第三話 雨の交差点
翌朝、渉は早く目が覚めた。
六時になるかならないかのことで、障子の向こうがまだ薄暗かった。
布団の中で少し体を動かすと、綿がくたびれた感触が体全体に伝わった。
叔母の家の客間の布団は、昔から変わらない。
渉が高校生の頃から同じ布団。
匂いも変わらない。
古い綿と、干した時の微かな日光の残り香。
こういうものを嗅ぐたびに、渉は体のどこかが緩む感覚を覚える。
懐かしい、というより、もっと原始的な何かが落ち着く感じだ。
天井の節を見た。
暗がりの中でも、節の位置は変わらない。
左側に大きめの節が一つ、右の奥に小さな節が一つ。
いつもと同じ場所に、いつもと同じ形をして、節はそこにある。
渉はこの節に、子どもの頃ずいぶん話しかけた気がする。
眠れない夜に、相手もなく、ただ天井に向かって黙って何かを訴えていた。
何を訴えていたのかは覚えていないが、訴えていた、という感覚だけが残っている。
目を閉じた。
昨夜の叔母の話が、まだ頭の中に残っていた。
十二月の、雨の夜。
二人が歩いて帰った道。
交差点。
渉はその夜、この家で眠っていた。
同じ町の中に、同じ夜の中に、自分はいた。
それが今朝も、変わった重さで胸に乗っていた。
交差点、という言葉が、頭の中で何度も繰り返されていた。
それを止めることができなかった。
朝食は六時半過ぎに始まった。
叔母がみそ汁と、厚揚げを焼いたものと、漬物と、白飯を用意していた。
渉がテーブルに着くと、「食べなさい」とだけ言って叔母も向かいに座った。
台所からだしの香りがまだ漂っていた。
豆腐と油揚げのみそ汁で、一口飲むと体の中心から温かくなった。
厚揚げは焦げ目がついていて、醤油を一滴たらすと煙が上がった。
こういう朝食を東京で食べることはない、と渉はぼんやり思った。
自分の生活には、こういう時間がない。
外が少しずつ明るくなっていた。
庭の枯れ木の向こうに、冬の空が白く広がっている。
寒そうな空だった。
昨日より雲が多い。
渉は窓を見ながら箸を動かした。
「今日はいつ帰るの」と叔母が聞いた。
「午後には東京に戻ります」
「じゃあ、午前中は自由でしょう」
「はい」
「どこかに行くの」
渉は少し間を置いてから「行ってみようかと思います、あの交差点」と言った。
叔母は何も言わなかった。
みそ汁を飲んだ。
碗を置いて、漬物を一切れ食べた。
急かすことも、引き止めることもしなかった。
しばらく、二人は黙って食べた。
叔母が「行くなら、商店街の端まで行って左に曲がりなさい。信号が見えたら、そこよ」と言った。
「知ってます」と渉は言った。
「知ってるのね」と叔母は言った。
それ以上は、何も言わなかった。
九時を過ぎたころ、渉は叔母の家を出た。
コートを着て、マフラーを巻いた。
玄関で靴を履いていると、叔母が台所から「手袋は」と声をかけてきた。
「忘れました」と渉は言った。
少し間があって、「そこの棚の上にあるから使いなさい」と叔母が言った。
棚の上を見ると、ウールのグレーの手袋があった。
誰のものかはわからなかったが、渉はそれをつけた。
少しだけ大きかった。
外に出ると、空気が思ったより冷たかった。
吸い込むと、鼻の奥がひりつく冷たさだ。
渉は一度深く息を吸って、白い息を吐いた。
足元のアスファルトが、霜で白みがかっていた。
日向に出ればそのうち溶けるだろうが、今はまだ地面が冬の色をしている。
叔母の家から商店街の方向へ、渉は歩き始めた。
知っている道だった。
子どもの頃に毎日のように歩いた道で、三十年経った今も、足が覚えている。
どこで右に曲がって、どこの路地を抜けるか。
頭で考えるより先に、足が動く。
知らず知らずのうちに体が覚えていた道、というものがある。
渉にとって、この町の道がそれだった。
東京では、まだそういう道に出会っていない。
商店街に入ると、午前中の静かな空気があった。
シャッターがまだ閉まっている店が半分ほどある。
開いている店は、のぼりを出したり、店先を箒で掃いていたりしていた。
八百屋の前に大根と葱が並んでいた。
大根は土がまだついていて、葱は根が長いまま束ねてあった。
渉は子どもの頃、この八百屋の前でよく立ち止まった。
店のおじさんが時々、みかんを一個くれた。
手のひらに乗せてくれた、ずっしりしたみかんの重さを渉は今でも何となく覚えている。
おじさんの顔も名前も思い出せないが、あの重さだけが、体のどこかに残っている。
商店街を歩きながら、渉は少し不思議な感覚を覚えた。
建物が変わっている。
シャッターになってしまった店が多い。
以前は電器屋だったところがコインランドリーになっている。
本屋だったところが更地の駐車場になっている。
豆腐屋は残っているが、のれんが新しくなっている。
のれんまで新しくなるのか、と渉は思った。
どこかで豆腐屋ものれんを変えるのだ。
それでも、道の形は変わっていない。
右側のブロック塀の角の欠け方も、左側の電柱が少しだけ斜めに傾いているのも、渉の記憶と一致する。
道そのものが、子どもの頃の自分を繋ぎ止めていた。
商店街の端まで来た。
突き当たりを左に曲がる。
叔母が言っていた通りだ。
右に曲がれば川に出る。
左に曲がると、少し細い道になって、住宅が続く。
渉は立ち止まった。
角の手前に、古い電柱があった。
電柱の下に、小さな花が一束、置かれていた。
プラスチックのラッピングに包まれた、白い菊。
枯れかけているが、まだそこにある。
誰かが置いたものだろう。
誰が、なぜここに、と渉は一瞬思ったが、すぐに歩き出した。
左に曲がった。
道が細くなった。
両側に家が続く。
庭に出た犬が一匹、渉を見て一声吠えて、すぐに引っ込んだ。
誰かの家の勝手口から、みそ汁の匂いがした。
まだ朝食の時間の家があるのだろう。
渉はその匂いを横切りながら、さっき叔母の家で飲んだみそ汁を思い出した。
同じような匂いだった。
少し先に、交差点が見えた。
信号機が一本、街灯が一本。
周囲に古い家が数軒。
小さな交差点だった。
渉は歩を緩めた。
意識的に緩めたわけではなかった。
足が自然に遅くなった。
近づくにつれて、胸のあたりに何かが重なってきた。
重くなる、というより、密度が上がる感じだった。
息がわずかに詰まった。
渉は「大丈夫だ」と声に出さずに自分に言い聞かせた。
理由のわからない不安を感じていた。
あるいは、理由はあるのに、それをまだ言葉にできていないだけかもしれなかった。
交差点の手前二十メートルほどのところで、渉はもう一度足を止めた。
その交差点を、少し遠くから眺めた。
何もない。
小さな十字路。
信号機は青になったり赤になったりを繰り返している。
車は今は来ていない。
この時間帯、この道を車で通る人間がそれほどいないのだろう。
周囲の家から、朝の生活の音がかすかに聞こえる。
テレビの音。
水道の音。
どこかで犬が吠えて、止んだ。
父と母が死んだ場所。
渉は静かに思った。
雨の夜に、二人はこの交差点を渡ろうとして、渡れなかった。
その事実だけが、この場所にある。
今は何もない。
ただの交差点。
しかし三十五年前の夜、その人たちがここにいた。
最後の瞬間に、ここに立っていた。
渉は叔母が毎年ここに来ていることを思った。
花を持って、一人で来ていた。
渉が一度も来なかった三十五年間も、叔母は来ていた。
それがどういうことなのか、渉にはうまく理解できないような気がした。
一人で花を持って来て、そして帰っていく。
その行為の中に何があるのかが、今の渉にはまだわからなかった。
しかし叔母は続けてきた。
それだけは確かだ。
渉はゆっくりと歩いて、横断歩道の手前に立った。
歩道の縁石の前に立って、交差点を見渡した。
信号が赤になっていた。
渉は待った。
何台か車が通り過ぎた。
年配の女性が反対側から渡ってきた。
渉と視線が合いそうになって、女性は少し頭を下げた。
渉も頭を下げた。
女性が通り過ぎて、また静かになった。
信号が青になった。
電子音が鳴り始めた。
しかし渉は動かなかった。
一拍遅れてから、足を踏み出した。
横断歩道に足を乗せた。
白い線の上を、渉は歩いた。
アスファルトが霜で少し滑りやすくなっていた。
渉は注意しながら歩いた。
一歩、二歩、三歩。
足の裏に、この道の感触があった。
それだけが確かだった。
中央に来た時、渉は止まった。
止まろうと思ったわけではなかった。
ただ、足が止まった。
なぜ止まったのか、わからなかった。
しかし体が止まることを決めていた。
横断歩道の中央に立って、渉はそこから動けなかった。
周囲の音が、耳に入ってくる。
電子音が終わって、信号が変わる音がした。
また赤になったのだろう。
遠くで車のエンジン音がした。
しかし渉は動かなかった。
自分がなぜここに立っているのか、これから何をするのか、すでにわからなくなっていた。
ただ、立っていた。
その瞬間だった。
空からぽつりと冷たいものが当たった。
渉は顔を上げた。
灰色の空が広がっている。
また一粒。
それから立て続けに、細かい雨が降り始めた。
傘を持ってこなかった。
渉はコートの前をかき合わせて、それでも動かなかった。
雨が、少しずつコートと肩を濡らしていく。
そのとき、渉は気づいた。
音が、遠くなっていた。
テレビの音が。
水道の音が。
犬の声が。
車のエンジン音が。
さっきまでそれなりに耳に届いていた街の音が、すべて遠のいていく。
遠のくというより、薄くなっていく。
まるで誰かが音量つまみをゆっくりと回しているかのように、世界の音が均等に引いていく。
雨の音だけが少し残っていた。
アスファルトを叩く細かい音。
コートの肩に当たる音。
それも、しだいに遠ざかっていく。
渉は周囲を見回した。
街の輪郭が、にじんでいた。
にじんでいる、というより、揺れていた。
交差点の向こうの家が、信号機が、街灯が・・わずかに揺れていた。
実際に動いているはずはない。
しかし渉の目には、そう見えた。
固定されているはずのものが、境界を失いかけているように見えた。
建物の角が、電柱の線が、隣の家の屋根の形が、すべてがわずかに溶け始めているかのようだった。
これはおかしい、と渉は思った。
しかし「おかしい」という感覚が、普通の意味でのおかしさとは違った。
恐怖がなかった。
恐怖があるはずなのに、なかった。
あるのは、静けさだった。
普通ではないことが起きているのに、渉の胸の中は静かだった。
むしろ、今まで感じたことのない静けさが急速に胸の中に満ちてくる感じがした。
それは怖いものでなく、どこかで待っていたような静けさだった。
街灯の光が、滲んだ。
夜ではないから街灯は点いていない。
しかし渉には、街灯の光が滲んで見えた。
点いていない灯りが、光を放っているように見えた。
それが円く広がって、にじんで、輪郭を失っていく。
雨粒がその光の中を落ちていた。
細かい、たくさんの、光の粒のように見えた。
綺麗だ、と渉は思った。
それを思ったことが少し不思議だったが、確かに思った。
こんな状況で、この感覚は何だろう、と渉は考えようとした。
しかし考える前に、次のことが来た。
身体が、軽くなっていった。
軽くなる、というより、重さという概念が薄れていく感じだった。
足の裏から地面の感触が、ゆっくりと遠のいていく。
それでも立っている、という感覚はある。
どこかに、立っている。
ただ、自分がどこに立っているのかが、曖昧になっていく。
この交差点か。
それとも別の場所か。
渉には、わからなくなっていた。
目を閉じた。
閉じようとしたのか、自然に閉じたのかは、わからなかった。
暗くなった視界の中に、街灯の光の残像がしばらくあった。
円い、滲んだ光。
それがだんだんと薄れていく。
薄れながら、どこか遠くへ移動していくようだった。
光が遠ざかる。
ではなく、渉が光から離れていく感覚だった。
どこへ、という方向がない離れ方だった。
雨の音がした。
ほんの少し、雨の音がした。
細かい雨がアスファルトを叩く音。
先ほど聞いていた音と同じだ。
しかし何か、違うような気もした。
音の質が、さっきとほんのわずかに違う。
アスファルトの質が違うのか、雨の落ち方が違うのか、あるいは渉の耳が変わったのか。
それを確かめようとした瞬間に、その音も消えた。
音がなかった。
光がなかった。
重さがなかった。
渉がいた、ということだけが、かろうじてあった。
渉はどこかにいた。
あの交差点にいるはずだった。
いるのか、いないのか、もうわからなかった。
しかし・・いる、と渉は思った。
どこかに、いる。
それだけは確かだった。
どのくらいの時間が経ったか、わからない。
一秒かもしれない。
あるいは一時間かもしれない。
時間という概念が、その間どこかに行っていた。
・・雨が、降っていた。
渉は目を開けた。
雨が降っていた。
それだけは同じだった。
ただ、雨が降っていた。




