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第二話 遺影の輪郭

 台所に立っている叔母の後ろ姿は、去年より少し小さくなっていた。

 渉は居間の縁側に近い場所に立って、その背中を見ていた。

 叔母はガスコンロの前で何かを温めていた。

 ホーロー引きの小さな鍋が、コンロの上でかすかに音を立てている。

「座ってなさい。すぐ出すから」

 振り向かないまま叔母が言った。

 渉は「はい」と言って、居間に戻った。


 こたつが出ていた。

 赤い天板のこたつで、渉が子どもの頃から使っているものだ。

 年に一度この家に来るたびに、冬の間はこれが部屋の中心にある。

 渉はこたつの縁に手をついて座り込んだ。

 足元にじんわりと温かさが来た。

 外の寒さが、少しずつ身体から抜けていく。


 部屋を見回した。

 柱時計が壁にかかっていた。

 文字盤は白く、針は黒い。

 渉が小学生の頃から同じ場所にある時計で、秒針の音が一定のリズムで部屋に満ちていた。

 テレビの横には昔ながらの木製の棚があって、そこに叔母が好きな陶器の置物と、写真立てが並んでいた。

 写真立ての中に渉の子どもの頃の写真がある。

 ランドセルを背負った写真と、運動会らしき写真。

 それを見るたびに渉は少し気まずいような、しかし悪い気もしない、奇妙な気持ちになった。


「ほら」

 叔母が盆を持って入ってきた。

 湯飲みが二つと、小皿に沢庵が何枚か乗っていた。

「夜遅いから、ご飯は軽いものにした。朝はちゃんと食べさせるから」

「ありがとうございます」

「礼を言わなくていいの、こんなことで」

 叔母はそう言って、渉の向かいにこたつに入った。

 小さな人だ、と渉は思った。

 背は渉より二十センチ以上低い。

 しかし声には揺るぎがある。

 この人を「小さい」と感じたことは、子どもの頃も今も、ない。


「それ、しばらくして出すから」

 叔母は台所を顎で示しながら言った。

「鮭を少し焼いてる。冷蔵庫にあったから」

「わざわざ」

「わざわざじゃないの。私も食べるから」

 渉は湯飲みを両手で包んだ。

 ほうじ茶の香りがした。

 この家の茶は昔からほうじ茶だ。

 渉は今もほうじ茶が好きだが、それがこの家の影響なのかどうか、自分ではわからない。

 しばらく、二人はそれぞれ茶を飲んだ。

 叔母が沢庵を一枚取って、音を立てて噛んだ。

 渉も一枚取った。

 しっかりと漬かった、酸味と塩気のある沢庵だった。


 台所で何かが焦げ始める前に、叔母が立ち上がった。

 しばらくして、鮭の塩焼きが運ばれてきた。

 皿の上で皮がぱりっと焼けていて、そこだけわずかに煙が出ていた。

 ご飯の茶碗も一緒に来た。

「食べながら話しましょう」と叔母は言った。


 二人で向かい合って食べた。

 叔母が「お仕事はどう」と聞いた。

 渉は「まあまあです」と答えた。

「まあまあって何」と叔母は聞いた。

「悪くはないです、でも最近少し、読む速度が落ちてる気がする」と渉は言った。

 叔母は「歳を取ると目が疲れるものよ」と言った。

 渉は「それとは少し違う気がしますが」と言って、鮭の身をほぐした。


「美咲さんとは」

 叔母が聞いた。

「どうというか」

「会ってるの?」

「会ってます」

「それだけ?」

 渉は茶碗を置いた。

「それだけって、どういう意味ですか」

「どんな感じかって聞いてるの」

 渉はしばらく鮭を見ていた。

「まあ、そういうもんだろという感じです」

 叔母が少し眉を上げた。

「それはどういう意味?」

「うまく言えないんですが」

「うまく言えないことを、『まあそういうもんだろ』で片付けるの、あなたの悪い癖よ」

 渉は何も言わなかった。

 叔母は茶を一口飲んで、それ以上追及しなかった。


 食事が終わって、食器を台所に運んだ。

 叔母が洗うと言って、渉は台所の入り口に立って手伝おうとした。

「邪魔だから向こうで待ってなさい」と言われた。

 渉はまたこたつに戻った。

 柱時計が十時を打った。

 低い、落ち着いた音だった。

 渉はその音を聞きながら、子どもの頃にも同じ音を聞いたことを思った。

 この家で眠れない夜に、暗い部屋でこの時計が時間を刻む音を聞いていた。

 そういう夜が、何度かあった。


「渉」

 叔母が台所から声をかけた。

「はい」

「今夜、話してしまおうと思ってたんだけど、もう少し後でいいかしら。先に仏壇に挨拶しておいで」

 渉は「わかりました」と言って、立ち上がった。


 仏壇のある部屋は、居間の奥にある六畳の和室だった。

 ふすまを開けると、線香の匂いがした。

 薄く、古い匂いだ。

 叔母が毎日線香を上げているのだろう。

 部屋の中は暗かった。

 渉は入り口の傍らにある電気のスイッチを入れた。

 古い蛍光灯が、一瞬遅れて点いた。


 仏壇は部屋の奥に置かれていた。

 小さな仏壇だった。

 黒塗りで、扉が両開きになっている。

 渉が子どもの頃からここにある仏壇で、こんなに小さかったのかと毎回思う。

 子どもの頃はもっと大きく見えた。


 仏壇の前に正座した。

 蝋燭を点けて、線香を一本立てた。

 マッチを擦ると、小さな炎が生まれて、線香の先に移った。

 細い煙が真上に昇っていく。

 渉は手を合わせた。

 特に言葉は出てこなかった。

 いつもそうだ。

 何を言えばいいのかがわからない。

 ただ、目を閉じて、しばらくそこにいた。


 目を開けた時、視線が自然に遺影に向かった。

 二枚の写真が、仏壇の中に収められていた。

 右が父、左が母だ。

 父の写真は、少し色褪せていた。

 全体的に黄みがかっていて、輪郭が甘くなっている。

 スーツを着た男性が、やや斜めを向いて立っている。

 表情は、笑っているのか真剣なのか、写真の状態のせいでよくわからなかった。


 母の写真は、父より少し鮮明だった。

 若い女性が映っている。

 髪は肩くらいまで、顔の形は面長に見える。

 笑っているような気もするが、はっきりとはわからない。


 渉はこの写真を、子どもの頃から何十回と見てきた。

 帰省のたびにここに座って、手を合わせてきた。

 それでも、この二人の顔が自分の中で像を結んだことは一度もなかった。

 写真の中の人物が、生きた人間の顔として渉の記憶と結びつかない。

 父と母という概念の象徴として、二枚の写真はそこにある。

 それが渉には、ずっとそういうものだと思ってきた。


 どのくらいそこにいたのか、わからない。

 気づいた時、叔母が渉の隣に来て正座していた。

「線香、一本じゃ足りないわよ。あなた、毎回一本しか上げないから」

「そういうものじゃないんですか」

「うちはそういうもんじゃないの」

 叔母が線香を三本取って、火をつけた。

 煙が増えた。

 渉はもう一度手を合わせた。


「渉」

 叔母が写真を見ながら言った。

「あなた、お父さんに似てきたわ」

 渉は少し驚いた。

「そうですか」

「眉間の感じが。怒ってるわけじゃないのに皺が寄る癖、お父さんもそうだった」

 渉は自分の眉間に触れてみた。

 確かに皺がある。

 いつからそうなのか、自分ではわからなかった。

「知らなかったです」と渉は言った。

「言ったことなかったかしらね」

「ないと思います」

 叔母はそれ以上何も言わなかった。

 写真を見ていた。

 渉も写真を見た。


 二枚の古い写真。

 この中の人たちが、確かに自分を産んだ人たちなのだということは、頭ではわかっている。

 しかし実感が、ない。

 今叔母に「眉間の皺が父に似ている」と言われても、それをどう受け取ればいいのか、渉にはわからなかった。

 ただ、言われた、という事実が、どこかに静かに落ちた。


 仏壇の部屋に戻り、居間でお茶を飲み直した。

 叔母が急須に湯を足した。

 柱時計が十一時前を示していた。

「話、しましょうか」

 叔母が言った。

「はい」

「渉、あなた、事故現場に行ったことある?」

 渉は少し間を置いてから「ない」と言った。

「なぜ」

「なぜ、って」

 渉は答えに詰まった。

 なぜ行ったことがないのか。考えたことがなかったわけではない。

 子どもの頃から何度かそこに行こうと思ったことはある。

 しかしいつも、何かが足を向けさせなかった。

 意識的に避けていたわけでもないが、自然に遠ざかってきた。


「行けなかった、というか」

 渉は言葉を探した。

「なんとなく、近づけなかったんだと思います」

 叔母は黙って渉を見た。

 責めている顔ではなかった。

 何かを確かめているような顔だった。


「あなたのお父さんとお母さんが亡くなったのは」

 叔母は続けた。

「この町の外れにある交差点。今もあの交差点はそのままよ。信号機が新しくなって、周りの家が少し変わったけど、場所は同じ」

 渉は湯飲みを両手で持ったまま、叔母の話を聞いた。

「私は毎年、命日に花を持って行くの。あなたは一度も来なかったでしょう。それでもいいと思っていた。でも最近、それでいいのかしら、と思い始めて」

「どういうことですか」

「あなた、このまま行かないかもしれないでしょう」

 叔母は静かに言った。

「でも私も、いつまでも元気でいられるわけじゃないし。場所だけでも、教えておこうと思って」


 渉はこたつの天板を見た。

 木目が細かく走っている。

「駅の方から来ると、商店街を抜けて、突き当たりを左に曲がった先にある交差点よ。川沿いの道に出る手前。わかる?」

「わかります」

 渉はその道を知っていた。

 子どもの頃、何度も通った道だ。

 商店街の端で叔母と一緒に買い物をして、その帰り道によく通った。

 豆腐屋があって、夕方になると湯気が出ていた。

 電気屋があって、冬になるとショーウィンドウに電気毛布が並んでいた。

 ただ、その先の交差点を意識したことがなかった。

 あるいは、意識しないようにしていたのかもしれなかった。


「行ってみなさい」とは叔母は言わなかった。

 ただ、場所を伝えた。

 それだけだった。

「事故の夜のことは」

 渉は少し間を置いてから言った。

「詳しくは、聞いたことが、なかったです」

「ええ」

「叔母さんも、あまり話したくなかったのかと思って」

「そうね」

 叔母はほうじ茶を一口飲んだ。

「私も、うまく話せなかった。あなたが子どもの頃は特に。大人になってからも、なんとなく」

 渉は待った。


「十二月の夜だった」

 叔母は静かに言った。

「七日の夜。雨が降っていた。あなたのお父さんとお母さんが、うちに来て、帰る途中だったの。夕食を食べていって、少し遅くなった。二人で歩いて帰るって言って、出て行って」

 叔母は少し黙った。


「商店街を抜けて、あの交差点で、車に轢かれた。信号が変わりかけた時に、右から来た車が止まらなかった。二人とも、病院に着いた時にはもう、だめだったって。救急の人がそう言った」

 渉は何も言わなかった。

「あなたはうちにいたの。私の家で寝かせておいた。子どもだったから、起こさなかった。翌朝、どう伝えようかって、それしか考えられなかった」


 叔母の声は静かだった。

 高ぶっていなかった。

 ただ、何年もかけて折り合いをつけてきた事実を、ゆっくりと渡しているような声だった。

「雨の夜だったから」叔母は続けた。

「雨の夜になるたびに、思い出す。今もそうよ」

 渉は湯飲みを置いた。

「ありがとうございます、話してくれて」

「遅くなったけど」と叔母は言った。

「あなたが聞かなかったから、私も言わなかった。どちらが正しかったのか、今もわからないけど」

「正しい、正しくないじゃないと思います」

 叔母が渉を見た。

「そうかもしれないわね」


 その夜、渉は客間に布団を敷いてもらって横になったが、眠れなかった。

 天井を見ていた。

 古い天井板に、節が二つある。

 これも子どもの頃から変わっていない。


 雨の夜の交差点。

 川沿いの道に出る手前。

 渉はその場所をぼんやりと思い浮かべた。

 地図上の場所はわかる。

 しかしそこで何が起きたかを想像しようとすると、うまくできなかった。

 父と母が歩いていたこと、車が来たこと。

 それらは言葉として頭に入ったが、映像にならなかった。

 三歳だった。

 覚えていない。

 しかしその夜の雨は、この町に降っていた。

 渉はこの家にいて、眠っていた。

 同じ夜の同じ町に、自分はいたのだ。

 その事実が、今夜は少しだけ、以前と違う重さで胸に落ちた。


 美咲のことを考えた。

「そろそろ、ちゃんと考えてほしい」という言葉が、まだ耳に残っていた。

 渉は考えようとした。

 しかし考え始めると、いつも同じ場所で止まった。

 家族を作るということが、どういうことなのか、自分にはわからないのだ。

 父と母と、三人で暮らした記憶がない。

 家族というものの手触りを、渉は知らないまま大人になった。

 それが、どこかに響いている気がしていた。

 しかしどこに響いているのかが、今夜もまだわからなかった。

 渉は目を閉じた。


 暗闇の中に、仏壇の遺影が浮かんだ。

 小さく古い、滲んだ写真。

 母の写真の、輪郭だけのような女性の顔。

 渉はその顔を思い浮かべようとして、やはりうまくできなかった。

 いつもそうだ。

 どれだけ見てきても、その顔は自分の中で像を結ばない。


 叔母が言っていた。

 お父さんに似てきた、と。

 眉間の皺が同じだと。

 渉はもう一度、自分の眉間に指を当てた。

 暗闇の中で、皺の感触を確かめた。

 この皺が、父から来ているのかもしれない。

 そう思っても、何かが変わるわけではなかった。

 しかし、何も変わらないわけでもなかった。

 変わったのか変わっていないのか判別できない何かが、今夜の渉の胸の中にあった。


 翌朝、渉は叔母に言った。

「明日、帰る前に行ってみます」

 叔母は何も言わなかった。

 ただ、少し目を細めた。

 台所でお茶を飲みながら、渉はその横顔を見た。

 この人が三十五年間、毎年命日に花を持って交差点へ行き続けていた。

 誰に言われたわけでもなく、渉が一度も来なくても、一人で花を持って行き続けていた。

 渉はそのことを、今まで深く考えたことがなかった。

 考えていなかったのではなく、考えないようにしていたのかもしれない。


「あなたのお父さんはね」叔母がぽつりと言った。

 お茶を飲みながら。

「ほんとに不器用な人だったの。言葉が少なくて、愛情表現が全然できない。でも、やることはやる人だった。いつもそこにいた、という感じの人だったわ」

 渉は「そうですか」と言った。

「あなたを見てると、たまにそっくりだと思う瞬間がある」

 渉は茶碗を持ったまま、答えなかった。

 叔母が笑った。

 小さな、柔らかい笑い方だった。

「同じ口癖まで引き継いでどうするのよ、全く」

「口癖?」

「まあそういうもんだろ、でしょ」

   渉は止まった。

「・・そうですか」

「あなたに教えた覚えはないの。なのにいつの間にか、同じことを言ってる」

 叔母はそれだけ言って、茶を飲んだ。


 渉は窓の外を見た。

 庭に、枯れた木が一本立っていた。

 柿の木だ。

 実は全部落ちていて、枝だけが灰色に乾いている。

 その枝の向こうに、今日の空が見えた。

 昨日より少し明るい、冬の薄い青だった。


 まあそういうもんだろ。

 いつから言い始めたのか、渉にはわからない。

 自分の口癖だと思っていた。

 どこかで覚えた、あるいは自然に身についた言い方だと思っていた。

 父も同じことを言っていた。

 それだけのことだ。

 証明も、確認も、できない。

 ただ叔母がそう言った。

 それだけのことが、今朝の渉の中で、何かをわずかに動かした。

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