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第五話 珈琲ことぶき

 庇の下に入った途端、雨音が変わった。

 アーケードの屋根を叩くトタンの金属的な響きではない。

 もっと近く、もっと柔らかい音だった。

 軒先に張り出した小さな布の庇に、雨粒が一つずつ落ちては弾けている。

 その向こうに、濡れた路地の黒い光が揺れていた。

 渉は庇の下で、コートの肩から水を払った。


 商店街の外れだった。

 アーケードの切れ目を出て、細い路地へ折れた先に、その店はあった。

 深い小豆色の庇には、白い文字が染め抜かれている。


 珈琲 ことぶき


 庇の端が雨を吸って、布の色が黒に近くなっていた。

 入口の脇には背の低い煉瓦積みの花壇があり、枯れかけたパンジーが一鉢と、泥のついた空の牛乳瓶が二本、並んでいる。

 店先のガラスケースには食品サンプルが飾られていた。

 ナポリタン、ピラフ、プリンアラモード。

 ケースの隅には歳月ぶんの埃が白く積もり、緑のクリームソーダだけが、日に焼けて少し青みがかっていた。


 渉は、そのガラスケースをぼんやりと見ていた。

 実物を見たことはない。

 それなのに、扉の隙間から漏れてくる匂いだけが、どこかで嗅いだことのあるもののように思えた。

 焙煎した豆の匂いだった。

 それだけではない。

 煙草の煙の匂いが、その底に沈んでいる。

 使い込んだ木の匂い。

 ほんの少し甘いのは、ミルクを温めた匂いだろうか。

 いくつもの匂いが重なって、この店だけの空気を作っている。


 渉の鼻の奥が、きゅっと痛くなった。

 理由はわからない。

 コーヒーの匂いは二〇二四年にもある。

 コンビニの前にも、オフィスのフロアにも、スマートフォンの中のカフェにも、コーヒーの匂いはいくらでもある。

 けれど、ここの匂いは違った。

 深くて、重くて、何かが沈殿している。

 焙煎の匂いというより、時間の匂いだった。


 寒さが、いまさらのように骨に染みてきた。

 渉は指先をポケットの中で握り直した。

 濡れたウールの手袋が冷たい。

 靴の中にも、とうに水が入っている。

 財布の中には二〇二四年の紙幣と硬貨が入っているが、それがここで使えるのかどうか、

 渉にはわからなかった。


 曇りガラスの向こうに、橙色の明かりがにじんでいた。

 人影が動いた。

 ここで立ち尽くしていても仕方がない。

 雨はまだ止みそうにない。

 けれど、扉を押す勇気も出なかった。

 そのときだった。

 からん、と乾いた音を立てて、扉が内側から開いた。

「あら」

 若い女性の声がした。

「びしょ濡れじゃないですか」

 渉は顔を上げた。

 扉の隙間から、店の光があふれていた。

 その橙の光の中に、女性が一人、立っていた。


 臙脂に近い赤みのセーターを着ていた。

 胸のあたりに白い小さな模様が編み込まれていて、その上に焦げ茶のカーディガンを羽織っている。

 髪は肩のあたりで切りそろえられ、前髪が少し濡れて額に貼りついていた。

 彼女もきっと、雨の中を急いで店に入ったのだろう。

 手には文庫本を一冊持っている。

 指が本の背を挟んで、読みかけのページを押さえていた。

 二十代の前半だろうか。

 目が大きかった。

 渉は、その目を見て、何も言えなくなった。

 知っている顔ではなかった。

 仏壇の遺影の、あの滲んだ輪郭とも重ならない。

 それなのに、胸の奥の深いところが、ぐらりと揺れた。


「寒いでしょう。入ってください」

 女性は扉を大きく開け、半身を引いた。

「あの、僕は・・」

「風邪ひきますよ、そのままだと。ね、マスター、いいですよね」

 彼女は店の奥へ振り返った。

 返事は聞こえなかった。

 ただ、カウンターの向こうで白いシャツの腕がゆっくりと動き、一度、うなずいたように見えた。


 渉は促されるまま、扉をくぐった。

 からん、と鈴が鳴った。

 その瞬間、世界の温度が変わった。

 先に来たのは、温かさだった。

 雨に濡れた肌に、石油ストーブの熱がじんわりと染みていく。

 それから匂いが来た。

 焙煎の匂いがさらに濃く立ち込める。

 煙草の煙が天井の近くに薄い層を作り、その向こうで、ガラスのサイフォンがことことと小さな音を立てていた。


 店内は、驚くほど狭かった。

 入ってすぐ右手が長いカウンターだった。

 飴色の木の天板は、何十年ぶんの肘の跡と湯呑みの輪を吸い込んで、ところどころ角が丸くなっている。

 その上に、砂糖壺と、ガラスの灰皿と、紙ナプキンの入った銀色のホルダーが、等間隔に並んでいた。

 灰皿には「ことぶき」の文字と、小さな鶴の絵が焼きつけられている。

 カウンターの向こうの壁には棚があり、コーヒーカップが何十客も伏せて並んでいた。

 どれも少しずつ柄が違う。

 金の縁取りのもの、薔薇の絵のもの、無地の白。

 棚の端には、使い込まれた木製のコーヒーミルが置かれていた。

 ハンドルの真鍮が、手の脂で鈍く光っている。


 カウンターの内側に、マスターが立っていた。

 六十代だろうか。

 白いシャツに黒い蝶ネクタイ。

 薄くなった髪を丁寧に撫でつけ、銀縁の眼鏡の奥から、渉を一瞬だけ見た。

 何も聞かない目だった。

 見ただけで、すぐ手元のサイフォンに視線を戻した。

 壁には、色あせた国鉄の時刻表が画鋲で留められていた。

 その隣に、金属フレームの大きな丸い時計が掛かっている。

 針は五時四十分を指していた。

 時計の下には、日めくりのカレンダーがあり、赤い数字で日付が大きく印刷されている。


 十一月二十五日。

 金曜日。


 そして、隅の高い位置に、ブラウン管のテレビが据えつけられていた。

 音は絞られている。

 画面の中では、アナウンサーが神妙な顔で原稿を読んでいた。

 渉の足が、床の上で止まった。

 床は、白と黒の市松模様のリノリウムだった。

 ところどころ擦り切れて、下地の色が覗いている。

 そこを雨で濡れた渉の靴が、小さな水の跡を残していった。


「あ、すみません。床が」

「いいんですよ、気にしないで。ここ、座って」

 彼女が、ストーブのそばの席を指さした。

 四人掛けの小さなテーブルだった。

 椅子には、深い緑のビロードが張られている。

 座面の中央はすり減って、うっすらと艶が出ていた。

 テーブルの天板には、星座の絵が描かれていて、その上に透明のガラスが載せてある。

 五円玉ほどの小さな穴に、爪楊枝入れが差し込まれていた。


 渉は席に腰を下ろした。

 椅子の軋む音がした。

 座った瞬間、ビロードの感触が掌に残った。

 柔らかく、少し毛羽立っていて、冷たい指先に温かく吸いついてきた。

 石油ストーブが、すぐそばでゆっくりと燃えていた。

 青い炎が、網の向こうでちらちらと揺れている。

 ストーブの上には、アルミのやかんが載っていて、口からかすかな湯気が立ち昇っていた。

 その湯気を見ているだけで、渉は、全身の力が抜けていくのを感じた。

 体の芯に、緊張が積もっていた。


 交差点で意識が途切れてからずっと、渉は息を詰めたまま歩いてきた。

 信号機、電柱、ブラウン管、新刊の文庫本。

 ひとつ見つけるたびに、小さな恐怖が胸の底に溜まっていった。

 それが今、ストーブの熱の中で、少しずつほどけていく。


 彼女は、渉の向かいの席に文庫本を置いて、カウンターへ向かった。

「マスター、タオル、お借りしていいですか」

 マスターは何も言わず、カウンターの下から白いタオルを一枚取り出した。

 糊の利いた、少し硬そうなタオルだった。

 彼女はそれを受け取ると、すぐに渉のところへ戻ってきた。

「はい、これで拭いてください。コートは、ストーブの近くに掛けましょうか」

「いえ、そこまでは」

「濡れたままだと、本当に風邪ひきますよ」

 彼女は、あっさりと渉のコートの襟に手をかけた。

 渉が慌てて袖を抜くと、彼女はそれを受け取って、ストーブの脇の古い椅子の背に広げて掛けた。

 濡れたウールの匂いが、ストーブの熱で立ち昇った。


 渉は、受け取ったタオルで顔を拭いた。

 糊の匂いと、陽に当てた布の匂いがした。

 その匂いを嗅いだとき、渉は一瞬、何かを思い出しかけた。

 思い出しかけて、掴めなかった。

 ただ、胸のあたりが、すっと温かくなった。

「あの、ありがとうございます」

「いえいえ。ひどい降りですもんね、今日」

 彼女は渉の向かいの椅子に腰を下ろし、少し身を乗り出すようにして言った。

「この辺の人じゃないですよね。道に迷ったんですか」

 渉は、答えに詰まった。

 どう答えればいいのか。

 どこから来たのかと聞かれたら、何と言えばいいのだろう。

「ええ、まあ・・遠くから、来たもので」

「遠く。どちらから?」

「・・想像できないくらい、遠くから」


 口をついて出た言葉だった。

 言ってしまってから、渉は、自分でも妙なことを言ったと思った。

 彼女は、一瞬きょとんとして、それから、ふっと唇の端を持ち上げた。

「なんだか、物語みたいな言い方」

「すみません。変なことを言って」

「ううん、いいと思います」

 彼女は、膝の上で手を組んで、少し首をかしげた。

「私、そういう言い方、好きです」

 そのとき、カウンターの方から、静かな音がした。

 かたり、と陶器の鳴る音だった。


 マスターが、盆に載せたカップを、渉のテーブルに運んできた。

 何も言わずに、白いカップとソーサーを、渉の前にそっと置いた。

 それから、同じようにもう一客、彼女の前にも置く。

 小さなミルクピッチャーと、角砂糖の入った小さな容器も添えられた。

 それだけだった。

 マスターは、渉の顔をもう一度ちらりと見て、そのままカウンターへ戻っていった。


 渉は、目の前のカップを見つめた。

 湯気が、白く立ち昇っている。

 濃い茶色の表面に、ストーブの炎の揺らめきが小さく映り込んでいた。

 カップの縁には、薄い金色の線が一本だけ引かれている。

 香りが、顔に届いた。

 渉は、思わず目を閉じた。

 深い、深い香りだった。

 焦がした砂糖のような甘さの奥に、かすかな苦味と酸味が潜んでいる。

 二〇二四年の洗練されたコーヒーの香りとは、どこか違った。

 もっと素朴で、もっと濃い。

 喉の奥まで、まっすぐに降りてくるような匂いだった。

 その匂いは、渉の記憶のどこにも触れなかった。

 それなのに、体のどこかが、まるで懐かしい人の声を聞いたときのように、静かにほどけていった。


「冷めないうちに、どうぞ」

 彼女の声が、遠くで聞こえた。

 渉は、カップを両手で包んだ。

 陶器の熱が、冷えきった指先に染みていく。

 ゆっくりと一口、啜った。

 熱かった。

 苦かった。

 けれど、その苦みの裏に、ほんのりと甘いものが残った。

 ひとくち飲むごとに、冷えた体の内側が、じわじわと温められていく。


 渉は、カップをソーサーに戻した。

「・・おいしいです」

「でしょう」

 彼女が、嬉しそうに言った。

「ここのコーヒーね、仕事帰りにほとんど毎日飲んでるんです。マスターのこだわりなの。豆は自分で挽いて、サイフォンで淹れて」

「毎日、ですか」

「はい。家に帰る前に、ここで一息つくのが、日課みたいになっちゃって」

 彼女は笑って、自分のカップに角砂糖をひとつ落とした。

 ちゃぽん、と小さな音がした。

 スプーンでくるくると混ぜると、コーヒーの表面に小さな渦ができた。

「一杯、百八十円なんですよ。高いかなあって最初は思ったんですけど、ここの一杯があると、一日が違うんです」


 百八十円。

 渉は、その数字を頭の中で転がした。

 安い、と思ってしまう自分に、少し驚いた。

「安いですよ」

「そうですか?」

「ええ。僕のところでは、もう少し・・」

 渉は言いかけて、口をつぐんだ。

 彼女は、スプーンを持ったまま、首をかしげて待っていた。


「いえ、何でもないです」

「変な人」

 そう言いながら、彼女は笑った。

 その笑い方を、渉は見た。

 笑い始めの瞬間、先に目が笑った。

 目尻が柔らかく下がって、瞳の奥に光がひとつ灯る。

 それから、遅れて口元が動いた。

 目から先に笑う笑い方だった。

 渉は、その笑い方を、じっと見つめた。

 見覚えがある、と思った。

 けれど、どこで見たのかが、まったく思い出せない。

 記憶をたどろうとすると、手のひらからこぼれる水のように、すぐに形が崩れてしまう。

 ただ、胸のどこかがきゅうっと縮むような、不思議な感覚だけが残った。


「どうかしました?」

「あ、いえ」

 渉は慌てて目を逸らし、カップに視線を落とした。

「すみません。ぼうっとしてしまって」

「疲れてるんですよ、きっと。雨の中を歩いてきたんだもの」

 彼女は、それ以上は追及しなかった。

 テーブルの上に置かれた文庫本に、彼女の指が触れた。

 表紙を伏せて置かれたその本の背が、渉の位置からはっきり読めた。


 芦原静雄 『冬の蛍光灯』


 渉の呼吸が、止まった。

「その本・・」

 声が、思わず漏れた。

 彼女が顔を上げた。

「え?」

「芦原静雄、ですか」

「ご存じなんですか」

 彼女の目が、ぱっと見開かれた。

 渉は、自分の心臓の音を聞いた。


 芦原静雄。

 渉が大学時代に、夢中になって読んだ作家だった。

 生前の作品はどれも少部数で、没後は絶版になった。

 古本屋の均一台で一冊見つけるたびに、心の中でささやかな祝祭を挙げた。

 卒業論文のテーマにしようとして、結局は果たせなかった。

 就職先に出版社を選んだ理由の半分は、この作家だった。

 その本の、新刊が、この時代の彼女の手の中にある。


「大学のとき・・読んでいました。とても、好きで」

「本当に? 嬉しい」

 彼女の声が、少し高くなった。

 それから、あわてたように口元を押さえて、周りを見回した。

 カウンターのマスターは、聞こえないふりをして、ミルを回している。

「ごめんなさい。この人の本を読んでる人に、会ったことなくて」

「そうなんですか」

「職場でも、友達でも。名前を出しても、誰も知らないんです。私が勝手に、見つけて勝手に好きになっただけで」

 彼女は、文庫本をそっと撫でた。

「この間、本屋さんで見つけたんです。新刊の棚の隅っこに、ほとんど埋もれるようにして並んでて」

 渉は、アーケードの本屋で見た、あの背表紙を思い出した。

 彼女は、あの棚の前に立っていたのだ。

 同じ場所に、同じ棚の前に。

 四十一年の時間を隔てて、渉も立っていた。

 その偶然のような必然が、渉の胸の中を静かに通り抜けていった。


「どこがお好きですか」

 渉は聞いた。

 彼女は少し考えて、それから、少し間を置いた。

 大事なことを言う前に、少しだけ間を置く。

 その間が、渉の記憶の端を、微かに叩いた。

「・・『冬の蛍光灯』ってね、最後に、主人公が、亡くなった奥さんの部屋の蛍光灯を、取り替えられないまま終わるんです」

 彼女の視線が、右上にふっと動いた。

「新しい蛍光灯を買ってきて、脚立も出して、手に持ったままで。でも、取り替えない。ずっと、薄暗いままの部屋にいる。それで物語が終わる」

「ええ。覚えています」

「変えられないものって、あるじゃないですか。もう、どうしても、もとには戻らないもの」

 彼女は、ストーブの青い炎をちらりと見た。

「でもね、変えられないから、美しいんだなって。その最後の場面を読んだとき、そう思ったんです。取り戻せないからこそ、あの薄暗い蛍光灯の光が、いちばんきれいに見えるんだって」


 渉は、息を呑んだ。

 その言葉を、渉は、自分の言葉として知っていた。

 大学の頃、同じ本を読み終えた夜に、ノートに書きつけた一行だった。

「変えられないから、美しい」

 渉は、思わず口にしていた。

 彼女の目が、渉を見つめた。

 数秒の沈黙があった。

 ストーブの上のやかんが、小さく鳴った。


「同じです」

 彼女が、静かに言った。

「私も、同じことを思ってました」

 そして、また笑った。

 目から先に笑う、あの笑い方で。

 渉は、その笑顔を直視できなかった。

 胸の奥が熱くて、痛くて、何か大きなものがせり上がってくるのを、必死で堪えていた。

 誰かと、本の話で、心がぴたりと重なる。

 それは、渉が三十八年生きてきて、何度も経験したことのある、ささやかな喜びのはずだった。

 けれど、今この瞬間のそれは、まるで違うものだった。

 ずっと昔に失くしたものを、思いがけず拾い上げたような、そんな痛みを伴っていた。


「あの、お名前、聞いてもいいですか」

「渉です。・・桐島、渉」

 それは、本当の姓ではなかった。

 なぜ咄嗟に、その名が口をついて出たのか、渉自身にも、わからなかった。

 ただ、この人の前で、本当の姓を名乗ってはいけないような気がした。


「私、佐々木澄子です」

 澄子・・。

 その名前が、渉の耳の奥に静かに落ちた。

 仏壇の前で、何度も見た名前だった。

 位牌に刻まれた、小さな文字。

 叔母の口から、数えるほどしか聞いたことのない名前。

 それが今、目の前で、息をして、笑っている。

 渉は、膝の上で拳を握りしめた。

 爪が掌に食い込んで、痛みが現実を引き戻した。


「すみこ、さん」

「はい」

「いい、名前ですね」

「そうですか? 古くさいって、よく言われますけど」

「そんなことないです」

 渉は、それ以上は言えなかった。

 喉の奥がつかえていて、声が震えそうだったから。

 澄子は、不思議そうに渉の顔を見て、それから、カップに口をつけた。

 しばらく、二人とも黙っていた。

 けれど、それは重い沈黙ではなかった。

 ストーブの青い炎がゆれる音と、サイフォンの湯が小さく泡立つ音と、遠くで回るコーヒーミルのごりごりという音が、沈黙の隙間を柔らかく埋めていた。


 壁のラジオから、有線放送の音楽がかすかに流れていた。

 誰かが、切ない声で、冬の恋を歌っている。

 渉の知らない曲だった。

 けれど、旋律はなぜか耳に馴染んだ。

 窓の外では、雨がまだ降り続いている。

 ガラスに、無数の水滴が這っていた。

 街灯の光が、その一粒一粒の中で、小さな橙の点になって揺れている。


 渉は、ふと思った。

 四十一年前のこの瞬間にも、きっと、自分は存在していなかった。

 母になる前の澄子が、ここでコーヒーを飲み、本を読み、誰かのことを考えていた。

 そこには、渉の居場所はなかった。

 それなのに、今、自分はここにいて、同じ席で、同じストーブの熱を受けている。

 不思議な、あまりにも不思議な時間だった。


「あの」

 澄子が口を開いた。

「もしよかったら、少し聞いてもいいですか。渉さんは、どうして、この町に?」

 渉は、手の中のカップを見た。

 嘘を、つくしかなかった。

「・・探しているものがあって」

「探しているもの」

「ええ。自分でも、何なのか、よくわからないんですけど」

 それは、嘘ではなかった。

 ただ、すべてでもなかった。

 澄子は、そのあいまいな答えを、深く追及しなかった。

 ただ、じっと渉の顔を見て、それからゆっくりとうなずいた。


「そういうの、ありますよね」

 彼女は、少し遠くを見るような目をした。

「私もね、ときどき思うんです。自分が何を探してるのかも、わかってないのに、毎日どこかへ向かって歩いてる気がして」

「澄子さんも?」

「事務の仕事は嫌いじゃないんです。でも、もっと、好きなことと繋がっていたいなあって。本とか、言葉とか、そういうものと」

 彼女は照れたように笑った。

「変ですよね、こんな話。初対面の人に」

「いえ」

 渉は、ゆっくりと首を振った。

「変じゃないです。・・すごく、わかります」

「ほんとに?」

「ええ」

 澄子は、ほっとしたように息をついた。

 その息が、コーヒーの湯気を少しだけ揺らした。

 窓の外の雨音が、少しずつ弱まっていた。


 最初に気づいたのは、マスターだった。

 彼は、サイフォンの火を落とし、窓の外にちらりと目をやって、小さく鼻を鳴らした。

 それから、カウンターの内側の灰皿を取り替えて、新しい煙草に火をつけた。

 マッチの擦れる音がして、硫黄の匂いがほんの一瞬だけ漂い、すぐに煙草の香りに混ざって消えた。

 その匂いに、渉は、また胸を突かれた。

 懐かしい、と言っていいのか、わからない。

 けれど、知らないはずの匂いに、心が正直に反応している。


「あ、雨、止んできましたね」

 澄子が、窓の方を見た。

 ガラスを這う水滴の数が、少なくなっていた。

 街灯の光の中で、細い糸のような雨が、ぱらぱらと落ちている。

「・・ほんとだ」

「ちょうどいいタイミング。ね、渉さん、今夜はどこに泊まるんですか」

 不意の質問だった。

 渉は、言葉に詰まった。

 泊まる場所など、どこにもない。

 この町に宿があるのかどうかも知らない。

 ここで使える金があるのかどうかも、わからない。


「それが、まだ・・」

「決めてないんですか?」

「ええ。その、急に来たもので」

 澄子は、少しだけ眉を寄せた。

 それから、何かを思いついたように、ぽんと手を叩いた。

「だったら、いいところがありますよ」

「え?」

「うちの近所にね、部屋を貸してる家があるんです。高橋さんっていう、おばあちゃんが一人で住んでて。ちょうど先月、下宿してた人が出ていったばかりなんです。部屋、空いてるはずです」

「いや、そんな、初対面なのに、そこまで」

「大丈夫、大丈夫。私、高橋さんとは顔なじみだから」

 澄子は、すでに席を立っていた。

「このまま夜の町をふらふらしてたら、それこそ風邪ひいちゃいます。ね、行きましょう」


 渉は、迷った。

 断るべきなのだ、と頭ではわかっていた。

 ここは自分のいるべき時代ではない。

 深く関わってはいけない。

 母と、父と、接点を持ってはいけない・・そう思う理性が、かろうじて声を上げていた。

 けれど、目の前に立つ澄子は、あまりにも自然に、手を差し伸べていた。

 渉は、その手を取らなかった。

 ただ、ゆっくりと立ち上がった。

「・・お言葉に、甘えます」

「やった」

 澄子は小さく笑って、カウンターの方へ振り返った。

「マスター、ごちそうさまでした。この人の分も、私が」

「いえ、それは」

 渉は慌てて財布を出そうとした。

 けれど、澄子は、さっさとカウンターで百円玉を二枚と十円玉を数枚、並べていた。

「いいんです。今日は私が持ちます。その代わり、今度は渉さんが、ご馳走してくださいね」

 その「今度」という言葉が、渉の胸に静かに落ちた。


 マスターは、百円玉を受け取って、ゆっくりと一度頭を下げた。

 そして、渉の方を見て、初めて口を開いた。

「・・また、いらっしゃい」

 低い、穏やかな声だった。

 それだけだった。

 何も聞かず、何も言わず、ただそれだけを、渉の背中に置いた。

「はい。ありがとうございました」

 渉は、深く頭を下げた。

 ストーブのそばの椅子から、まだ少し湿っているコートを取って、袖を通した。

 ウールの冷たさが肩に触れたが、体の芯にはまだ、さっきの温もりが残っていた。


 扉を開けると、からん、と鈴が鳴った。

 外の空気は、冷たく澄んでいた。

 雨はほとんど上がって、路地のアスファルトが、街灯の光を濡れた鏡のように映している。

 庇の端から、最後の雨垂れが、ぽつりぽつりと落ちていた。


 澄子が、傘を手に持って、先に外へ出た。

「こっちです」

 彼女は振り返って、手招きをした。

 橙色の街灯の下で、赤いセーターが、柔らかく光った。

 肩のあたりに雨粒が残っていて、それが小さな宝石のように光っていた。

 渉は、その後ろ姿を見た。

 肩の線、髪の揺れ、歩くときの少し右に傾く癖。

 一歩ごとに、胸の中で、何かが静かに満ちていく。

 渉は、扉を後ろ手に閉めた。

 鈴が、もう一度小さく鳴った。


 庇の下を出て、澄子の隣に並んだとき、彼女が横目で渉を見上げて、言った。

「渉さんって、不思議な人ですね」

「そうですか」

「うん。初めて会ったのに、なんだか、昔から知ってるみたいな気がする」

   渉は、足を止めそうになった。

   息を、ゆっくり吸って、吐いた。

「・・気のせいですよ」

 そう答えた声は、自分でも驚くほど、静かに響いた。

「そうかな。そうかもしれませんね」

 澄子は笑って、前を向いた。


 二人は、濡れた路地を、並んで歩き出した。

 背後で、珈琲ことぶきの窓の明かりが、少しずつ遠ざかっていく。

 ガラスの向こうに、コーヒーを淹れるマスターの影が、小さく揺れていた。

 渉は、一度だけ、振り返った。

 庇の布が、街灯の光の中で、深い小豆色に光っていた。

 焙煎の匂いと、煙草の匂いと、ストーブの熱が、まだ、衣服のどこかに残っていた。

 その匂いが、渉の胸の奥の、何も入っていなかった場所を、そっと満たしていた。


 三十八年かけて空けてきた場所に、初めて、何かが灯った。

 渉は前を向いた。

 前を歩く赤いセーターの背中を、見失わないように、歩いた。

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