第十三話 口癖と仕草
それから、一郎は、ことぶきに現れるようになった。
毎日ではなかった。
三日に一度、あるいは、四日に一度。
夕方の六時を少し回ったころ、扉の鈴が、からん、と鳴って、紺色のジャンパーの肩が、のっそりと入ってくる。
作業帽を脱いで、無言でカウンターの端に座る。
マスターは、何も聞かずにサイフォンに火を入れる。
一郎は、コーヒーが出てくるまでの間、灰皿を引き寄せて、ゆっくりと、煙草に火をつける。
マッチの擦れる音。
硫黄の匂い。
ハイライトの、青い箱。
灰皿の中の吸い殻が、ひとつ、またひとつと増えていく。
そして、窓際の席のほうを、見ない振りをして見る。
澄子が、先に気づいて、手を振る。
「一郎さん、こっち」
そう呼ばれて初めて、一郎は、腰を上げる。
カップを自分で運んで、渉と澄子のテーブルに、無言で座る。
最初の二、三回は、渉も緊張した。
向かいに座った一郎はほとんど口をきかない。
コーヒーを啜り、煙草を吸い、澄子の話に時々短く相槌を打つ。
「そうか」
「ああ」
「へえ」
それだけだ。
そして、時折、ふっと、渉の顔を測るように見る。
目が合うと、お互いすぐに逸らす。
その繰り返しだった。
けれど、不思議なことに、三度、四度と重なるうちに、その沈黙は少しずつ変質していった。
敵意でもなく、気まずさでもなく、ただそこに三人で座っているという事実だけが残るようになった。
壁の丸い時計の、金属の針の音。
ストーブの上のやかんが、湯気を吐く音。
サイフォンの泡立つ音。
有線放送から流れる、年の瀬の歌謡曲。
そういうものが、三人の沈黙の隙間をゆっくりと満たしていく。
澄子は、その沈黙の中で、一番楽しそうに見えた。
二つのカップの向かいで、一つのカップを両手で包んで、二人の男の顔をかわるがわる眺めている。
「なんか、不思議」
あるとき、澄子がぽつりと言った。
「渉さんと、一郎さんと、三人でいるの」
「何が、不思議なんですか」
「うーん、うまく言えないんだけど」
彼女は、少し間を置いた。
視線が、右上に動く。
「前からずっと、こうだった気がするんです。三人で、ここに座ってるのが」
渉の胸が、静かに鳴った。
一郎は、煙草の灰を、とん、と灰皿に落とした。
何も言わなかった。
十二月二十四日は、土曜日だった。
商店街は、朝から浮き立っていた。
アーケードの梁には、銀色のモールと赤い玉の飾りがぐるりと吊り下げられている。
ほこりをかぶったプラスチックのもみの木が電器屋の店先に出された。
有線放送は、朝から晩まで「ジングルベル」と「赤鼻のトナカイ」の繰り返しだった。
洋菓子屋の前には、長い行列ができていた。
ショーケースの中に、丸いバタークリームのケーキがずらりと並んでいる。
白いクリームの上に、砂糖菓子のサンタクロースと赤い柊の飾り。
「ご予約済みのお客様はこちら」と書かれた札が、窓に貼られている。
主婦たちが、紙箱を大事そうに両手で抱えて出てくる。
肉屋の前では、骨付きのチキンが、飛ぶように売れていた。
ご主人が、揚げたての鶏肉を茶色の紙袋に詰めている。
揚げ油の香ばしい匂いがアーケードの天井まで立ち昇った。
「さあ、今日だけだよ、お母さん。クリスマスのチキンだ。お父さんの機嫌も、これで直るよ」
調子のいい呼び込みの声に、通りがかりの人々がどっと笑った。
渉は、その賑わいの中を一人で歩いていた。
夕方、ことぶきへ向かう途中だった。
玩具屋の前に、子どもたちが群がっていた。
ガラス窓の向こうに、ロボットとプラモデルとファミリーコンピュータの大きな箱が飾られている。
赤と白の家庭用ゲーム機が、この年の夏に発売されたばかりだった。
子どもたちが、鼻をガラスに押しつけて目を輝かせている。
渉は、その光景に、足を止めた。
叔母の家には、そういうものがなかった。
クリスマスの夜、叔母は、小さな白い箱に入ったショートケーキを一つだけ買ってきてくれた。
渉が、三つか四つの頃だったろう。
叔母は、ケーキを半分に切って、半分を渉に、半分を仏壇に供えた。
あの夜のろうそくの匂いを、渉は不意に思い出した。
胸が、ぎゅっと詰まった。
ことぶきの扉を開けると、橙色の光の中に、いつもと違う飾りつけが目に飛び込んできた。
カウンターの上に、小さな緑のもみの木が置かれていた。
金と赤のモールが巻きつけられている。
壁の時刻表の脇に、手作りのサンタクロースの人形がぶら下がっていた。
綿の髭が、ストーブの熱でふわふわと揺れている。
「いらっしゃい」
マスターの声は、いつもと変わらず低かった。
けれど、よく見ると、蝶ネクタイが赤い柄に変わっていた。
渉は、思わず、微笑んだ。
窓際の席には、澄子と一郎がすでに座っていた。
二人の間には、小さな白い紙箱が置かれていた。
「あ、渉さん、来た」
澄子が、顔を上げた。
「見て見て、一郎さんが、ケーキ買ってきてくれたの」
「ケーキ」
「うん。小さいやつだけど」
一郎は、窓のほうを向いて煙草を吸っていた。
渉が席に着くと、澄子が箱の蓋をそっと開けた。
中に、小さな丸いバタークリームのケーキが入っていた。
直径十五センチほどの素朴なケーキ。
白いクリームの上に、砂糖でできた小さな赤い柊が三つのっている。
「かわいい」
澄子が、目を細めた。
「でも、三人で、食べるには、ちょっと小さいね」
「・・三人で、だ」
一郎が、ぼそっと言った。
「え?」
「三人で、食べるつもりで買った」
それだけ言って、また窓のほうを向いた。
澄子はぽかんとして、それからくすくすと笑い出した。
「そっか。三人分、ね」
その笑顔を、渉は見ていた。
一郎が、窓を向いたまま、右手の人差し指で鼻の頭を一度だけ触った。
渉は、その仕草を見た。
その瞬間、胸の奥で何かがことりと音を立てた。
見覚えがある、と、思った。
先日も、思った。
鯛焼きの紙袋を差し出して、一郎が顔を背けたとき。
けれど、あのときはわからなかった。
今も、わからない。
ただ、誰かが同じ仕草をしていたような気がする。
誰だろう。
渉は、考えようとした。
けれど、その思考を澄子の声が遮った。
「じゃあ、切りますね」
ナイフを持った澄子の手元を、渉はぼんやりと見つめた。
ケーキは、三つに切り分けられた。
一郎の皿。
渉の皿。
澄子の皿。
バタークリームの甘く重たい匂いが、ストーブの熱気の中にふわりと広がった。
渉は、フォークで一口すくった。
ねっとりとしたクリームの甘さ。
口の中でゆっくりと溶けていく。
スポンジが少し乾いている。
ジャムの酸味がかすかに舌に残った。
懐かしい味だった。
叔母が買ってくれたあのケーキの味と同じだった。
「おいしいね」
澄子が嬉しそうに言った。
「うん、おいしい」
「一郎さん、ありがとう」
「・・ああ」
一郎は、ケーキを一口食べて、黙って頷いた。
それから、会話は仕事の話に移っていった。
澄子が、ため息をついた。
「年末はほんと忙しくて。課長が無理な書類ばっかり押しつけてくるの」
「大変ですね」
「大変なんてもんじゃないですよ。昨日なんて、帰る直前に『これ、今日中ね』って分厚い束をどさっと」
澄子はケーキを食べながら愚痴をこぼした。
渉は相槌を打ちながら聞いていた。
一郎はコーヒーを啜った。
「・・まあ」
一郎が低く呟いた。
「そういうもんだろ」
その瞬間、渉の手が止まった。
フォークが、皿の上で小さくかちりと鳴った。
その言葉。
その言い方。
語尾を少し下げて落とすように。
息を吐くように。
諦めとも慰めともつかない不思議な温度を帯びたあの調子。
・・まあ、そういうもんだろ。
渉の頭の中に、別の声が蘇った。
現代の、東京の四谷のイタリア料理店だった。
蝋燭の灯るテーブル。
向かいに座った美咲。
あの夜、美咲は笑っていた。
少し寂しそうに。
「渉って、困ったときとか答えに詰まったときいつも言うよね」
「何を」
「『まあ、そういうもんだろ』って」
美咲は渉の口真似をした。
語尾を下げて、息を吐くように。
「それ、癖だよね。口癖。無意識に出てるでしょ」
「・・そうかな」
「そうだよ。三年付き合って、何十回、聞いたかわからない」
あのとき、渉は苦笑してワインを一口飲んだ。
そして、その口癖がどこから来たのかを一度も考えたことがなかった。
「渉さん?」
澄子の声が遠くで聞こえた。
「どうしたんですか、フォーク、止まってる」
「あ、いえ」
渉は慌ててケーキを口に運んだ。
けれど、味がわからなかった。
偶然だ、と、思った。
どこにでもある言い回しだ。
この国の何千万人もの人間が、同じ台詞を日常的に口にしている。
「そういうもんだろ」
誰にでも使える言葉だ。
けれど、頭の中では美咲の声が繰り返し鳴っていた。
・・それ、癖だよね。
口癖。
渉は顔を上げて一郎を見た。
一郎は、ケーキの皿に視線を落としたまま、黙々とフォークを動かしていた。
無骨な指。
節の太い、黒く荒れた手。
油の染みが、爪の隙間にうっすらと残っている。
その手が、フォークを握る形。
渉は、自分の手を見下ろした。
同じだった。
フォークの持ち方が、同じだった。
親指と、人差し指と中指で挟むように。
小指を、わずかに浮かせて。
渉は、思わず手を膝の上に隠した。
偶然だ、と、また思った。
食事のときの手の形なんて似ている人間はいくらでもいる。
窓の外では、陽がすっかり落ちていた。
路地の街灯が、ぽっと点いた。
ガラスに、三人の影が映っていた。
「ねえ、渉さん」
澄子が、言った。
「年末の予定、決まってます?」
「いえ、特には」
「キヨさんのところで、年越しですか」
「たぶん」
「そっか。じゃあ、除夜の鐘、一緒に聞きに行きませんか。町外れのお寺で、毎年、甘酒を振る舞ってくれるんです」
「いいですね」
「一郎さんも、行きます?」
一郎はフォークを置いた。
「・・考えとく」
「もう、素直に、行くって言えばいいのに」
澄子がくすくすと笑った。
それから、渉のほうを向いた。
「渉さんは、大丈夫ですか。寒いの、苦手そうだけど」
「大丈夫ですよ。・・まあ、そういうもんだろ」
口をついて出た。
何気なく無意識に。
口にした瞬間、渉はしまったと思った。
けれど、遅かった。
澄子の目が、ぱっと見開かれた。
それから、彼女は声を立てて笑い出した。
「あ、一郎さんと同じ言い方」
渉の体が凍りついた。
「今の、すごく似てた。語尾の下げ方とか、息の抜き方とか。一郎さん、聞いた? 渉さんが、同じこと言ってる」
「・・ああ」
一郎は、短く答えた。
けれど、渉を見る目が一瞬大きく見開かれた。
ほんの一瞬だった。
次の瞬間には、いつもの無表情に戻っていた。
渉は、動けなかった。
笑うことも冗談で受け流すこともできなかった。
喉がからからに乾いていた。
そのとき、澄子がふと自分の鼻の頭を人差し指でこすった。
笑いながら、照れたように。
渉は、その仕草を見た。
それから、澄子ははっとして手を下ろした。
「あ、また、やっちゃった」
「何を」
「これ。鼻、触るの」
彼女は、気まずそうに笑った。
「実は、前は、こんな癖、なかったんです。でも、いつの間にか、うつっちゃって」
「うつった?」
「うん。一郎さんの癖が」
澄子は、ちらりと一郎を見た。
一郎は、窓の外を見ていた。
その耳が、ほんの少し赤く見えたのはストーブの熱のせいだろうか。
「一郎さん、照れると、鼻の頭、触るでしょう。何年も、近くで見てるうちに、私まで、真似しちゃったみたい」
澄子は、自分で言って自分で可笑しそうに笑った。
渉は、笑えなかった。
右手が、持ち上がりかけていた。
無意識のうちに、人差し指が顔のほうへ動いていた。
鼻の頭に向かって。
渉はその手を途中で止めた。
指先が鼻先までわずか数センチのところで宙に浮いたまま固まった。
誰も気づいていなかった。
澄子はまだ笑っていた。
一郎は窓の外を見ていた。
マスターはカウンターの向こうでサイフォンを磨いていた。
渉はゆっくりと手を膝の上に戻した。
心臓がどくどくと耳の奥で鳴っていた。
同じだ。
その言葉が、頭の中ではっきりと形を持った。
口癖も。
鼻の頭を触る癖も。
フォークの持ち方も。
そして、あの、前かがみの歩き方も。
一郎の一つ一つが、渉の中にそっくり移し替えられている。
渉は息を止めた。
けれど、その先を考えることができなかった。
考えようとすると、頭の中が真っ白になった。
違う、と、思った。
そんなはずはない。
そんなこと、あるはずがない。
ことぶきを出たのは八時を過ぎていた。
外は凍えるように寒かった。
雲が晴れて満天の星だった。
オリオンが東の空に高く昇っている。
吐く息が白い塊になって夜空に溶けていく。
澄子と一郎は橋の手前で別れた。
「じゃあ、また、明日」
「はい」
「一郎さんも、またね」
「・・ああ」
澄子は手を振って橋を渡っていった。
その後ろ姿を一郎はじっと見送っていた。
それから、踵を返して渉のほうを向いた。
「あんた」
「はい」
一郎が渉の顔をまっすぐに見た。
街灯の下で、その目は深く暗く光っていた。
長い沈黙があった。
「・・いや」
一郎は、首を振った。
「何でもない」
それだけ言って、一郎は、ポケットに手を突っ込んで前かがみに歩き出した。
肩がゆっくりと左右に揺れた。
渉はその背中を見送った。
何を、言いかけたのだろう、と、思った。
もしかして、一郎も、何かに気づきかけているのだろうか。
けれど、その背中は何も答えなかった。
キヨの家に戻ったのは九時近くだった。
居間に入ると、炬燵の上に蜜柑と小さなクリスマスケーキが置かれていた。
とは言っても、それはケーキというよりもカステラに白い砂糖衣を塗って粉砂糖を振っただけの素朴な菓子だった。
「今日、クリスマスなんだってね」
キヨが台所から顔を出した。
「私は、そういうのはわからないけど、近所の子が、騒いでたから。まあ、真似事で、こしらえてみたよ」
渉はその菓子を見つめた。
喉が熱くなった。
「ありがとうございます」
「礼なんか、いいから、食べな」
「いただきます」
渉は炬燵に足を入れてその菓子を一口食べた。
カステラの卵の甘み。
砂糖衣のじゃりっとした食感。
ほんのり生姜の香りがした。
先ほどのケーキよりもずっと素朴で、ずっと温かかった。
「おいしいです」
「そうかい」
キヨは満足そうに頷いた。
その夜、渉は二階の自室の窓辺に座った。
木枠の窓の外に、庭が星明かりの中で白く沈んでいた。
石灯籠の笠に、霜がきらきらと光っている。
渉は、膝を抱えて、考えた。
・・同じ、だった。
口癖が。
鼻の頭を、触る仕草が。
けれど、それが何を意味するのか。
渉は考えるのが怖かった。
その意味を言葉にしてしまったら、もう後戻りできない気がした。
一郎。
河野、一郎。
無口で不器用で鯛焼きとケーキを買ってくる人。
澄子を見守る目。
その目の中にある、深い静かな愛情。
あの人は、澄子を愛している。
渉は、それをはっきりと感じていた。
そして、澄子も、一郎の癖がうつってしまうほど長い時間をその人のそばで過ごしてきたのだ。
その時間の重さ。
渉は、自分の手のひらを見た。
この手がフォークを持つ形。
この口が「まあ、そういうもんだろ」と言う癖。
この指が鼻の頭に向かう仕草。
偶然、かもしれない。
渉は、自分に言い聞かせた。
世の中には、似た癖を持つ人間がたくさんいる。
渉が、たまたま一郎と同じ癖を持っていただけだ。
それだけのことだ。
そう、思おうとした。
気のせいかもしれない。
気のせい、だ。
その言葉を何度も繰り返した。
繰り返すうちに少しだけ胸が軽くなった。
気のせい。
そういうことにしておこう。
今は、まだ。
渉は窓を少し開けた。
冷たい夜気が頬を撫でた。
遠くの寺の夜の勤行の合図だろうか、ごーん、と、一つ、鐘が鳴った。
長い深い響きが、凍てついた夜空にゆっくりと広がっていく。
渉はその音を聞きながら目を閉じた。
気のせいかもしれない。
そう思おうとして、そう思えないまま、渉は冷たい窓辺でずっと鐘の余韻を聞いていた。




