第十四話 父だと気づいた夜
年の瀬の町は、朝から晩まで、餅をつく音がしていた。
ぺったん、ぺったん。
どこかの家の庭先で、杵が臼を打つ重くて湿った音が冬の空気の中に間延びして響く。
蒸したもち米の甘い湯気の匂いが路地を流れていく。
子どもたちが、つきたての餅を、きなこや大根おろしにまぶして立ったまま頬張っていた。
十二月二十七日。
商店街には、正月の用意をする人々が溢れていた。
アーケードの両側に、門松としめ飾りと鏡餅の山が並んでいる。
八百屋の店先には、橙と裏白と昆布巻きの材料。
魚屋の前には、数の子と黒豆と塩鮭の荒巻が吊るされている。
呼び込みの声が競い合うように重なった。
「さあ、いらっしゃい、いらっしゃい」
「お正月は、うちの蒲鉾でなきゃ」
「今日が、最後の安売りだよ」
その賑わいの中を、渉は、澄子と一郎と三人で歩いていた。
夕方だった。
ことぶきでいつものようにコーヒーを飲み終えたあと澄子が言い出したのだ。
「ねえ、ちょっと、買い物に付き合ってもらえませんか。お正月の支度で、まだ揃ってないものがあって」
断る理由はなかった。
一郎も無言で腰を上げた。
三人は並んでアーケードを抜けた。
日が沈みかけていた。
西の空が紫と橙の混ざり合った色に燃えている。
街灯の裸電球がひとつまたひとつと灯り始めた。
白熱球の黄色みがかった光が人々の肩や頬を柔らかく染める。
澄子は、先頭を軽い足取りで歩いていた。
赤いマフラーが背中でひらひらと揺れている。
その半歩後ろを、渉と一郎が並んで歩いた。
二人とも、ポケットに両手を入れて。
背丈がほとんど同じだった。
歩幅も同じだった。
渉はそれに気づいて、足の運びをわずかに緩めた。
けれど、数歩もしないうちにまた歩調が揃ってしまった。
商店街の外れに、古い道具屋が、あった。
間口の狭い木造の店だった。
軒先に、鍋とざると箒と竹籠がぎっしりと吊るされている。
裸電球の下で、アルミの鍋が鈍く光っていた。
奥の暗がりから、お茶の渋い匂いと古い竹の匂いが漂ってくる。
店先に、土鍋と七輪と火鉢が積み上げられていた。
「ちょっと、ここ、寄っていいですか」
澄子が、立ち止まった。
「母に頼まれたんです。お重と塗りのお椀を買ってきてって」
「待ってます」
渉が言うと、澄子はにっこり笑って店の中へ入っていった。
暖簾がふわりと揺れて、澄子の背中を飲み込んだ。
店先に、渉と一郎が、取り残された。
二人は並んで軒下に立った。
沈黙が流れた。
けれど、それはこれまでの沈黙とは少し違っていた。
ことぶきのような三人の沈黙ではない。
二人きりの、剥き出しの逃げ場のない沈黙だった。
一郎は、煙草を取り出して、火をつけた。
マッチの炎が、一瞬その顔を橙に照らした。
煙が冷たい空気の中にゆっくりと昇っていく。
渉は、店先に吊るされた鍋の列を見るともなく眺めていた。
長い時間が過ぎたような気がした。
「・・子どもが」
不意に、一郎が口を開いた。
渉は、思わず横を向いた。
一郎は、前を向いたまま煙を吐いていた。
「子どもが、できたら」
その声は、低くてほとんど独り言のようだった。
「男の子が、いいな」
渉の心臓が一度大きく跳ねた。
「・・男の子、ですか」
「ああ」
一郎は、煙草の灰をとんと落とした。
「俺、不器用だから」
ぽつりと、言った。
「女の子だと、何を話せばいいかわからなくなる気がする。男の子なら」
彼は、少し言葉を探すように黙った。
「黙って、並んでるだけでも伝わる気がして」
渉は、息を止めた。
目の前の、煙が揺らいで見えた。
「俺みたいな人間は、言葉で、うまく言えないから。でも、並んで、同じものを見て、同じ飯を食って。そうしてれば、何も言わなくてもわかってくれる。男の子なら、そういうのわかってくれる気がするんだ」
一郎は、そこでふっと息をついた。
「・・ちゃんと、育てたい」
その声が、わずかに震えた。
「俺みたいに、不器用でも、正直な人間に」
渉の視界が一瞬で滲んだ。
街灯の光がにじんで丸く広がった。
その瞬間、記憶がほどけた。
高い場所だった。
世界がぐんと遠くなって、地面が遥か下に見えた。
風が頬に当たっている。
誰かの大きな手が、小さな足首をしっかりと握っていた。
その手は、ごつごつして温かかった。
夕暮れだった。
街灯が、ひとつ、またひとつと灯り始める。
その灯りが、足元でゆっくりと流れていく。
揺れていた。
前かがみに、ゆらゆらと、肩が、左右に揺れていた。
その肩の上に、小さな体がのっていた。
・・見えるか。
低い声が、下から聞こえた。
・・ほら、あれが、お月さまだ。
大きな手が、足首をぎゅっと握りしめた。
・・しっかり、掴まってろ。
その声は、不器用で、ぶっきらぼうで、けれど、どこか泣きたくなるほど優しかった。
渉は、喉の奥が焼けつくように熱くなった。
肩車だった。
三歳の渉を肩に乗せて夕暮れの道を歩いた父の背中。
その前かがみの揺れる肩。
今、隣に立っているこの男の肩と同じだった。
渉は、唇を噛んだ。
声を出したら、全てが崩れてしまう。
一郎が、渉の方を向いた。
「・・どうした」
「いえ」
渉は、顔を背けた。
「煙が、目に」
「そうか」
一郎は、煙草を足元に落として踵で踏み消した。
「悪かったな。吸いすぎた」
その、不器用な気遣い。
渉はうつむいたまま、首を横に振った。
「そうですね」
やっと、それだけ、言った。
声が、かすれていた。
「男の子、いいと思います」
「・・そうか」
「ええ。きっと、わかってくれます」
一郎は、渉の横顔をじっと見た。
その目が、わずかに細くなった。
何かを、探るように。
何かを、確かめるように。
「あんた」
「はい」
「不思議な男だな」
それだけ言って、一郎はまた前を向いた。
暖簾が揺れて、澄子が店から出てきた。
「お待たせしました。いいお重が、見つかりました」
彼女は、風呂敷包みを胸に抱えて、嬉しそうに笑った。
「あれ、どうしたんですか、二人とも、静かですね」
「・・何でもない」
一郎が、言った。
「そうですね」
渉も、言った。
澄子は、不思議そうに二人を見比べた。
「変な二人」
くすくすと笑って、澄子は先に歩き出した。
その後ろを、渉と一郎が並んでついていった。
橋の手前で三人は、別れた。
「じゃあ、また、明日」
澄子が手を振った。
「はい」
「ああ」
澄子は橋を渡っていった。
一郎は、その背中をじっと見送ってから、渉に軽く顎を引いた。
そして、何も言わずに、背を向けた。
前かがみの揺れる肩が、街灯の輪をひとつまたひとつと通り抜けて、闇の中へ消えていった。
渉は、その場に立ち尽くしていた。
どれほどの時間が経ったのかわからなかった。
川の水音が足元から聞こえていた。
キヨの家に戻ったのは、夜の九時を過ぎていた。
夕食は断った。
キヨは何も聞かずに、握り飯を二つ盆に載せて渉の部屋の前に置いた。
渉はそれに手をつけなかった。
二階の窓を開けて縁側に出た。
夜空は、澄み渡っていた。
雲ひとつなく星がぎっしりと空を埋め尽くしている。
天の川が白い帯になって夜空を横切っていた。
光害のない時代の星は、無数の宝石を黒いビロードに撒き散らしたようだった。
渉は、縁側の板に、座り込んだ。
凍てつくような冷たさが、尻から背骨を伝って這い上がってくる。
けれど、それを感じなかった。
頭の中が真っ白だった。
そして、ゆっくりと、その真っ白な空白に一つの言葉が浮かび上がってきた。
父だ。
渉は息を吐いた。
白い塊が夜空に溶けていった。
河野一郎。
あの無口な男が、、父だ。
もう「気のせい」と言うことはできなかった。
口癖。
鼻の頭を触る仕草。
フォークの持ち方。
前かがみの、肩の揺れ。
肩車の、記憶。
「男の子がいい」という、あの言葉。
全てが一つの線に繋がっていた。
疑いようがなかった。
渉は両手で顔を覆った。
指の間から熱いものが溢れ出した。
嗚咽が喉の奥から込み上げてくる。
声を殺そうとしたが、肩が勝手に震えた。
父だ。
あの人が、父だ。
三十五年間、写真の中の、色褪せた顔でしか知らなかった人。
声も、匂いも、手の温もりも、何一つ覚えていなかった人。
その人が、今日すぐ隣に立っていた。
煙草を吸いながら、「男の子がいい」と、言った。
「ちゃんと育てたい」と、言った。
渉は拳で口を、押さえた。
泣きながら思った。
・・育ててもらった、と。
たった三年だった。
けれど、その三年の間、確かに、この人は渉を肩に乗せて夕暮れの道を歩いてくれた。
あの揺れを、体が覚えていた。
三十五年の間、一度も思い出さなかった。
けれど、体の一番深い場所にずっと眠っていた。
涙が、止まらなかった。
けれど、泣いているうちに別の感情がじわじわと浮かび上がってきた。
冷たく重い感情だった。
・・俺は、母を、愛していた。
その言葉が頭の中に突き刺さった。
母だと知る前から。
いや、母だと知ってからも。
ことぶきの窓際の席で、澄子の笑顔を見るたびに。
川沿いの道で、彼女の鼻歌を聞くたびに。
左手首に触れた、あの指の温度に。
一人の女性として、心を奪われていた。
そして、その女性は、母だった。
渉は、膝を抱えて顔を埋めた。
吐き気がした。
何て愚かなのだろうと思った。
母に、恋をした。
それは、人としての、決して越えてはならない一線だった。
言い訳はいくらでもできた。
母だと知らなかった。
二十三歳の澄子は母の顔をまだ持っていなかった。
そうやって、自分を庇うことはできた。
けれど、渉は知っていた。
自分が澄子に向けている感情が、息子のものだけではないことを。
それを否定することが、もうできなかった。
そして、そのライバルが、父だ。
渉は、顔を上げて、星空を見上げた。
一郎。
不器用で、誠実で、鯛焼きとケーキを黙って買ってくる男。
澄子を見つめる、あの目。
あの目には、嘘がなかった。
あの人は、澄子を愛している。
心の底から、愛している。
そして、澄子も、無意識のうちに一郎の癖がうつるほど近くにいた。
二人は、結ばれる。
それは、決まっていることだった。
結ばれて、三年後に、渉が、生まれる。
そして、その六年後の、十二月七日に。
渉は、息を、止めた。
雨の夜。
小さな交差点。
あの二人は、命を落とす。
渉は、拳を握りしめた。
その事実を、渉だけが知っていた。
あと六年。
あの二人に残された時間は、わずか六年だった。
その時間の中で、二人は渉を産み、育て、笑い合い、そして、いなくなる。
渉は、歯を食いしばった。
言えない、と、思った。
絶対に、言ってはいけない。
時間は、変えられない。
変えてはいけない。
変えれば、自分は、存在しなくなる。
いや。
渉は、はっと気づいた。
もし、今、自分が何かを間違えたら。
もし、自分が澄子の心を一郎から奪ってしまったら。
二人が、結ばれなかったら。
渉は、生まれない。
その考えが、冷たい刃のように胸を貫いた。
渉は、両手を見下ろした。
震えていた。
自分の存在が、いま、この瞬間、危ういバランスの上に立っていた。
そして、そのバランスを崩しかねない感情を、渉は澄子に抱いている。
その事実が、渉を打ちのめした。
夜風が、枯れた柿の枝を揺らした。
かさかさ、と、乾いた音が静寂の中に響いた。
渉は、膝の上で拳を握ったまま動けなかった。
愛していた女性が、母だった。
そして、ライバルが、父だった。
この二つの事実が、渉の中で同時に存在していた。
どちらも否定できない。
どちらも受け入れがたい。
母に恋をした自分への、嫌悪。
父に嫉妬した自分への、羞恥。
父に会えた、喜び。
母に会えた、喜び。
二人を失う、未来への恐怖。
自分が消えるかもしれないという恐怖。
それらの全てが、渦を巻いて渉の胸の中でぶつかり合っていた。
どれがどの感情なのか、もうわからなかった。
渉は、膝に顔を埋めて声を殺して震え続けた。
階下から、足踏みミシンの音がかすかに聞こえてきた。
かたかた、かたかた。
規則正しい、小さな音。
渉は、その音に耳を傾けた。
叔母のミシンの音。
そして、ふと、思い出した。
叔母が、一度だけ渉に言ったことがあった。
渉が、高校を卒業して東京へ旅立つ日の朝だった。
叔母は、台所で握り飯を握りながら背中を向けたまま言った。
・・おまえは、お父さんによく似てるよ。
そのとき、渉は何も答えなかった。
ただ、「そう」と、短く返事をした。
叔母は、それ以上何も言わなかった。
けれど、あのとき、叔母の肩がわずかに震えていたことを、渉は、今、思い出した。
叔母は、知っていたのだ。
渉の中に、父が生きていることを。
口癖の中に。
仕草の中に。
歩き方の中に。
叔母は、毎日、渉の中に弟の面影を見ていたのだ。
渉は、顔を上げた。
涙が、頬を伝って顎から落ちた。
叔母に会いたい、と、思った。
会って話したい、と、思った。
あなたの弟はあんな人でした。
不器用で、口数が少なくて、けれど、誰よりも誠実な人でした。
そう、伝えたい、と、思った。
けれど、今は、それを伝える術が、なかった。
渉は、星空を見上げた。
オリオンが、西へ傾き始めていた。
長い、長い夜だった。
渉は、縁側に座ったまま、夜が明けるまで動かなかった。
東の空が白み始めるころ、遠くで豆腐屋のラッパが鳴った。
ぷうー。
気の抜けた、間延びした音。
渉は、その音を聞いて、ゆっくりと立ち上がった。
足がしびれていた。
夜明けの空は薄い桃色に染まっていた。
庭の霜が、朝日を受けてきらきらと光り始めた。
渉は、その光をじっと見つめた。
二つの確信を胸に抱えて。
もう逃げ場はなかった。
それでも、渉は息を吐いた。
白い息が、朝焼けの中に溶けていった。
今日も、五時半に、ことぶきへ行く。
母に、会う。
父に、会う。
どんな顔を、すればいいのか、わからなかった。
けれど、行く、と、決めた。
それが、今の渉にできる、たった一つのことだった。




