二〇二四年の紙幣と硬貨が入っているが、それがここで使えるのかどうか、
渉にはわからなかった。
曇りガラスの向こうに、橙色の明かりがにじんでいた。
人影が動いた。
ここで立ち尽くしていても仕方がない。
雨はまだ止みそうにない。
けれど、扉を押す勇気も出なかった。
そのときだった。
からん、と乾いた音を立てて、扉が内側から開いた。
「あら」
若い女性の声がした。
「びしょ濡れじゃないですか」
渉は顔を上げた。
扉の隙間から、店の光があふれていた。
その橙の光の中に、女性が一人、立っていた。
臙脂に近い赤みのセーターを着ていた。
胸のあたりに白い小さな模様が編み込まれていて、その上に焦げ茶のカーディガンを羽織っている。
髪は肩のあたりで切りそろえられ、前髪が少し濡れて額に貼りついていた。
彼女もきっと、雨の中を急いで店に入ったのだろう。
手には文庫本を一冊持っている。
指が本の背を挟んで、読みかけのページを押さえていた。
二十代の前半だろうか。
目が大きかった。
渉は、その目を見て、何も言えなくなった。
知っている顔ではなかった。
仏壇の遺影の、あの滲んだ輪郭とも重ならない。
それなのに、胸の奥の深いところが、ぐらりと揺れた。
「寒いでしょう。入ってください」
女性は扉を大きく開け、半身を引いた。
「あの、僕は・・」
「風邪ひきますよ、そのままだと。ね、マスター、いいですよね」
彼女は店の奥へ振り返った。
返事は聞こえなかった。
ただ、カウンターの向こうで白いシャツの腕がゆっくりと動き、一度、うなずいたように見えた。
渉は促されるまま、扉をくぐった。
からん、と鈴が鳴った。
その瞬間、世界の温度が変わった。
先に来たのは、温かさだった。
雨に濡れた肌に、石油ストーブの熱がじんわりと染みていく。
それから匂いが来た。
焙煎の匂いがさらに濃く立ち込める。
煙草の煙が天井の近くに薄い層を作り、その向こうで、ガラスのサイフォンがことことと小さな音を立てていた。
店内は、驚くほど狭かった。
入ってすぐ右手が長いカウンターだった。
飴色の木の天板は、何十年ぶんの肘の跡と湯呑みの輪を吸い込んで、ところどころ角が丸くなっている。
その上に、砂糖壺と、ガラスの灰皿と、紙ナプキンの入った銀色のホルダーが、等間隔に並んでいた。
灰皿には「ことぶき」の文字と、小さな鶴の絵が焼きつけられている。
カウンターの向こうの壁には棚があり、コーヒーカップが何十客も伏せて並んでいた。
どれも少しずつ柄が違う。
金の縁取りのもの、薔薇の絵のもの、無地の白。
棚の端には、使い込まれた木製のコーヒーミルが置かれていた。
ハンドルの真鍮が、手の脂で鈍く光っている。
カウンターの内側に、マスターが立っていた。
六十代だろうか。
白いシャツに黒い蝶ネクタイ。
薄くなった髪を丁寧に撫でつけ、銀縁の眼鏡の奥から、渉を一瞬だけ見た。
何も聞かない目だった。
見ただけで、すぐ手元のサイフォンに視線を戻した。
壁には、色あせた国鉄の時刻表が画鋲で留められていた。
その隣に、金属フレームの大きな丸い時計が掛かっている。
針は五時四十分を指していた。
時計の下には、日めくりのカレンダーがあり、赤い数字で日付が大きく印刷されている。
十一月二十五日。
金曜日。
そして、隅の高い位置に、ブラウン管のテレビが据えつけられていた。
音は絞られている。
画面の中では、アナウンサーが神妙な顔で原稿を読んでいた。
渉の足が、床の上で止まった。
床は、白と黒の市松模様のリノリウムだった。
ところどころ擦り切れて、下地の色が覗いている。
そこを雨で濡れた渉の靴が、小さな水の跡を残していった。
「あ、すみません。床が」
「いいんですよ、気にしないで。ここ、座って」
彼女が、ストーブのそばの席を指さした。
四人掛けの小さなテーブルだった。
椅子には、深い緑のビロードが張られている。
座面の中央はすり減って、うっすらと艶が出ていた。
テーブルの天板には、星座の絵が描かれていて、その上に透明のガラスが載せてある。
五円玉ほどの小さな穴に、爪楊枝入れが差し込まれていた。
渉は席に腰を下ろした。
椅子の軋む音がした。
座った瞬間、ビロードの感触が掌に残った。
柔らかく、少し毛羽立っていて、冷たい指先に温かく吸いついてきた。
石油ストーブが、すぐそばでゆっくりと燃えていた。
青い炎が、網の向こうでちらちらと揺れている。
ストーブの上には、アルミのやかんが載っていて、口からかすかな湯気が立ち昇っていた。
その湯気を見ているだけで、渉は、全身の力が抜けていくのを感じた。
体の芯に、緊張が積もっていた。
交差点で意識が途切れてからずっと、渉は息を詰めたまま歩いてきた。
信号機、電柱、ブラウン管、新刊の文庫本。
ひとつ見つけるたびに、小さな恐怖が胸の底に溜まっていった。
それが今、ストーブの熱の中で、少しずつほどけていく。
彼女は、渉の向かいの席に文庫本を置いて、カウンターへ向かった。
「マスター、タオル、お借りしていいですか」
マスターは何も言わず、カウンターの下から白いタオルを一枚取り出した。
糊の利いた、少し硬そうなタオルだった。
彼女はそれを受け取ると、すぐに渉のところへ戻ってきた。
「はい、これで拭いてください。コートは、ストーブの近くに掛けましょうか」
「いえ、そこまでは」
「濡れたままだと、本当に風邪ひきますよ」
彼女は、あっさりと渉のコートの襟に手をかけた。
渉が慌てて袖を抜くと、彼女はそれを受け取って、ストーブの脇の古い椅子の背に広げて掛けた。
濡れたウールの匂いが、ストーブの熱で立ち昇った。
渉は、受け取ったタオルで顔を拭いた。
糊の匂いと、陽に当てた布の匂いがした。
その匂いを嗅いだとき、渉は一瞬、何かを思い出しかけた。
思い出しかけて、掴めなかった。
ただ、胸のあたりが、すっと温かくなった。
「あの、ありがとうございます」
「いえいえ。ひどい降りですもんね、今日」
彼女は渉の向かいの椅子に腰を下ろし、少し身を乗り出すようにして言った。
「この辺の人じゃないですよね。道に迷ったんですか」
渉は、答えに詰まった。
どう答えればいいのか。
どこから来たのかと聞かれたら、何と言えばいいのだろう。
「ええ、まあ・・遠くから、来たもので」
「遠く。どちらから?」
「・・想像できないくらい、遠くから」
口をついて出た言葉だった。
言ってしまってから、渉は、自分でも妙なことを言ったと思った。
彼女は、一瞬きょとんとして、それから、ふっと唇の端を持ち上げた。
「なんだか、物語みたいな言い方」
「すみません。変なことを言って」
「ううん、いいと思います」
彼女は、膝の上で手を組んで、少し首をかしげた。
「私、そういう言い方、好きです」
そのとき、カウンターの方から、静かな音がした。
かたり、と陶器の鳴る音だった。
マスターが、盆に載せたカップを、渉のテーブルに運んできた。
何も言わずに、白いカップとソーサーを、渉の前にそっと置いた。
それから、同じようにもう一客、彼女の前にも置く。
小さなミルクピッチャーと、角砂糖の入った小さな容器も添えられた。
それだけだった。
マスターは、渉の顔をもう一度ちらりと見て、そのままカウンターへ戻っていった。
渉は、目の前のカップを見つめた。
湯気が、白く立ち昇っている。
濃い茶色の表面に、ストーブの炎の揺らめきが小さく映り込んでいた。
カップの縁には、薄い金色の線が一本だけ引かれている。
香りが、顔に届いた。
渉は、思わず目を閉じた。
深い、深い香りだった。
焦がした砂糖のような甘さの奥に、かすかな苦味と酸味が潜んでいる。
二〇二四年の洗練されたコーヒーの香りとは、どこか違った。
もっと素朴で、もっと濃い。
喉の奥まで、まっすぐに降りてくるような匂いだった。
その匂いは、渉の記憶のどこにも触れなかった。
それなのに、体のどこかが、まるで懐かしい人の声を聞いたときのように、静かにほどけていった。
「冷めないうちに、どうぞ」
彼女の声が、遠くで聞こえた。
渉は、カップを両手で包んだ。
陶器の熱が、冷えきった指先に染みていく。
ゆっくりと一口、啜った。
熱かった。
苦かった。
けれど、その苦みの裏に、ほんのりと甘いものが残った。
ひとくち飲むごとに、冷えた体の内側が、じわじわと温められていく。
渉は、カップをソーサーに戻した。
「・・おいしいです」
「でしょう」
彼女が、嬉しそうに言った。
「ここのコーヒーね、仕事帰りにほとんど毎日飲んでるんです。マスターのこだわりなの。豆は自分で挽いて、サイフォンで淹れて」
「毎日、ですか」
「はい。家に帰る前に、ここで一息つくのが、日課みたいになっちゃって」
彼女は笑って、自分のカップに角砂糖をひとつ落とした。
ちゃぽん、と小さな音がした。
スプーンでくるくると混ぜると、コーヒーの表面に小さな渦ができた。
「一杯、百八十円なんですよ。高いかなあって最初は思ったんですけど、ここの一杯があると、一日が違うんです」
百八十円。
渉は、その数字を頭の中で転がした。
安い、と思ってしまう自分に、少し驚いた。
「安いですよ」
「そうですか?」
「ええ。僕のところでは、もう少し・・」
渉は言いかけて、口をつぐんだ。
彼女は、スプーンを持ったまま、首をかしげて待っていた。
「いえ、何でもないです」
「変な人」
そう言いながら、彼女は笑った。
その笑い方を、渉は見た。
笑い始めの瞬間、先に目が笑った。
目尻が柔らかく下がって、瞳の奥に光がひとつ灯る。
それから、遅れて口元が動いた。
目から先に笑う笑い方だった。
渉は、その笑い方を、じっと見つめた。
見覚えがある、と思った。
けれど、どこで見たのかが、まったく思い出せない。
記憶をたどろうとすると、手のひらからこぼれる水のように、すぐに形が崩れてしまう。
ただ、胸のどこかがきゅうっと縮むような、不思議な感覚だけが残った。
「どうかしました?」
「あ、いえ」
渉は慌てて目を逸らし、カップに視線を落とした。
「すみません。ぼうっとしてしまって」
「疲れてるんですよ、きっと。雨の中を歩いてきたんだもの」
彼女は、それ以上は追及しなかった。
テーブルの上に置かれた文庫本に、彼女の指が触れた。
表紙を伏せて置かれたその本の背が、渉の位置からはっきり読めた。
芦原静雄 『冬の蛍光灯』
渉の呼吸が、止まった。
「その本・・」
声が、思わず漏れた。
彼女が顔を上げた。
「え?」
「芦原静雄、ですか」
「ご存じなんですか」
彼女の目が、ぱっと見開かれた。
渉は、自分の心臓の音を聞いた。
芦原静雄。
渉が大学時代に、夢中になって読んだ作家だった。
生前の作品はどれも少部数で、没後は絶版になった。
古本屋の均一台で一冊見つけるたびに、心の中でささやかな祝祭を挙げた。
卒業論文のテーマにしようとして、結局は果たせなかった。
就職先に出版社を選んだ理由の半分は、この作家だった。
その本の、新刊が、この時代の彼女の手の中にある。
「大学のとき・・読んでいました。とても、好きで」
「本当に? 嬉しい」
彼女の声が、少し高くなった。
それから、あわてたように口元を押さえて、周りを見回した。
カウンターのマスターは、聞こえないふりをして、ミルを回している。
「ごめんなさい。この人の本を読んでる人に、会ったことなくて」
「そうなんですか」
「職場でも、友達でも。名前を出しても、誰も知らないんです。私が勝手に、見つけて勝手に好きになっただけで」
彼女は、文庫本をそっと撫でた。
「この間、本屋さんで見つけたんです。新刊の棚の隅っこに、ほとんど埋もれるようにして並んでて」
渉は、アーケードの本屋で見た、あの背表紙を思い出した。
彼女は、あの棚の前に立っていたのだ。
同じ場所に、同じ棚の前に。
四十一年の時間を隔てて、渉も立っていた。
その偶然のような必然が、渉の胸の中を静かに通り抜けていった。
「どこがお好きですか」
渉は聞いた。
彼女は少し考えて、それから、少し間を置いた。
大事なことを言う前に、少しだけ間を置く。
その間が、渉の記憶の端を、微かに叩いた。
「・・『冬の蛍光灯』ってね、最後に、主人公が、亡くなった奥さんの部屋の蛍光灯を、取り替えられないまま終わるんです」
彼女の視線が、右上にふっと動いた。
「新しい蛍光灯を買ってきて、脚立も出して、手に持ったままで。でも、取り替えない。ずっと、薄暗いままの部屋にいる。それで物語が終わる」
「ええ。覚えています」
「変えられないものって、あるじゃないですか。もう、どうしても、もとには戻らないもの」
彼女は、ストーブの青い炎をちらりと見た。
「でもね、変えられないから、美しいんだなって。その最後の場面を読んだとき、そう思ったんです。取り戻せないからこそ、あの薄暗い蛍光灯の光が、いちばんきれいに見えるんだって」
渉は、息を呑んだ。
その言葉を、渉は、自分の言葉として知っていた。
大学の頃、同じ本を読み終えた夜に、ノートに書きつけた一行だった。
「変えられないから、美しい」
渉は、思わず口にしていた。
彼女の目が、渉を見つめた。
数秒の沈黙があった。
ストーブの上のやかんが、小さく鳴った。
「同じです」
彼女が、静かに言った。
「私も、同じことを思ってました」
そして、また笑った。
目から先に笑う、あの笑い方で。
渉は、その笑顔を直視できなかった。
胸の奥が熱くて、痛くて、何か大きなものがせり上がってくるのを、必死で堪えていた。
誰かと、本の話で、心がぴたりと重なる。
それは、渉が三十八年生きてきて、何度も経験したことのある、ささやかな喜びのはずだった。
けれど、今この瞬間のそれは、まるで違うものだった。
ずっと昔に失くしたものを、思いがけず拾い上げたような、そんな痛みを伴っていた。
「あの、お名前、聞いてもいいですか」
「渉です。・・桐島、渉」
それは、本当の姓ではなかった。
なぜ咄嗟に、その名が口をついて出たのか、渉自身にも、わからなかった。
ただ、この人の前で、本当の姓を名乗ってはいけないような気がした。
「私、佐々木澄子です」
澄子・・。
その名前が、渉の耳の奥に静かに落ちた。
仏壇の前で、何度も見た名前だった。
位牌に刻まれた、小さな文字。
叔母の口から、数えるほどしか聞いたことのない名前。
それが今、目の前で、息をして、笑っている。
渉は、膝の上で拳を握りしめた。
爪が掌に食い込んで、痛みが現実を引き戻した。
「すみこ、さん」
「はい」
「いい、名前ですね」
「そうですか? 古くさいって、よく言われますけど」
「そんなことないです」
渉は、それ以上は言えなかった。
喉の奥がつかえていて、声が震えそうだったから。
澄子は、不思議そうに渉の顔を見て、それから、カップに口をつけた。
しばらく、二人とも黙っていた。
けれど、それは重い沈黙ではなかった。
ストーブの青い炎がゆれる音と、サイフォンの湯が小さく泡立つ音と、遠くで回るコーヒーミルのごりごりという音が、沈黙の隙間を柔らかく埋めていた。
壁のラジオから、有線放送の音楽がかすかに流れていた。
誰かが、切ない声で、冬の恋を歌っている。
渉の知らない曲だった。
けれど、旋律はなぜか耳に馴染んだ。
窓の外では、雨がまだ降り続いている。
ガラスに、無数の水滴が這っていた。
街灯の光が、その一粒一粒の中で、小さな橙の点になって揺れている。
渉は、ふと思った。
四十一年前のこの瞬間にも、きっと、自分は存在していなかった。
母になる前の澄子が、ここでコーヒーを飲み、本を読み、誰かのことを考えていた。
そこには、渉の居場所はなかった。
それなのに、今、自分はここにいて、同じ席で、同じストーブの熱を受けている。
不思議な、あまりにも不思議な時間だった。
「あの」
澄子が口を開いた。
「もしよかったら、少し聞いてもいいですか。渉さんは、どうして、この町に?」
渉は、手の中のカップを見た。
嘘を、つくしかなかった。
「・・探しているものがあって」
「探しているもの」
「ええ。自分でも、何なのか、よくわからないんですけど」
それは、嘘ではなかった。
ただ、すべてでもなかった。
澄子は、そのあいまいな答えを、深く追及しなかった。
ただ、じっと渉の顔を見て、それからゆっくりとうなずいた。
「そういうの、ありますよね」
彼女は、少し遠くを見るような目をした。
「私もね、ときどき思うんです。自分が何を探してるのかも、わかってないのに、毎日どこかへ向かって歩いてる気がして」
「澄子さんも?」
「事務の仕事は嫌いじゃないんです。でも、もっと、好きなことと繋がっていたいなあって。本とか、言葉とか、そういうものと」
彼女は照れたように笑った。
「変ですよね、こんな話。初対面の人に」
「いえ」
渉は、ゆっくりと首を振った。
「変じゃないです。・・すごく、わかります」
「ほんとに?」
「ええ」
澄子は、ほっとしたように息をついた。
その息が、コーヒーの湯気を少しだけ揺らした。
窓の外の雨音が、少しずつ弱まっていた。
最初に気づいたのは、マスターだった。
彼は、サイフォンの火を落とし、窓の外にちらりと目をやって、小さく鼻を鳴らした。
それから、カウンターの内側の灰皿を取り替えて、新しい煙草に火をつけた。
マッチの擦れる音がして、硫黄の匂いがほんの一瞬だけ漂い、すぐに煙草の香りに混ざって消えた。
その匂いに、渉は、また胸を突かれた。
懐かしい、と言っていいのか、わからない。
けれど、知らないはずの匂いに、心が正直に反応している。
「あ、雨、止んできましたね」
澄子が、窓の方を見た。
ガラスを這う水滴の数が、少なくなっていた。
街灯の光の中で、細い糸のような雨が、ぱらぱらと落ちている。
「・・ほんとだ」
「ちょうどいいタイミング。ね、渉さん、今夜はどこに泊まるんですか」
不意の質問だった。
渉は、言葉に詰まった。
泊まる場所など、どこにもない。
この町に宿があるのかどうかも知らない。
ここで使える金があるのかどうかも、わからない。
「それが、まだ・・」
「決めてないんですか?」
「ええ。その、急に来たもので」
澄子は、少しだけ眉を寄せた。
それから、何かを思いついたように、ぽんと手を叩いた。
「だったら、いいところがありますよ」
「え?」
「うちの近所にね、部屋を貸してる家があるんです。高橋さんっていう、おばあちゃんが一人で住んでて。ちょうど先月、下宿してた人が出ていったばかりなんです。部屋、空いてるはずです」
「いや、そんな、初対面なのに、そこまで」
「大丈夫、大丈夫。私、高橋さんとは顔なじみだから」
澄子は、すでに席を立っていた。
「このまま夜の町をふらふらしてたら、それこそ風邪ひいちゃいます。ね、行きましょう」
渉は、迷った。
断るべきなのだ、と頭ではわかっていた。
ここは自分のいるべき時代ではない。
深く関わってはいけない。
母と、父と、接点を持ってはいけない・・そう思う理性が、かろうじて声を上げていた。
けれど、目の前に立つ澄子は、あまりにも自然に、手を差し伸べていた。
渉は、その手を取らなかった。
ただ、ゆっくりと立ち上がった。
「・・お言葉に、甘えます」
「やった」
澄子は小さく笑って、カウンターの方へ振り返った。
「マスター、ごちそうさまでした。この人の分も、私が」
「いえ、それは」
渉は慌てて財布を出そうとした。
けれど、澄子は、さっさとカウンターで百円玉を二枚と十円玉を数枚、並べていた。
「いいんです。今日は私が持ちます。その代わり、今度は渉さんが、ご馳走してくださいね」
その「今度」という言葉が、渉の胸に静かに落ちた。
マスターは、百円玉を受け取って、ゆっくりと一度頭を下げた。
そして、渉の方を見て、初めて口を開いた。
「・・また、いらっしゃい」
低い、穏やかな声だった。
それだけだった。
何も聞かず、何も言わず、ただそれだけを、渉の背中に置いた。
「はい。ありがとうございました」
渉は、深く頭を下げた。
ストーブのそばの椅子から、まだ少し湿っているコートを取って、袖を通した。
ウールの冷たさが肩に触れたが、体の芯にはまだ、さっきの温もりが残っていた。
扉を開けると、からん、と鈴が鳴った。
外の空気は、冷たく澄んでいた。
雨はほとんど上がって、路地のアスファルトが、街灯の光を濡れた鏡のように映している。
庇の端から、最後の雨垂れが、ぽつりぽつりと落ちていた。
澄子が、傘を手に持って、先に外へ出た。
「こっちです」
彼女は振り返って、手招きをした。
橙色の街灯の下で、赤いセーターが、柔らかく光った。
肩のあたりに雨粒が残っていて、それが小さな宝石のように光っていた。
渉は、その後ろ姿を見た。
肩の線、髪の揺れ、歩くときの少し右に傾く癖。
一歩ごとに、胸の中で、何かが静かに満ちていく。
渉は、扉を後ろ手に閉めた。
鈴が、もう一度小さく鳴った。
庇の下を出て、澄子の隣に並んだとき、彼女が横目で渉を見上げて、言った。
「渉さんって、不思議な人ですね」
「そうですか」
「うん。初めて会ったのに、なんだか、昔から知ってるみたいな気がする」
渉は、足を止めそうになった。
息を、ゆっくり吸って、吐いた。
「・・気のせいですよ」
そう答えた声は、自分でも驚くほど、静かに響いた。
「そうかな。そうかもしれませんね」
澄子は笑って、前を向いた。
二人は、濡れた路地を、並んで歩き出した。
背後で、珈琲ことぶきの窓の明かりが、少しずつ遠ざかっていく。
ガラスの向こうに、コーヒーを淹れるマスターの影が、小さく揺れていた。
渉は、一度だけ、振り返った。
庇の布が、街灯の光の中で、深い小豆色に光っていた。
焙煎の匂いと、煙草の匂いと、ストーブの熱が、まだ、衣服のどこかに残っていた。
その匂いが、渉の胸の奥の、何も入っていなかった場所を、そっと満たしていた。
三十八年かけて空けてきた場所に、初めて、何かが灯った。
渉は前を向いた。
前を歩く赤いセーターの背中を、見失わないように、歩いた。




