第十一話 知らないことにしていた夜
朝は、いつもと同じようにラッパの音で始まった。
ぷうー。
気の抜けた、間延びした音が、霜の降りた路地をゆっくりと渡っていく。
渉は、布団の中で目を開けた。
天井の木目が、白い朝の光にうっすらと浮かんでいた。
体が、重かった。
一睡も、しなかったわけではない。
けれど、眠りは、浅く、短かった。
夢は、見なかった。
ただ、何度も、目が覚めた。
そのたびに、左手首に、あの指の温度がまだ残っているような気がした。
枕元に、赤い毛糸の手袋が置いてあった。
昨夜、澄子が、渉の左手にはめてくれたものだった。
小さな、手編みの手袋。
親指のところの編み目が、少しだけほつれている。
渉は、それを、手に取った。
毛糸の中には、もう、澄子の温もりは、残っていなかった。
けれど、微かに石鹸の匂いがした。
渉は、手袋をゆっくりと胸に当てた。
そのまま、しばらく動けなかった。
階下から、キヨの声が聞こえた。
「あんた、起きてるのかい。朝飯だよ」
「はい、すぐ行きます」
渉は、手袋を枕元に戻して布団を畳んだ。
台所には、いつもの朝の匂いがあった。
釜で炊いた飯の湯気。
豆腐と葱の味噌汁。
沢庵と、焼いた干物。
壁のラジオが、天気予報を低い声で読み上げていた。
「・・今夜から明日にかけて、北陸から信越地方にかけて、強い寒気が流れ込み、冷え込みが一段と厳しくなるでしょう。各地とも、朝の最低気温は、氷点下五度前後まで下がる見込みです。水道管の凍結にご注意ください・・」
キヨは、鉄瓶から、湯を急須に注いだ。
「そうかい。また冷えるのかい」
独り言のように呟いた。
渉は、卓袱台の前に座って箸を取った。
飯の湯気が顔にかかる。
ふと、気づいた。
今日は、ことぶきへ、行かない。
行かない、と、昨夜縁側で決めたのだった。
あの人に、会えば、また感情があふれてしまう。
母だと知っていることを、隠し通せなくなる。
少し、距離を置いて、頭を冷やさなければならない。
そう、思ったのだ。
けれど、飯を口に運びながら、自分が既に夕方の五時半を数えていることに気づいた。
「どうしたんだい、箸が止まってるよ」
「いえ、何でもありません」
渉は、慌てて飯をかきこんだ。
キヨは、それ以上何も言わなかった。
その日は、一日中、庭にいた。
薪を割り、雨樋を直し、裏の物置を、さらに片づけた。
体を動かしている間は考えなくて済んだ。
けれど、手を止めた瞬間に、何かが胸の底から浮かび上がってきた。
昼過ぎ、キヨが、縁側に、握り飯と漬物と番茶を置いてくれた。
渉は、縁側に腰を下ろして、それを食べた。
庭の隅に、沢庵の樽が据えられていた。
太い大根が、何十本も干されている。
縄で吊るされた大根が冬の風にゆらゆらと揺れていた。
その横に、重石を載せた樽。
蓋を開けると、ぬか床の独特の酸っぱい匂いが立ち昇る。
キヨは、毎年、この時期に沢庵を漬けるのだという。
柿の木には、もう、葉が一枚もなかった。
枯れ枝に、いくつか干からびた実が取り残されたようにぶら下がっている。
そこに、小さな鳥が止まってはつついていた。
渉は、握り飯を、ゆっくりと噛んだ。
塩気が、舌に広がった。
叔母の握り飯も、こんな味だった。
渉は、ふと思った。
叔母は、今どうしているのだろう。
三歳の渉を引き取って、育てた。
三十五年間、命日になると、交差点に花を供え続けた。
渉が、突然いなくなって、叔母は何を思っているだろう。
それから、美咲のことを思った。
美咲は、あの夜言った。
結婚のことを、ちゃんと考えてほしい、と。
渉は、答えられなかった。
何が足りないのか、わからないまま三年が過ぎた。
今、その「足りないもの」の輪郭が、少しだけ見え始めている気がした。
けれど、それを、美咲に説明できるはずもなかった。
渉は、湯呑みを両手で包んだ。
帰らなければならない、とは、思っていた。
あの世界には、渉の人生がある。
仕事がある。
叔母がいる。
美咲がいる。
時間は、進んでいる。
いつまでも、ここにいるわけにはいかない。
けれど。
帰りたい、という気持ちは、驚くほど小さかった。
渉は、その事実に気づいて愕然とした。
あれほど、居場所がなかった世界に戻りたいという切実さがなかった。
叔母に会いたい、という気持ちは、確かにある。
美咲に謝りたい、とも、思っている。
けれど、それは、義務感に近かった。
胸の奥の、柔らかい部分は、ずっとここに向かっていた。
もっと、ここにいたい。
静かな、けれど揺るがない願いが胸の底に横たわっていた。
この町の、夕暮れの灯りの一つ一つ。
商店街の賑わい。
ことぶきの橙色の光。
ビロードの椅子。
窓際の席から見える街灯の点る瞬間。
そして、そこに座っている人。
澄子。
彼女のそばに、いたい。
その言葉が、胸の中にはっきりと浮かんだ瞬間、渉は息を止めた。
母として。
息子として。
それなら、わかる。
母に会いたい。
三十五年間一度も会えなかった人にそばにいてほしい。
それは自然な感情だ。
誰も、責めない。
けれど、渉が今抱いている願いは。
渉は、湯呑みを、縁側の板の上に置いた。
指先が、冷たくなっていた。
あの人の笑顔を見たい。
あの人の声を聞いていたい。
あの人が、本の話をするとき、少し間を置いて右上に視線を動かす。
その仕草を、ずっと見ていたい。
あの人に触れたい、と思ってしまった。
渉は、顔を覆った。
違う、と自分に言い聞かせた。
違う。
そんなはずはない。
あの人は、母だ。
僕の、母だ。
けれど、二十三歳の澄子は母としての顔をまだ持っていなかった。
彼女は、ただ一人の若い女性だった。
本が好きで、焼き芋を美味しそうに食べて、母の編んだセーターを着る。
仕事に不満を言い、もっと好きなことと繋がっていたいと願う。
渉は、その、「一人の人としての澄子」を、見てしまった。
知ってしまった。
そして、その人に、惹かれてしまった。
それは、息子の感情だろうか。
渉は、自分に問うた。
答えは、出なかった。
ただ、胸の奥にどうしようもなく熱いものがあった。
それを、「母への愛」と呼ぶにはあまりにも生々しかった。
渉は、縁側の柱に背中を預けた。
空は、薄く曇っていた。
灰色の雲がゆっくりと流れていく。
夕方になると、キヨが囲炉裏ならぬ火鉢に炭をおこした。
居間の隅に置かれた、古い丸い火鉢。
灰の上に、赤い炭が静かに燃えている。
その上に、鉄瓶が載せられた。
ちんちんと、湯が鳴り始めた。
「あんた、今日は、出かけないのかい」
キヨが背中を向けたまま言った。
「・・はい」
「そうかい」
それだけだった。
けれど、その声には、何か問い詰めるでも咎めるでもない静かな優しさがあった。
壁の掛け時計が、鳴った。
ぼーん、ぼーん、ぼーん、ぼーん、ぼーん。
五時の鐘だった。
渉は顔を上げた。
あと、三十分。
ことぶきの、窓際の席に澄子が座っているだろう。
ビロードの椅子に、コートを掛けて。
文庫本を、開いて。
時々、顔を上げて扉の方を見る。
からん、と、鈴が鳴るたびに。
渉の胸が締めつけられた。
来ない、と、気づいたとき、澄子はどんな顔をするのだろう。
不審に思うだろうか。
心配するだろうか。
あるいは、昨夜、手首に触れたことを気にするだろうか。
渉は、手を膝の上で強く握りしめた。
行ってしまいたい、と思った。
今から、走って行けば、まだ間に合う。
けれど、渉は、動かなかった。
壁の時計の針が、五時半を指した。
ぼーん、と、一つ、鐘が鳴った。
窓の外では、路地の街灯が、ぽっと点いた。
渉は、その灯りを、じっと見つめた。
あの席で、澄子も、この瞬間に、同じ灯りを見ているかもしれない。
それだけで、胸がいっぱいになった。
夕食は、味がほとんどしなかった。
キヨが、漬物の小鉢をそっと渉の前に置いた。
今朝、樽から出したばかりの沢庵だった。
切り口が鮮やかな黄色に光っている。
一切れ口に入れた。
ぽり、と、小気味いい音がした。
ほどよい塩気と微かな甘み。
噛むごとに、大根の旨味が広がっていく。
「うまいです」
「そうかい。今年は、よく漬かった」
キヨは、少し嬉しそうだった。
それから、静かに立ち上がって台所の奥へ引っ込んだ。
渉は、一人、居間に残された。
火鉢の炭が、ぱちり、と、小さく弾けた。
その夜、渉は、再び縁側に座った。
空は、雲が晴れて満天の星だった。
凍てつく空気の中で、星の瞬きが、鋭くはっきりと見えた。
細い月は、もう沈んでいた。
庭の霜が、星明かりを淡く反射している。
渉は、左手首を右手で握った。
そこに、傷跡がある。
三十五年前、母が握ってくれた手首。
昨夜、澄子が撫でてくれた手首。
渉は、その傷跡をそっと指でなぞった。
あの人の手は、こんなふうに温かかった。
いや、違う。
あの人の手は、もっと柔らかかった。
渉は、目を閉じた。
母と、澄子と、二人が同じ人であることを渉はもう疑っていなかった。
けれど、二人は、同時に違う人でもあった。
三十五年前に、渉を抱いた母。
今、ことぶきで、笑っている、二十三歳の女性。
どちらも、同じ、佐々木澄子だった。
渉は、その二人を同時に愛していた。
その事実に、気づいた瞬間、渉は、静かに息を吐いた。
愛している。
その言葉を、胸の中で、そっと呟いた。
母としての愛と、一人の人としての愛。
その二つが、混ざり合って、渉の中で、どうしようもなく、一つの形をなしていた。
それが、何なのか。
どこまでが、許される感情で、どこからが、許されない感情なのか。
渉には、わからなかった。
わかりたくなかった。
知らないことにしていたかった。
この夜を、ずっと、知らないことにしていたかった。
星が、一つ、流れた。
細い白い線が、夜空をすっと横切って消えた。
渉は、その光を見つめた。
帰りたくない、と、思った。
この町に、この時代に、この人のそばに、もう少しいたい。
そう願うことが、許されるのか、わからなかった。
けれど、その願いは、渉の胸の中で、静かに、確かに、燃え続けていた。
翌日の午後は、よく晴れていた。
冷たい青空が、高く広がっている。
屋根瓦の霜が、朝日で溶けて、ぽたぽたと雫になって落ちていた。
渉は、赤い手袋を、コートのポケットに入れて、キヨの家を出た。
商店街は、昼下がりの、のんびりとした空気に、包まれていた。
煙草屋の前で、おばあさんが、日向ぼっこをしながら編み物をしていた。
渉が通りかかると、小さく会釈をしてくれた。
渉も、頭を下げた。
電器屋の店先では、ブラウン管テレビが、昼のワイドショーを映していた。
アナウンサーが、年末の交通安全運動を呼びかけている。
渉は、足を止めなかった。
小豆色の庇が見えてきた。
珈琲 ことぶき。
昼間にこの店に来るのは初めてだった。
扉の曇りガラスの向こうに、人影が見えた。
窓際の席に、誰かが座っている。
渉の心臓が、跳ねた。
扉を、押した。
からん、と、鈴が鳴った。
「いらっしゃい」
マスターの声。
そして、窓際の席から、澄子が、顔を上げた。
昼間の光が、窓から、柔らかく、差し込んでいた。
澄子は、その光の中で、文庫本を膝に置いたまま、渉を見ていた。
「・・あ」
その目が、見開かれた。
「渉さん」
「こんにちは」
「昼間なんて、珍しい」
「ええ。今日は、仕事がなくて」
渉は、窓際の席に向かった。
澄子は、今日は、薄い黄色のセーターを着ていた。
胸元に、小さな花の刺繍が、ひとつだけついている。
髪が、窓の光を受けて栗色に輝いていた。
「澄子さんこそ、昼間に、どうして」
「今日は、午後から、お休みをもらったんです。年末の有給消化で」
「そうなんですか」
「うん。それで、なんとなく、ここに来ちゃった」
澄子は、小さく、笑った。
渉は、向かいの椅子に、腰を下ろした。
ポケットから、赤い手袋を、取り出した。
「これ、お返しします。昨日は、来られなくて、すみませんでした」
「あ」
澄子は、手袋を、受け取った。
「いいんですよ。そんな、気にしなくて」
けれど、その声は、ほんの少し、揺れていた。
彼女は、手袋を、膝の上できゅっと握った。
「昨日、来なかったですね」
「はい」
「心配しました」
渉の胸が、ちくりと、痛んだ。
「すみません」
「ううん、謝らなくていいんです。ただ、何かあったのかなって」
澄子は、少し、視線を右上に動かした。
「・・解決しましたか?」
「え?」
「なんだか、ずっと、考え込んでる感じが、してたから。昨夜の、帰り道のときから」
渉は、息を、呑んだ。
見抜かれていた、と思った。
澄子は、何も知らないはずなのに、渉の中の重いものに気づいていた。
渉は、少し、迷って、それから、正直に答えた。
「いいえ」
「そう」
「もっと、わからなくなりました」
その言葉を、口にした瞬間、渉の肩からふっと力が抜けた。
ずっと、張り詰めていた何かが緩んだ。
そして、渉は笑った。
それは、澄子の前で、初めて見せる力の抜けた笑い方だった。
取り繕ったものではない。
苦笑でもない。
ただ、どうしようもなくて、でも、どこか可笑しくて、自然に漏れてしまった笑いだった。
澄子が、目を見開いた。
それから、ゆっくりと、微笑んだ。
目から先に、笑う、あの笑い方で。
「渉さん、今、初めて、そんな顔した」
「そうですか」
「うん。すごく、いい顔」
渉は、少し照れて、目を伏せた。
カップの湯気が、ゆらゆらと、立ち昇っていた。
「わからないままで、いいんですよ」
澄子が、言った。
「わからないことは、わからないまま、ここにいれば、いいんです。ね」
その言葉は、まるで、渉の全てをそっと包み込むようだった。
渉は、顔を上げた。
窓の外では、昼の光が、路地の石畳を白く照らしていた。
澄子が、カウンターの方を、向いた。
「マスター、同じの、もう一杯ください」
マスターが頷いて、サイフォンに火を入れた。
ガラスの中で、湯がゆっくりと泡立ち始めた。
渉は、その音を、聞きながら思った。
わからないままでいい。
この時間が、続く限り。
この人のそばに、いられる限り。
それ以上のことは、今は、考えなくて、いい。
そう、思った。
そう、思おうと、した。
窓から差し込む冬の光が、二人の間の小さなテーブルを、温かく染めていた。




