第十二話 ライバルの登場
サイレンが鳴った。
夕方五時ちょうど。
川向こうの工場から、長く尾を引く低い唸りが立ち昇った。
ううううう、と音が空を渡っていき、冬の薄い茜色にゆっくりと溶けていく。
その音を合図にしたように町が動き出した。
商店街のほうから、豆腐屋のラッパが、ぷうー、と間延びした声を上げる。
どこかの台所の窓から、味噌汁の湯気が流れてくる。
自転車のベルが、ちりんちりんと橋の上で重なった。
工場の門から、作業着姿の男たちが、疲れた顔でぞろぞろと吐き出されてくる。
渉は、川沿いの遊歩道でそのサイレンを聞いていた。
十二月も下旬に入っていた。
冷え込みは、日増しに厳しくなっている。
川の水面には、岸の近くに薄い氷が張っていた。
対岸の工場の煙突からは、白い煙が真っ直ぐに立ち昇っている。
風のない、凍てついた夕暮れだった。
「渉さん、お待たせ」
背後から、澄子の声がした。
振り向くと、澄子が小走りに駆けてくるところだった。
濃い緑のコートに赤いマフラー。
今日は、毛糸の帽子もかぶっている。
白い玉飾りのついた手編みの帽子だった。
頬が、寒さで林檎のように赤い。
「仕事、早く終わったんですか」
「ううん、ちょっと抜け出してきちゃった。今日は、課長がお休みだから」
澄子は、いたずらっぽく笑った。
「ことぶきに行く前に、少し歩きませんか。今日の夕焼けきれいだから」
「いいですね」
二人は、並んで歩き出した。
柳の枯れ枝が、川風にかすかに揺れている。
遊歩道に並んだ街灯の裸電球が、ぽつりぽつりと灯り始めた。
笠のない電球が、夕暮れの空気の中で橙色に滲んでいる。
電柱には、手書きの看板がいくつも貼られていた。
ベニヤ板に、ペンキで書かれた素朴な文字。
「歯科 山口医院 この先二百米」
「大工仕事承ります 佐藤工務店」
「年賀状 印刷 即日仕上 駅前 文林堂」
雨風にさらされて、塗料が剥げかけている。
その中に、「燃えよドラゴンズ」と書かれた野球の応援ポスターがひとつ混じっていた。
渉は、その看板を、ひとつずつ目で追いながら歩いた。
川の対岸には、工場の窓が、並んでいる。
一日の仕事を終えた窓の明かりが、ひとつまたひとつと消えていく。
その代わりに、河原の土手の上に家々の灯りが点り始めた。
澄子は、ポケットに手を入れて、足元の石畳を見ながら歩いていた。
「今年も、もうすぐ終わりますね」
「ええ」
「早かったなあ。渉さんと会ったのは、十一月でしたよね」
「はい」
「あれから、ひと月も経ってないのに、なんだか、ずっと前から知ってるみたい」
澄子は、小さく笑った。
「前にも、言いましたっけ、そんなこと」
「言いました」
「あ、やっぱり」
彼女は、照れたように、鼻の頭をこすった。
その仕草が可愛らしくて渉は思わず目を細めた。
そのときだった。
遊歩道の向こうから、一人の男が歩いてくるのが見えた。
夕暮れの逆光の中で、輪郭だけが黒く浮かんでいた。
背が高い。
肩幅が広い。
紺色のジャンパーを着て、両手をポケットに深く突っ込んでいる。
少し前かがみの姿勢で、足元を見るようにして歩いてくる。
肩が、歩幅に合わせてゆっくりと左右に揺れていた。
男は、渉たちの数メートル手前で顔を上げた。
その瞬間、隣を歩いていた澄子の足が止まった。
「・・一郎さん」
小さな声だった。
渉は、澄子の横顔を見た。
彼女の表情が、変わっていた。
目が、わずかに、大きくなっている。
頬の赤みが、寒さのせいだけではない色に深くなった。
唇が、ほんの少し綻んでいる。
嬉しそう、だった。
けれど、同時に、肩の線がかすかに強張っていた。
緊張している。
そのふたつが、澄子の顔の上で不思議な形で同居していた。
渉は、その表情の意味を、すぐに理解した。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「よう」
男が、低い声で言った。
短く、ぶっきらぼうな声だった。
けれど、声の底に微かな温度があった。
「こんなところで、会うなんて」
澄子が言った。
声が少し上ずっている。
「会社の帰りか」
「ううん、今日は、ちょっと早退して」
「そうか」
それだけだった。
男は、ポケットから右手を出した。
手には、小さな紙袋を持っていた。
白い紙袋の口から、甘い匂いの湯気が細く立ち昇っている。
「これ」
男は、紙袋を澄子に差し出した。
「鯛焼き。帰りに、買ってきた。ちょうど焼きたてだったから」
「え」
澄子が目を丸くした。
「私に?」
「ああ。おまえ、好きだったろ」
男は、澄子の顔を見なかった。
視線を少し逸らしたまま、紙袋だけを突き出している。
澄子は、それを両手で受け取った。
「ありがとう。・・あったかい」
紙袋を、胸に抱えるようにして、澄子は顔を上げた。
男は、その瞬間、ふっと顔を背けた。
そして、右手の人差し指で、鼻の頭を一度だけ触った。
ほんの一瞬の仕草だった。
渉は、その動きを見た。
胸の奥で、何かが、かすかに鳴った。
何だろう、と、思った。
見覚えのある仕草のような気がした。
けれど、それが、誰の、どんな場面だったのか、すぐには思い出せなかった。
ただ、喉の奥に、小さな棘のようなものが引っかかった。
男が、初めて、渉を見た。
鋭い目だった。
切れ長で、奥二重の、真っ直ぐな目。
眉は濃く、黒い。
顎の線が、固い。
年のころは、二十代の半ばだろうか。
日に焼けた、いかにも労働者らしい肌をしている。
唇が、きつく結ばれていた。
その目が、渉を、上から下までゆっくりと測った。
コートの襟。
靴。
手元。
そして、顔に戻ってきた。
値踏みされている、と、渉は感じた。
敵意ではなかった。
けれど、親しみでもなかった。
ただ、真っ直ぐに相手の本質を見極めようとする、不器用で正直な視線だった。
「こちら、桐島さん」
澄子が、慌てたように口を開いた。
「最近、この町に来た方で、ことぶきで、知り合ったの。渉さん、こちらは、河野一郎さん。私の、幼なじみみたいな人です」
「幼なじみ、ってほどじゃない」
男は、素っ気なく言った。
「ただの、近所だ」
それから、渉に向かって軽く顎を引いた。
「河野です」
それだけだった。
渉は、一瞬言葉に詰まった。
河野、一郎。
その名前が、頭の中で反響した。
河野。
それは、渉自身の姓と同じだった。
この町で名乗ることを避けてきた本当の姓だ。
天地がひっくり返るほどのことではなかった。
ありふれた姓だ。
この国に何万人といるのかもわからない。
偶然にすぎないと、渉はすぐに打ち消した。
渉は、父の名前を知らなかった。
叔母は、「あなたのお父さん」と呼ぶだけで、名前を口にしたことがほとんどなかった。
仏壇の位牌にも、戒名が刻まれているだけで、俗名は書かれていなかった。
けれど、「一郎」という名前を聞いた瞬間、胸の奥で小さな何かが波立った。
理由は、わからなかった。
ありふれた名前だった。
珍しい名前でもない。
それなのに、その二文字が、舌の上に奇妙な重みを残した。
「桐島渉と、申します」
渉は、頭を下げた。
「澄子さんには、お世話になっています」
「・・そうか」
一郎は、短く言った。
その声には、何の感情も、含まれていなかった。
沈黙が、流れた。
川の水音が、足元から、聞こえてくる。
遠くで、工場の機械が、低く唸っていた。
誰かが、橋の上を、自転車で通り過ぎていった。
ダイナモの、じー、という音が遠ざかる。
澄子は、鯛焼きの紙袋を抱えたまま、二人の男の顔を交互に見た。
「あの、一郎さん、よかったら、これ、一緒に」
「いや、いい」
一郎は、即座に断った。
「おまえに買ってきたものだ。おまえが食え」
「でも」
「冷めるぞ」
その言葉は、ぶっきらぼうだったが、どこか優しかった。
澄子は、困ったように笑った。
渉は、その笑顔を見た。
目から先に、笑う、あの笑い方。
けれど、今の笑顔は、渉の前で見せるものとは少し違った。
もっと柔らかく、もっとくすぐったそうで、ほんの少し頼りない。
渉は、胸がじりじりと焼けるのを感じた。
嫉妬だと思った。
自分でも驚くほどはっきりとした嫉妬だった。
その感情に渉は慄然とした。
相手は、父かもしれない人だ。
けれど、そのことを渉はまだ知らなかった。
ただ、澄子が他の男に向ける笑顔に胸の中がざわついた。
それだけだった。
「最近、仕事は、どうだ」
一郎が、澄子に聞いた。
「うん、忙しいけど、なんとか。一郎さんは?」
「年末の納期で、毎日、残業だ」
「大変ね」
「まあな」
会話はそれ以上続かなかった。
一郎は口数が極端に少なかった。
必要なことだけを短く言い、あとは黙る。
その沈黙が、不思議と気まずくなかった。
澄子もそれに慣れているらしく、自然に一郎の隣に立っている。
二人の間には、長い時間をかけて積み重ねられた見えない何かがあった。
渉は、その空気を遠くから眺めているような気持ちで立っていた。
「あんた」
不意に、一郎が渉に声をかけた。
「はい」
「どこから、来た」
渉は、息を呑んだ。
「・・遠いところから、です」
「遠いって、どこだ」
「説明するのが、難しくて」
一郎の目が、細くなった。
その目が、渉の顔をじっと見据えている。
まるで、嘘を見破ろうとするように。
「仕事は」
「本屋で、短期の手伝いをしていました。今は、キヨさんのところで、薪割りなどを」
「高橋のばあさんのところか」
「はい」
「そうか」
一郎は、また短く言って黙った。
それから、渉の手元をちらりと見た。
渉の、左手首に視線が止まった。
コートの袖口から、白い傷跡がほんの少し覗いていた。
一郎は、何も言わなかった。
ただ、視線をすぐに逸らした。
その動きに、渉は不思議な違和感を覚えた。
何か、言いかけたような気がした。
けれど、一郎は口を閉ざした。
「用事が、ある」
一郎が、唐突に言った。
「そろそろ、行く」
「あ、うん」
澄子が、うなずいた。
「また、今度」
「ああ」
一郎は、澄子に向かって軽く手を挙げた。
それから、渉のほうをもう一度見た。
「澄子を、よろしく」
その言葉が、渉の胸に静かに落ちた。
よろしく、と、一郎は言った。
それは、頼むという意味だったのか。
それとも、牽制だったのか。
渉には、わからなかった。
ただ、一郎の目が一瞬だけ剥き出しの何かを覗かせた気がした。
一郎は、背を向けた。
ポケットに両手を突っ込んだまま、前かがみの姿勢で遊歩道を歩いていく。
肩が、左右にゆっくりと揺れる。
夕暮れの光が、紺色のジャンパーの背中を淡く染めていた。
渉は、その後ろ姿を目で追った。
どうしてだろう、と、思った。
目が、離せなかった。
あの歩き方。
肩の揺れ方。
ポケットに突っ込んだ両手の形。
胸の奥の深い場所で、何かが低く鳴り続けている。
けれど、それが何なのかはわからなかった。
一郎の背中は、街灯の灯りの輪を一つまた一つと通り抜けて、やがて橋の向こうの闇の中に消えた。
工場の方角から、遅れて小さなサイレンがもう一度、鳴った。
「・・ごめんなさい」
澄子が、小さな声で、言った。
「一郎さん、無愛想で。悪い人じゃないんです」
「ええ。わかります」
渉は、そう答えた。
けれど、本当はわかっているのか、自分でもわからなかった。
「あの人、昔から、ああなんです。口数が少なくて、不器用で。でも、すごく優しいところもあって」
澄子は、紙袋を、そっと、開けた。
中に、鯛焼きが二つ入っていた。
湯気が、ふわりと立ち昇った。
こんがりと焼けた皮から、甘い小豆餡の匂いが漂ってくる。
「あ、二つ入ってる」
澄子は、目を瞬かせた。
「私と、渉さんの、ぶんかな」
渉は、息を止めた。
一郎は、澄子に買ってきたと言った。
けれど、袋の中には二つ入っていた。
偶然かもしれない。
ただ、いつも二つ買うのかもしれない。
けれど、渉は、その二つ目が自分のためのものかもしれないと一瞬思ってしまった。
不器用で、正直な男が、見知らぬ他人のぶんまで用意していたのだとしたら。
それは、どういう意味なのだろう。
「半分こしましょう」
澄子が、鯛焼きを一つ渉に差し出した。
「あったかいうちに」
「・・いただきます」
渉は、受け取った。
掌に、じんわりと温もりが伝わってきた。
一口、かじった。
皮は、薄くパリッとしている。
中から、熱い小豆餡がとろりと溢れた。
甘すぎず、少し塩気が効いている。
昔ながらの、素朴な味だった。
懐かしかった。
この味を、どこかで食べたことがある。
叔母の家の近くに、小さな鯛焼き屋があった。
子どもの頃、叔母に連れられてよく買いに行った。
尻尾から食べるか、頭から食べるか迷って、叔母に笑われたことを覚えている。
「おいしい」
澄子が、頬をほころばせた。
「一郎さんの選ぶものって、いつも外れがないんです」
その言葉に、渉の胸がちくりと痛んだ。
二人は、鯛焼きを食べながら、ことぶきへ向かって歩いた。
日は、すっかり沈んでいた。
空は、深い紫から藍色へと移り変わっていく。
星が、一つまた一つと瞬き始めた。
橋を渡り、路地を抜ける。
煙草屋の前を通ると、おばあさんが店じまいの支度をしていた。
木の雨戸を、がたがたと引き出している。
肉屋の前では、閉店間際の安売りの声が響いている。
「さあ、残りもの、全部、百円だよ」
主婦たちが、籠を抱えて、集まっていた。
その、賑わいの中を、渉はぼんやりと歩いた。
頭の中では、さっきの光景が繰り返し再生されていた。
澄子の、あの表情。
一郎の、不器用な声。
鼻の頭を、触る仕草。
そして、渉の左手首を一瞬だけ見たあの目。
あの視線に、何か意味があったのだろうか。
それとも、ただ、傷跡が目に入っただけなのか。
わからなかった。
ことぶきの扉を開けると、いつもの橙色の光と焙煎の匂いが、二人を迎えた。
窓際の席に座ると、澄子は鯛焼きの残りを紙袋ごとテーブルの上に置いた。
「マスターにも、分けてあげよう」
彼女は、カウンターに近づいていった。
渉は、一人で、席に残された。
窓の外の街灯が、ぽっと点いた。
ガラスに映った自分の顔が、ぼんやりと浮かんでいる。
渉は、その顔を見つめた。
疲れた顔だった。
何かを押し殺している顔だった。
一郎という名前。
河野という姓。
あの、無口な目。
どうして、あんなに胸がざわついたのだろう。
嫉妬のせいだけではない、と、渉は直感していた。
もっと、別の何かがあった。
けれど、それを掴もうとすると、指の隙間からすり抜けてしまう。
渉は、カップを、手に取った。
コーヒーは、すでに少し冷めていた。
その夜、キヨの家に戻った渉は、縁側に座ってひとり考えた。
夜空には、星が無数に瞬いていた。
月は、まだ昇っていない。
河野一郎。
澄子の、近所の人。
幼なじみのような人。
無口で、不器用で、鯛焼きを買ってきた人。
あの人が、澄子に、特別な感情を抱いていることは明らかだった。
そして、澄子もあの人に何かを感じている。
けれど、本人は、まだそれに気づいていないようだった。
渉は、膝の上で、拳を握った。
やっかいなやつが来たと思った。
単純に、そう思った。
これまで、渉は、澄子のそばに自分がいることが当たり前のように感じていた。
夕方になれば、ことぶきで会える。
話ができる。
笑い合える。
それが、毎日続いていくような錯覚をしていた。
けれど、澄子には澄子の人生がある。
澄子の周りには、渉の知らない人間関係があって、渉の知らない時間が流れている。
その事実を、突然突きつけられた気がした。
渉は、深く、息を吐いた。
白い息が、星空の中に、溶けていった。
一郎のあの目が、頭から離れなかった。
測るような、目。
敵意でも好意でもない、ただ真っ直ぐな目。
あの目に見つめられたとき、渉は不思議な感覚に襲われた。
高い場所から見下ろされているような。
大きな何かに包まれているような。
けれど、それが何なのか渉には、わからなかった。
ただ、胸の奥に小さな棘のようなものが刺さったままだった。
棘が抜けないまま夜を迎えた。
階下から足踏みミシンの音がかすかに聞こえてきた。
かたかた、かたかた。
その音を聞きながら目を閉じた。
河野一郎。
その名前を、渉は胸の中で静かに繰り返した。
まだ、知らなかった。
その名前が、これから渉の人生の最も深い場所に触れることになるとは。




