第十話 傷跡
翌日の夕方、渉は、ことぶきの扉の前で、しばらく立ち止まった。
小豆色の庇が、冬の薄い光の中で、色を濃くしている。
雨は降っていない。
けれど、空気は、昨日よりも冷たかった。
取っ手に手をかけたまま、渉は、深く息を吸った。
どんな顔をすればいいのか、わからなかった。
一晩中、考えた。
昨夜、あの川沿いの道で起きたことを。
澄子の驚いた顔を。
「私が作った歌なんです」と震えた声を。
そして、自分が母だと知っていることを、この人は、何も、知らないということを。
取っ手を引いた。
からん、と鈴が鳴った。
「いらっしゃい」
マスターの声は、いつもと変わらなかった。
窓際の席に、澄子は、もう、座っていた。
目が合った。
一瞬、二人の間に、気まずい空気が流れた。
けれど、澄子が、先に、ふわりと笑った。
「こんばんは」
「こんばんは」
「寒かったでしょう。今日は、特に」
「ええ。霜が、すごくて」
渉は、向かいの椅子に、腰を下ろした。
ビロードの座面が、ひんやりと冷たかった。
マスターが、何も言わずに、カップを二つ運んできた。
いつものブレンド。
湯気が、白く立ち昇る。
香ばしい焙煎の匂いが、鼻先を、そっと撫でた。
渉は、カップを両手で包んだ。
掌が、少しずつ、温まっていく。
「あの」
澄子が、口を開いた。
「昨日のこと、なんですけど」
渉の心臓が、跳ねた。
「ごめんなさい、変なこと言っちゃって。あのあと、家に帰って、ずっと考えてたんです」
「はい」
「でも、やっぱり、わからなくて。だから、考えるのは、やめることにしました」
澄子は、にっこりと笑った。
「世の中には、わからないことが、いっぱいあるでしょう。わからないままで、いいことも、あるのかなって」
渉は、その笑顔を、見つめた。
目の奥が、熱くなった。
「・・ありがとうございます」
「なんの、ありがとう?」
「いえ。いろいろ」
「変な渉さん」
澄子は、くすくすと笑った。
それだけで、二人の間に、柔らかな空気が、戻ってきた。
窓の外の街灯が、ぽっ、と点いた。
「あ、点いた」
「点きましたね」
二人は、同時に、窓の外を見た。
それから、いつものように、他愛のない話をした。
澄子の職場の同僚が、昼休みに、こたつの夢を見て居眠りしていたこと。
商店街の福引の景品が、今年は、温泉旅行だということ。
年賀状が、まだ半分も書けていないということ。
渉は、笑って、相槌を打った。
けれど、心のどこかでは、ずっと、思っていた。
・・この人が、母だ。
その確信は、もう、揺らぎようがなかった。
子守唄の旋律が、体の奥に、静かに鳴り続けている。
それなのに。
それなのに、心のどこかで、渉は、まだ、逃げ道を探していた。
偶然かもしれない。
似た旋律の歌が、世の中に、あるのかもしれない。
母の声と、澄子の声が、似ているだけかもしれない。
そんなふうに、細い糸を、手繰り寄せようとしていた。
確信を、確信のままにしておくことが、怖かった。
確信してしまえば、もう、戻れない。
それは、渉の、最後の防衛線だった。
十二月の、第三週に入った。
商店街は、年の瀬の、賑やかさに満ちていた。
アーケードの両側に、「歳末大売出し」の幟が、ずらりと並んでいる。
八百屋の店先には、年越し蕎麦用の葱と、蜜柑箱が、山積みになっていた。
魚屋の前には、鰤と鯛と数の子が、氷の上に、艶々と光っている。
「さあ、おせちの準備だよ、お母さん」と、ねじり鉢巻きの主人が、声を張り上げていた。
商店街の中ほどの空き地に、福引の抽選器が置かれていた。
赤い八角形の、ガラガラ回す、あの機械。
順番に並んだ子どもたちが、補助券を握りしめて、固唾を呑んで、ハンドルを回している。
ころん、と玉が出た。
白だった。
「はい、残念。ポケットティッシュ」と、法被姿のおじさんが、笑いながら渡す。
子どもが、がっかりした顔で、ティッシュを受け取った。
郵便局の前の赤いポストの脇には、「年賀状は十二月二十五日までに」と書かれた、大きな看板が立っていた。
渉は、その光景の中を、歩いた。
叔母の家にも、毎年、こんな賑わいが、あったのだろうか。
叔母が、年賀状を、一枚一枚、丁寧に書いていた姿を、思い出した。
炬燵の天板に、ペンと、住所録を広げて。
眼鏡をずらして。
叔母は、今、何をしているだろう。
渉が、突然、いなくなって。
その考えが、胸を、ちくりと刺した。
けれど、渉は、その痛みを、いつものように、胸の引き出しにしまった。
その夜も、ことぶきで、二人は、長く話した。
ストーブの青い炎。
サイフォンの泡立つ音。
壁の丸時計の、金属の針の音。
カップの底に残った、コーヒーの香り。
気がつけば、夜の九時近くになっていた。
「もう、こんな時間」
澄子が、時計を見上げた。
「帰らなきゃ」
「送ります」
「ううん、大丈夫。すぐそこですから」
「いえ、今夜は、送らせてください」
渉は、思わず、強い口調になった。
澄子が、目を丸くした。
「・・じゃあ、お願いします」
二人は、マスターに挨拶して、店を出た。
外は、凍えるように寒かった。
夜空は、深く澄んでいて、星が、鋭く光っていた。
光害のない時代の星は、一つ一つが、はっきりと見える。
オリオンが、東の空に、傾きながら、昇っていた。
路地は、静かだった。
両側の板塀の向こうから、テレビの音と、家族の笑い声が、かすかに漏れてくる。
どこかの家の台所の窓から、煮物の湯気と、醤油の匂いが、流れてきた。
肉屋の前を通ると、まだ、店の灯りがついていた。
ショーケースの中に、ハムやコロッケが並んでいる。
ご主人が、閉店の片づけをしていた。
揚げ油の香ばしい匂いが、路地に漂っている。
豆腐屋の前には、明日の朝の準備か、桶が、きれいに並べられていた。
軒下の電灯が、小さな円を、石畳に落としている。
二人は、肩を並べて、歩いた。
息が、白く、夜気の中に溶けていく。
澄子が、ふと、足を止めた。
「あ」
「どうしました」
「渉さん、手袋、してないんですか」
渉は、自分の手を見た。
右手は、ポケットの中にあった。
左手は、冷たい外気に、剥き出しになっていた。
「ええ。片方、キヨさんの家に、置いてきてしまって」
「だめですよ。凍傷になっちゃう」
澄子は、自分の手袋を、片方、外した。
「はい、貸してあげます」
「いえ、澄子さんが」
「私は、ポケットに入れてれば、平気だから」
彼女は、渉の左手を、掴もうとした。
その瞬間だった。
渉のコートの袖が、ずり上がった。
冷えた外気に、左の手首が、露わになった。
街灯の下で、そこに、小さな、白い線が、浮かび上がった。
三センチほどの、細い、古い傷跡だった。
澄子の動きが、止まった。
「・・これ」
彼女は、渉の手首を、じっと見つめた。
「どうしたの? これ」
渉は、咄嗟に、手を引こうとした。
けれど、澄子の指が、それより先に、手首に、触れた。
その瞬間、渉の全身が、凍りついた。
澄子の指は、冷たかった。
外気にさらされていた、細い指だった。
けれど、その冷たさの奥に、ほんのりとした、柔らかい温もりがあった。
指先が、傷跡を、そっと、なぞった。
ゆっくりと。
一度、二度。
まるで、壊れものに、触れるように。
「痛くなかった?」
澄子が、小さな声で、聞いた。
「・・小さい頃、転んで」
渉の声が、かすれた。
「いつ頃?」
「三歳の頃、だそうです。僕は、覚えていないんですが」
それは、叔母から、聞いた話だった。
縁側から転んで、庭の石に、手首を、切った。
大泣きして、血が出て、叔母が慌てて、病院へ連れて行ったと。
けれど、叔母は、そのとき、何かを、言いかけて、やめたことがあった。
・・その日は、お母さんが、おまえの傍に、いたからね。
そう、言いかけて、叔母は、口を閉ざした。
渉は、その言葉を、ずっと、忘れていた。
今、思い出した。
澄子の指が、傷跡の上を、静かに、往復した。
その触れ方。
爪を立てない、肉の部分だけで、そっと撫でる、あの触れ方。
指の温度。
冷たさの奥に、ゆるやかに広がる、あの柔らかな温もり。
それから、澄子は、渉の手を、両手で、包み込んだ。
左手首を、右の指で支えて、掌を、左の掌で、下から受けるように。
その手の取り方。
渉の全身を、何かが、駆け抜けた。
・・この手を、知っている。
記憶が、ほどけた。
映像ではなかった。
それは、感覚だった。
体の奥の、もっとも深い場所に、ずっと眠っていた、一つの感触だった。
明るい日差しの中だった。
縁側だった。
冷たい石の感触。
じんじんと痛む、手首。
赤いものが、腕を伝って、流れている。
怖くて、痛くて、泣いていた。
声を、限りに、泣いていた。
誰かが、駆け寄ってきた。
柔らかい手が、小さな手首を、そっと、取った。
その手は、温かかった。
血に濡れた手首を、少しも、恐れずに、包み込んだ。
・・大丈夫、大丈夫。
声が、降ってきた。
・・すぐ、治るからね。
ちゃんと、治るからね。
その声は、泣いていた。
泣きながら、笑おうとしていた。
その手が、いつまでも、いつまでも、小さな手首を、離さなかった。
渉は、息を、吸った。
肺が、痛かった。
「ちゃんと、治ってるね」
澄子が、言った。
渉は、顔を上げた。
澄子が、渉の手首を見つめたまま、静かに、微笑んでいた。
その声は、柔らかかった。
傷跡を、見つめる目が、驚くほど、優しかった。
その言葉は、澄子が、何かを意図して、言ったのではなかった。
ただ、傷跡を見て、自然に、口をついて出た言葉だった。
けれど、渉にとっては、決定的だった。
・・ちゃんと、治るからね。
・・ちゃんと、治ってるね。
三十五年の時間を隔てて、二つの声が、重なった。
何かが、壊れた。
渉の中で、守ってきた、最後の防壁が、音もなく、崩れ落ちた。
偶然ではない。
似ているのでもない。
この人は、母だ。
間違いなく、母だった。
子守唄だけなら、まだ、逃げられたかもしれない。
けれど、この手は。
この指の温度は。
この、傷跡を撫でる、愛おしそうな触れ方は。
これは、母の、手だった。
かつて、血に濡れた小さな手首を、迷わずに、包み込んだ、あの手だった。
渉の視界が、じわりと、滲んだ。
涙が、込み上げてきた。
街灯の灯りが、にじんで、丸く、広がった。
渉は、唇を、噛んだ。
泣いてはいけない、と思った。
泣いたら、この人が、不審に思う。
心配する。
問いかけてくる。
そうしたら、もう、取り繕えなくなる。
「ええ」
渉は、やっとの思いで、それだけを、答えた。
声が、震えていた。
澄子は、渉の顔を、見上げた。
目が、わずかに、見開かれた。
「渉さん、泣いてる?」
「いえ。寒さで、目が、しみて」
「そう?」
澄子は、少し首をかしげた。
けれど、それ以上、追及しなかった。
彼女は、渉の左手を、そっと、両手で包んだまま、自分の手袋を、渉の掌に、はめ込んだ。
毛糸の手袋が、渉の左手を、すっぽりと、覆った。
まだ、澄子の掌の温もりが、毛糸の中に、残っていた。
「これで、温かいでしょう」
「・・はい」
「じゃあ、行きましょう」
澄子は、再び、歩き出した。
渉は、その半歩後ろを、ついていった。
左手の手袋の中の、温もりが、手首の傷跡に、じんわりと、染みていく。
並んで歩く道は、静かだった。
路地の突き当たりの、小さな祠の脇に、白梅の細い木があった。
まだ、蕾は、固く閉じている。
けれど、枝の先が、星明かりの中で、淡く、白く浮かんでいた。
橋の手前で、澄子は、立ち止まった。
「ここで、いいです」
「はい」
「手袋、明日、返してくださいね」
「はい」
「じゃあ、また、明日」
澄子は、笑って、手を振った。
渉は、手を振り返した。
澄子の背中が、橋の向こうの闇に、消えていった。
渉は、その場に、立ち尽くした。
左手の手袋を、右手で、そっと、握りしめた。
指の温もりが、まだ、残っている。
あの指が、手首に触れた。
その感触が、今も、そこに、あった。
キヨの家に帰る道は、いつもより、遠く感じられた。
足が、重かった。
けれど、体の奥は、熱かった。
涙の跡が、頬で、冷たく凍っていた。
格子戸の前に立つと、中から、足踏みミシンの音が、かすかに聞こえた。
渉は、そっと、戸を引いた。
「おかえり」
キヨの声がした。
「遅かったね」
「すみません」
「夕飯、取ってあるよ」
「いえ、今夜は、いいです。ありがとうございます」
渉は、手袋を外して、鴨居の釘に掛けた。
それは、澄子の手袋だった。
小さな、赤い毛糸の手袋。
キヨが、それを、ちらりと見た。
何も言わなかった。
二階の自分の部屋へ上がらず、縁側へ回った。
障子を開けると、冷え切った空気が、頬を撫でた。
縁側の板は、氷のように冷たかった。
渉は、その上に、静かに、腰を下ろした。
庭は、闇に沈んでいた。
石灯籠の輪郭と、柿の木の枯れ枝が、星明かりの中で、ぼんやりと立っている。
霜が降りて、地面が、薄く白い。
空を見上げると、細い月が、かかっていた。
三日月よりも、さらに細い、爪の先のような月だった。
冷たい光を、庭の霜に、静かに落としている。
渉は、左手首を、右手で、そっと、握った。
そこに、指の温もりが、まだ、残っているような気がした。
あの人が、母だ。
その確信は、もはや、揺るぎようがなかった。
疑う余地が、一つもなかった。
位牌の名前。
子守唄。
傷跡。
三つの鍵が、一つずつ、静かに、扉を開けていった。
そして今、扉の向こうに、母が、立っていた。
渉は、膝を抱えた。
それでも。
それでも、明日の夕方が、待ち遠しかった。
母だと知っても、その気持ちは、少しも、消えなかった。
ことぶきの、窓際の席。
ビロードの椅子。
ストーブの青い炎。
カップの湯気の向こうに座る、澄子。
右上に動く視線。
大事なことを言う前の、小さな間。
目から先に笑う、あの笑顔。
会いたい、と思った。
明日も、あさっても、その次の日も。
母としてではなく・・いや、母としてなのか。
それとも。
渉は、そこで、思考を止めた。
それ以上、踏み込んではいけない、と、直感が告げた。
その問いの底には、渉が、まだ、覗き込む勇気のない、深い闇が、口を開けていた。
母に会いたい。
その気持ちは、純粋なものだ。
三十五年間、一度も会えなかった人に、会いたい。
それだけなら、何も、おかしくない。
けれど、澄子を想うとき、胸の奥で、燃えている何かは。
あれは、息子の感情なのか。
それとも、もっと、別の何かなのか。
渉は、首を振った。
考えてはいけない。
それを、言葉にしてはいけない。
言葉にした瞬間、何かが、取り返しのつかない形に、固まってしまう気がした。
縁側の向こうで、風が、柿の枯れ枝を、揺らした。
かさかさ、と、乾いた音がした。
渉は、細い月を、見つめ続けた。
白い息が、月の光の中に、ゆっくりと、溶けていく。
背後で、障子が、少し、開いた。
キヨだった。
老婆は、何も言わずに、湯呑みを、一つ、縁側の板の上に、置いた。
湯気が、白く立ち昇った。
生姜の香りがした。
「風邪、ひくよ」
それだけ言って、キヨは、障子を閉めた。
渉は、湯呑みを、両手で、包んだ。
掌から、温もりが、じんわりと、染み込んできた。
一口、啜った。
生姜の辛さと、蜂蜜の甘さが、舌に、広がった。
温かかった。
喉を通って、胸の奥へ、降りていく。
渉は、目を閉じた。
母が、いる。
この町に、この夜に、この月の下に。
そして、明日も、会える。
その事実が、何よりも、愛おしかった。
愛おしくて、苦しかった。
渉は、湯呑みを、膝の上に、そっと、置いた。
細い月が、少しずつ、西の空に、傾いていく。
夜は、深く、静かに、更けていった。
渉の左手首には、まだ、澄子の指の温度が、ほのかに、残り続けていた。




