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第十五話 一郎と二人で

 十二月二十八日。

 その日、町の工場は一斉に仕事納めだった。

 夕方四時、川向こうからいつもより長いサイレンが鳴り渡った。

 ううううう、と、低い唸りが冬空を揺らしゆっくりと消えていく。

 それは、一年の終わりを告げる音のように聞こえた。


 渉は、五時二十分にことぶきの扉を開けた。

 からん、と、鈴が鳴った。

 窓際の席には、誰も、座っていなかった。

 壁の金属の時計が、静かに時を刻んでいる。

 ストーブの上のやかんが、細い湯気を吐いていた。

 カウンターの上に、小さなもみの木がまだ置かれたままだった。

 モールの金色が、橙の光を跳ね返している。


「いらっしゃい」

 マスターが、言った。

 それから、少し間を置いて続けた。

「佐々木さんから、電話があった」

 渉は、顔を上げた。

「会社の、大掃除で遅くなるそうだ。今日は来られないと」

 マスターは、カウンターの端に置かれた黒い電話機を指さした。

 黒電話だった。

 重厚なベークライトの塊。

 ダイヤルの丸い穴に、小さな指の跡がいくつも残っている。

 受話器から伸びた渦巻き状のコードが、カウンターの上にとぐろを巻いていた。

「渉さんに、よろしく、と」

「・・そうですか」


 渉は、窓際の席に腰を下ろした。

 ビロードの座面がひんやりと冷たかった。

 向かいの椅子は、空いていた。

 コートを、背もたれに掛ける。

 そのとき、ふと気づいた。

 澄子のいない席がこれほど広く見えるとは。


 マスターが、何も言わずにコーヒーを運んできた。

 湯気が、白く立ち昇る。

 渉は、カップを両手で包んだ。

 掌から、温もりが染みてくる。

 窓の外では、路地の街灯がまだ点いていなかった。

 渉は、その灯りが点く瞬間を一人で待った。


 一人で、いる時間が長かった。

 ストーブの炎が、小さく揺れる。

 サイフォンの泡立つ音。

 マスターがカップを拭くかすかな音。

 それだけだった。


 壁の時計の針が、六時を少し回った。

 街灯がぽっと点いた。

 渉は、思わず呟いた。

「点いた」

 応える声は、なかった。

 その静けさが胸に染みた。


 からん、と、鈴が鳴った。

 渉は扉のほうを見た。

 紺色のジャンパーの肩がのっそりと入ってきた。

 作業帽を脱ぐ。

 髪が、汗で少し湿っている。

 顔が、煤でうっすらと汚れていた。

 一年分の仕事の疲れがその肩に滲んでいる。

 一郎だった。


 彼は店内をぐるりと見渡した。

 窓際の席に、渉が一人で座っていることに気づいた。

 その視線が、一瞬空いている向かいの席に止まった。

 それから、ゆっくりと渉のほうへ歩いてきた。

「・・澄子は」

「今日は、来られないそうです。会社の大掃除で」

「そうか」

 一郎は短く言った。

 それから、少し迷うように立ち尽くした。

 帰るのだろうか、と、渉は思った。

 けれど、一郎は向かいの椅子を引いた。

 ゆっくりと腰を下ろした。

 椅子がぎいと軋んだ。


「コーヒー」

 一郎が、カウンターに向かって言った。

「ああ」

 マスターが頷いた。

 二人の間に、沈黙が、落ちた。

 渉は、カップを見つめた。

 顔を、上げることができなかった。

 昨夜、縁側で確信した。

 この人が父だと。

 そして、今その父が目の前に座っている。

 二人きりで。

 何を話せばいいのかわからなかった。

 一郎は、テーブルの上の、灰皿を引き寄せた。

 ハイライトの青い箱から一本を抜き取って、くわえる。

 マッチを擦る。

 炎が一瞬その顔を橙に染めた。

 煙がゆっくりと天井に昇っていく。


 マスターが、コーヒーを運んできた。

 一郎は、砂糖壺の蓋を開けた。

 小さなスプーンで一杯すくってカップに入れる。

 くるくるとかき混ぜる。

 その手つきが驚くほど丁寧だった。

 ごつごつした指が、小さなスプーンを壊れものを扱うようにそっと動かす。

 渉は、その手を見つめた。

 この手が、三歳の自分の足首を握ったのだと思った。

 喉の奥がきゅっと痛んだ。


「・・あんた」

 不意に一郎が口を開いた。

「はい」

「澄子と、どういう関係なんだ」

 渉は、顔を上げた。

 一郎がまっすぐに渉を見ていた。

 切れ長の、奥二重の目。

 それは、責めるような目ではなかった。

 ただ、真剣なまっすぐな目だった。


「・・友人、です」

 渉は、答えた。

 声が、かすれていた。

「友人」

「はい」

「そうか」

 一郎は、煙草を灰皿に置いた。

「澄子は」

 彼は、言葉を選ぶように、少し黙った。

「あんたといるとき、楽しそうだ」

 渉の胸が、ずきんと痛んだ。

「俺といるときとは、違う顔をしてる」

 その声は、静かだった。

 怒りでも嫉妬でもなかった。

 ただ、事実を淡々と述べているだけだった。


「俺といるときの澄子は、いつも少し緊張してる。何か言わなきゃいけないような顔をする。俺が口下手だから気を使ってるんだ」

「そんなことは」

「いや、わかってる」

 一郎は首を振った。

「俺は、そういう人間だ。昔から人と話すのが苦手で。何を言っても相手を困らせてしまう」

 一郎は、カップを手に取った。

 口をつけずに、ただ、湯気を見つめている。

「でも、あんたといるときの澄子は、違う。肩の力が抜けてる。笑い方が柔らかい。・・あんなふうに笑う澄子を、俺は見たことがなかった」

 渉は何も言えなかった。

 喉が詰まっていた。


「・・悔しいと、思った」

 一郎がぽつりと言った。

「最初は。正直に言うと」

「・・はい」

「でも、今は、わからない」

 一郎は、カップをソーサーに戻した。

 かちり、と、陶器が小さく鳴った。

「澄子が笑ってるなら、それでいいのかもしれない、と、思う瞬間もある」

 その言葉に、渉の目の奥が熱くなった。

 この人は、そういう人なのだ、と、思った。

 自分が傷ついても、愛する人が笑っていればそれでいいと思ってしまう人。

 不器用で、まっすぐで、嘘がつけない人。

 それは、渉が、三十五年間一度も知らなかった父の姿だった。


「でも」

 一郎が、顔を上げた。

 その目が、渉をまっすぐに射抜いた。

「俺は、澄子にうまく気持ちを伝えられない」

 声が、低くひび割れた。

「ずっと、近くにいたのに。何年も、一緒にいたのに。『好きだ』の一言がどうしても、言えない」

 一郎は、拳を、握りしめた。

「情けない男だと、自分でも思う」

「そんなことは」

「ない、と、言ってくれるのか」

「・・はい」

 渉は、はっきりと言った。

「情けなくなんか、ありません」

 一郎は、渉の顔をしばらく見つめていた。

 それから、ふっと息を吐いた。

「あんたは、いい奴だな」

 その言葉が、渉の胸に深く刺さった。

 いい奴、と、言われた。

 父に。

 三十五年間、一度も聞くことのなかった父の声で。


 渉は、唇を噛んだ。

 涙が、込み上げてきた。

 けれど、必死に堪えた。

「でも」

 一郎は、言った。

「身を引くつもりは、ないけどな」

 その声には、静かな、けれど、揺るぎない決意があった。

「あんたがいい奴でも。澄子があんたといて楽しそうでも。俺は澄子を諦めない」

 そう言い切って、一郎は、ふと、視線を逸らした。

 右手の人差し指で、鼻の頭を一度だけ触った。

 照れ隠しの、あの仕草。

 渉は、その仕草を見た。

 見ていられなかった。

 目を、逸らした。

 カップの中のコーヒーの水面に橙の灯りが揺れていた。

 涙が、一滴、その水面に落ちた。

 小さな波紋が、広がって消えた。

 渉は、慌てて顔を伏せた。

「・・煙草の煙が、目にしみます」

「そうか。悪い」

「いえ」


 一郎は、煙草を灰皿に押しつけて消した。

 その不器用な気遣いに、渉の胸がまた締めつけられた。

 しばらく二人は黙っていた。

 ストーブの炎がぱちぱちと小さく爆ぜる。

 サイフォンの湯がこぽこぽと泡立つ。

 壁の時計の針が静かに時を刻む。

 窓の外では、雪がちらつき始めていた。

 街灯の光の中で、細かな白い粒が斜めに流れていく。


「・・なあ」

 一郎が、言った。

「あんた、本屋で、働いてたんだってな」

「はい。短期ですが」

「本に、詳しいか」

「少しは」

「じゃあ」

 一郎は、少し、躊躇した。

 鼻の頭をまた触りかけて、やめた。

「頼みが、ある」

「何ですか」

「澄子に、年の暮れの、贈り物を、したいんだ」


 一郎は、ジャンパーの内ポケットから小さなくしゃくしゃの紙片を取り出した。

 鉛筆で、何かが書かれていた。

 渉は、それを受け取った。

 紙片には、拙い字で、「万年筆」「ノート」「本」と、書かれていた。

 そして、その下に、消しゴムで消した跡がいくつも残っていた。

「何をあげればいいのかわからなくて。今日、仕事帰りに、商店街をうろうろしたんだが、決められなかった」

 一郎は、気まずそうに、言った。

「あいつ、ノートに、何か、書いてるんだ」

「ノート」

「見たわけじゃない。ただ、仕事の休み時間とか、ことぶきで一人でいるときとか、何か書き込んでるのを何度か見かけた」


 渉の心臓が、一度跳ねた。

 澄子は、何かを書いている。

 本が好きで、もっと好きなことと繋がっていたいと願っていた、澄子。

 詩か、文章か、日記か。

 渉は、それを、聞いたことがなかった。

「だから、いいノートをやりたいと思った。それと、書きやすい万年筆と」

 一郎は、紙片をじっと見つめた。

「でも、俺には、何がいいのか、わからない。あんたなら、詳しいかと思って」

 渉は、紙片を、握りしめた。

 目頭が、熱くなった。

 この人は、澄子のことをよく見ている。

 誰よりも近くで、澄子の小さな仕草まで見逃さずに見ていた。

 渉の知らない澄子の一面を、この人は知っていた。

 それが、悔しかった。

 そして、同時に、救われるような気もした。

 この人は、澄子を見ていてくれる。

 これから、六年の間、澄子を見守り続けてくれる。


「商店街の、文房具屋に」

 渉は、声を振り絞った。

「丸善の、ノートに似た、厚手のものが、置いてあるはずです。罫線が薄くて、紙が、なめらかなやつ。万年筆は、パイロットの、細字が、いいと思います。インクの色は、ブルーブラックで」

「ブルーブラック」

「はい。時間が経つと、少し、黒に近づいて、落ち着いた色になります。澄子さんなら、きっと、気に入ると思います」

 一郎は、頷いた。

 それから、渉の言葉を忘れないように、小さく唇を動かして繰り返した。

 パイロット。

 ほそじ。

 ブルーブラック。

 渉は、その姿を見つめていた。

 三十五年間、会いたくて会えなかった人が、目の前で一生懸命澄子への贈り物を選んでいる。

 胸の奥が、熱いもので満たされていった。


「・・助かった」

 一郎が、言った。

「礼は、いりません」

「いや」

 一郎は、立ち上がって、ジャンパーのポケットから小銭を取り出した。

「ここの、コーヒー代は、俺が持つ。年の暮れだ」

「でも」

「いいんだ」

 一郎は、カウンターに二人分の小銭を置いた。

 それから、ふと、思い出したように、渉のほうを振り向いた。

「そういえば」

「はい」

「あんたの名字、桐島、だったか」

 渉の背筋が、冷たくなった。

「はい」

「珍しい苗字だな」

「・・田舎では、ちらほら、いる苗字です」

 咄嗟に口をついて出た。

「そうか」

 一郎は、首を傾げた。

「どこかで、聞いたことがあるような気もするんだが」

 渉は、息を止めた。

 けれど、一郎はそれ以上追及しなかった。

「まあ、いいか」

   それだけ言って、一郎は作業帽をかぶった。

「また、な」

 そう言い残して、一郎は扉を開けた。

 からん、と、鈴が鳴った。

 冷たい夜気が、店内に流れ込んだ。

 扉が、閉まった。


 窓の外を一郎の背中が通り過ぎていく。

 前かがみの肩が、ゆっくりと揺れる。

 雪が、紺色のジャンパーの肩に舞い降りては消えていった。

 渉は、その背中を窓越しに見送った。

 街灯の灯りの輪を、一つまた一つと通り抜けて、やがて闇に溶けた。

 渉は、深く息を吐いた。

 それから、テーブルの上を見た。

 一郎が、座っていた席の前に、飲みかけのコーヒーが残っていた。

 湯気は、もう消えていた。

 渉は、その冷めたカップをじっと見つめた。

 この男に、澄子を、頼めるかもしれない。

 その考えが、静かに、胸の中に浮かび上がってきた。

 それは、渉にとって驚くほど穏やかな感触だった。

 嫉妬も、苦しみもまだ消えてはいない。

 けれど、その底に、細く確かな光があった。


 あの人は、澄子を愛している。

 口下手で、不器用で、けれど、誰よりもまっすぐに。

 澄子の笑顔を、何より大切に思っている。

 自分が傷ついても、澄子が笑っていればそれでいいと思ってしまうほどに。

 そして、澄子の小さな秘密まで、見逃さずに見ている。

 この人になら。

 渉は、拳を握りしめた。

 この人になら、澄子を任せられる。

 そう思った自分に、渉は愕然とした。

 それは、澄子を諦めるということだった。

 渉は、自分の胸に手を当てた。

 心臓が、どくん、どくん、と、痛いほど鳴っていた。

 その痛みは、恋の痛みだった。

 母に対する、愛の痛みでは、なかった。

 一人の男として、一人の女性を愛した痛みだった。


 渉は、目を、閉じた。

 その痛みを、受け止めようとした。

 けれど、まだ、受け止めきれなかった。

 まだ、手放す覚悟が、なかった。

 それでも、渉の中で、何かが確かに動き始めていた。


 まだ、輪郭も持たない、小さな変化。

 それは、一つの、決意の芽だった。

 渉は、カップを、手に取った。

 冷めたコーヒーを、一口啜った。

 苦かった。

 けれど、その苦味の奥に、一郎が入れた砂糖の微かな甘みが残っていた。


 窓の外の雪が、少しずつ激しくなっていく。

 街灯の光の中で、白い粒がゆっくりと踊っている。

 渉は、それをいつまでも見つめていた。

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