第四話 一九八三年
雨が、降っていた。
最初に感じたのは、それだった。
顔に当たる雨粒。
アスファルトを叩く音。
靴の裏に伝わる地面の感触。
渉は目を閉じたまま、それらを一つずつ確かめた。
自分がまだここにいることを、感覚が少しずつ教えてくれていた。
目を開けた。
交差点だった。
同じ交差点だ、と渉は思った。
同じ十字路で、同じ場所に立っている。
横断歩道の白線が、濡れて光っている。
そこまでは同じだった。
しかし何かが、違った。
渉はゆっくりと顔を上げた。
右を見た。
左を見た。
前を見た。
違う。
全部、違う。
信号機が、違った。
渉が知っている薄型のLED信号機ではなく、丸みを帯びた古い型の信号機が、錆びかけた支柱の上に立っていた。
電球が、黄色みがかった光で青を灯している。
じわりとした、温かみのある青だった。
今の信号機が出すような、均質な冷たい光ではない。
電柱が、違った。
木製の電柱が並んでいた。
コンクリートではなく、黒ずんだ木が、道の両側に等間隔に立っている。
電線が何本も引かれていて、それが雨の中でかすかに揺れていた。
建物が、違った。
さっきまで空き地だったはずの場所に、小さな金物屋が立っていた。
看板は手描きで、黒いペンキが少し滲んでいた。
隣には、記憶にない洋品店がある。
ショーウィンドウに、セーターが数枚飾ってあった。
値札が外から見えた。
千二百円、と書いてあった。
渉は動けなかった。
立ったまま、目だけを動かした。
商店街の方を見た。
アーケードが見えた。
錆びたトタン製の屋根が、道の上に伸びている。
その下に、いくつかの店が並んでいた。
明かりが灯っている。
夕方の商店街が、雨の中でにぎわっていた。
傘をさして歩く人々の姿が見えた。
コートを着た人、厚手のセーターを着た人。
みな、どこか違うかたちをしていた。
コートの型が、ジャンパーの色が、靴の形が、いちいち渉の知っているものと微妙にずれている。
道を自転車が走り抜けた。
荷台に板が渡してある、古い実用自転車だった。
金属製のカゴが前についていて、中に野菜が詰まっていた。
乗っているのは前掛けをした中年の男で、ペダルを踏みながらすごい勢いで走り去っていった。
渉の横を通る時、濡れたタイヤの水しぶきが飛んできた。
渉は思わずよけた。
水しぶきは本物だった。
冷たく、確かに顔に当たった。
これは、夢ではない。
渉はそう思った。
夢にしては、感覚が鮮明すぎた。
雨の冷たさも、アスファルトの匂いも、水しぶきの感触も、全部本物だった。
夢というのは感覚が曖昧なものだ。
しかしこれは、何もかもが鮮明で、重さがある。
では、何なのか。
答えが出なかった。
出なかったが、目の前にある事実だけが、確かにそこにあった。
遠くで、有線放送の音がした。
商店街の奥から、スピーカーを通した音楽が流れてきていた。
女性の声で、明るいポップスだった。
歌詞が聞き取れないが、メロディーが懐かしいような気がした。
渉は耳を澄ました。
聴いたことがある、という確信はなかった。
しかしどこかで、こういう音楽を聴いたことがあるような気がした。
それがなぜかは、すぐにはわからなかった。
渉は一歩踏み出した。
とにかく、動かなければならない、と思った。
この場所に立ち続けていても、何もわからない。
意識がここにある。
身体がここにある。
ならばまず、動く。
それだけのことだった。
横断歩道を渡り切って、歩道に上がった。
歩道のタイルが、今の時代のものとは違った。
六角形の赤茶色いタイルが敷き詰めてあって、目地に苔が生えていた。
渉はそれを見下ろしながら、奇妙な落ち着きを感じた。
これを見たことがある。
記憶の奥にある、子どもの頃の道の感触と、これが一致する。
三歳以前の記憶は映像にならない。
しかし足の裏の感触として、どこかに残っていたのかもしれなかった。
商店街へ向かって歩いた。
歩きながら、渉は周囲を観察した。
意識的に観察しようとした。
何年なのかを知りたかった。
金物屋の前に、チラシが貼ってあった。
「歳末特価市 十二月一日より」と書いてある。
十二月はもうすぐだ。
渉が帰省したのも、十一月の末だった。
洋品店の前に、カレンダーがかかっていた。
渉は立ち止まって、そのカレンダーを見た。
月が大きく書いてある。
十一月。
その上に、年が書いてある。
渉は目を細めた。
一九八三年。
昭和五十八年、と括弧書きで添えてある。
渉は、その数字を、二度読んだ。
一九八三年。
父と母が、まだ生きていた年だ。
足が止まった。
頭の中で、何かが音を立てたような気がした。
一九八三年の十一月。
父と母の命日は十二月七日だが、それはまだ何年も先のことだ。
今日が何日なのかを、まだ確かめていない。
渉は意識して、息を吸った。
肺に冷たい空気が入ってきた。
雨と、石炭かコークスの燃えるような匂いが混じっていた。
どこかで何かを燃やしているのだろう。
この匂いも、知っているような気がした。
しかし今の東京では、こういう匂いを嗅がない。
もう何十年も前に消えた匂いだ。
それが今、確かにここにある。
商店街のアーケードに入った。
屋根のおかげで雨が止んだ。
渉は傘を持っていないことに今更気づいた。
コートがかなり濡れていた。
しかし、それを気にする余裕が今はなかった。
アーケードの中は、人が多かった。
夕方の買い物時だろう、主婦らしき人たちが各店を回っている。
エプロン姿の人もいた。
籠を腕にかけた人もいた。
買い物袋は、布製か、あるいは網袋だ。
ビニール袋を持っている人がいない。
渉はそれに気づいて、また足が止まりそうになった。
魚屋があった。
店先に魚が並んでいた。
氷の上に、アジ、サンマ、鯛が並べられている。
値段が手書きで書いてあった。
「サンマ 三尾で百五十円」。
店のおじさんが、客と話しながら魚をさばいていた。
包丁の音がして、濡れた石の上に鱗が光っていた。
その匂いが、アーケード全体に漂っていた。
魚と氷と、何か少し古い木の匂いが混じった、湿った匂い。
渉は、その匂いをゆっくりと吸い込んだ。
なぜかはわからないが、この匂いが、渉の胸の中の何かを揺らした。
記憶ではない。
記憶になる前の、もっと古いものだ。
感情の前段階のような何かが、この匂いの中に動いた。
煙草屋があった。
間口が狭く、木製の棚にセロファン包みの煙草が並んでいた。
おばあさんが一人、番台のような場所に座っていた。
渉が通り過ぎる時、おばあさんと目が合った。
渉は会釈した。
おばあさんも小さく頭を下げた。
その隣に、本屋があった。
本屋は、渉の記憶にある場所と同じ場所にあった。
今の時代にはもうない。
駐車場になっていた。
しかしここには確かに本屋がある。
間口二間ほどの小さな本屋で、店先に文庫本が並べてあった。
少年漫画雑誌が束で積まれている。
一番上に「少年ジャンプ」の文字が見えた。
渉は思わず立ち止まった。
本屋の棚に並ぶ文庫本を見た。
背表紙を読んだ。
知っている本がある。
自分が編集者として関わる前から読んでいた作家の、初期の本がある。
その本は今、渉の本棚にある。
もう何年も前に買った、古い文庫本だ。
それが今ここで、新刊として棚に並んでいる。
色褪せていない、新しい本として。
渉はその文庫本をそっと手に取った。
手が、かすかに震えていた。
奥付を開いた。
昭和五十八年十一月二十日 初版発行。
渉は本を棚に戻した。
十一月二十日初版。
今が十一月の末なら、これは出て間もない本ということになる。
渉は本屋を出て、少し先の柱に背中を当てて立った。
深く息を吸った。
一九八三年。
昭和五十八年。
渉が生まれる三年前だ。
父が二十五歳で、母が二十三歳の年だ。
その二人が、まだ生きている。
命日は、まだ何年も先だ。
二人は、間違いなく生きている。
渉はその考えが頭に浮かんだ瞬間、自分でも驚くほど、胸が強く動いた。
動いた、という表現が最も近い。
何かが動いた。
感情の名前がまだなかったが、それは確かに渉の胸の中にあって、動いていた。
父と母が、今この町のどこかにいる。
そう思った瞬間に、別の考えが続いて来た。
しかし俺は、その二人の顔を知らない。
小さく古い写真の中の、滲んだ顔しか知らない。
町を歩いていて、すれ違っても、わからない。
渉はアーケードの柱に背中をつけたまま、人の流れを見ていた。
買い物帰りの主婦が通る。
学校帰りらしき子どもが二人、傘を引きずりながら走っていく。
作業着を着た男が、自転車を押して歩いてくる。
みな、それぞれの夕方の中にいる。
それぞれの一九八三年の、当たり前の夕方の中にいる。
渉だけが、ここに属していなかった。
それは当然のことだ。
渉は二〇二四年から来た人間だ。
ここに属しているはずがない。
しかし、不思議なことに、この場所の空気は渉を拒んでいなかった。
誰も渉を奇妙に見ていない。
あの自転車の男も、本屋のおばあさんも、魚屋の客も、渉を見て変だとは思っていない。
ただの通行人として見ている。
渉は自分のコートを見下ろした。
二〇二四年に買った、普通のウールコートだ。
何かがおかしいわけではないだろう。
よく見れば違うかもしれないが、さっと目に入る分には普通の黒いコートだ。
マフラーも普通だ。
靴が少し違うかもしれないが、気づかれていない。
とにかく、今は浮かばなかった。
それだけは確かだった。
有線放送の音が、また聞こえてきた。
今度は別の曲だった。
ゆっくりしたテンポで、女性が歌っている。
歌詞がかすかに聞き取れた。
「あなたを待ちながら・・」という言葉が聞こえた。
渉はその声を、しばらく聞いた。
聴いたことがある声だ、と思った。
声の質が、どこかで聞いたことがある。
しかしそれが誰なのかは、すぐにはわからなかった。
知っているような気がする。
ただ、なぜ知っているような気がするのかが、わからなかった。
雨が、アーケードの屋根を叩いていた。
トタン板に当たる雨音は、少し金属的で、リズムがあった。
渉はその音を聞きながら、これからどうすればいいのかを、ぼんやりと考えた。
帰りたい、という気持ちはあった。
しかしどうやって帰るのかが、わからない。
来た時と同じ交差点に戻れば帰れるのか。
それともそう単純ではないのか。
あるいは。
あるいは、ここに来るべき理由が、自分にはあるのかもしれない。
そういう考えが、渉の頭にするりと入ってきた。
なぜそう思ったのか、根拠はなかった。
ただ、思った。
来るべき理由。
父と母が、この町のどこかにいる。
その二人の顔を、渉は知らない。
声を知らない。
匂いを知らない。
三十八年間、写真の中の滲んだ顔だけを知っていた。
その二人が、今、この雨の中に、生きている。
渉は、コートのポケットに手を入れた。
叔母の家から借りた、ウールのグレーの手袋の感触があった。
渉は、その感触を確かめながら、雨のアーケードを見ていた。
何をすべきかは、まだわからなかった。
しかし、動かないわけにはいかなかった。




